2019年7月22日月曜日

2019.07.07 歌劇「歌法師 蓮生」 宇都宮市民芸術祭40周年記念事業

宇都宮市文化会館 大ホール

● 開演は午後2時。チケットはSとAの2種。行こうか行くまいか。後者に傾いていた。が,その傾きを押し返して,出かけてみましたよということ。
 なので,当日券を買って入場した。A席の当日券が3,500円。

● 鎌倉幕府の御家人であった,宇都宮家第5代当主の宇都宮頼綱が出家して実信房蓮生と号した。その蓮生が物語の主人公。
 「百人一首の生みの親「歌法師 蓮生」物語」というのが副題なんだけれども,いくら何でもそれは言いすぎだろうと思われることはさておく。

● さておくけれども,小倉百人一首は藤原定家が編纂したものであって,だからこそ価値を持つ。室町後期に出た「宗祇抄」によって,小倉百人一首は一般にも知られるようになった。それによって,蓮生の名も後世に残ることになった。
 蓮生は発注者には違いないし,発注できるだけの財と縁戚関係を築いていたことは間違いないけれども,触媒としての役割に限ってもその功績は限定的ではないか。蓮生は歌人としてよりもむしろ武人として,あるいは事業家として,時代に対して貢献しているように思われる。

● 蓮生は伊予国守護にも任ぜられている。彼自身が任地に赴いたのかどうかは知らないけれども,愛媛県の西部(大洲,八幡浜,宇和島あたり)には,かなりの数の宇都宮さんがいる。
 彼らのすべてが宇都宮氏の子孫かどうかはわからないが,宇都宮氏の子孫が宇都宮市に存在しているとは聞いたことがない。本貫の地ではなく遠く離れたところに命脈を保っているのは,しかし,普通にあることだろう。

● 蓮生は88歳で京都で没している。当時の88歳だ。歌にだけ没頭していた,内省的で青白きインテリであったはずがない。
 彼にとっての歌は,おそらくそれなしではすまないというものではなく,スタイルのひとつに過ぎなかったのではないかと思ってみる。宇都宮歌壇というのも,自分を装飾するもののひとつだったと見なしていたろう。
 若い頃の波瀾万丈や散財を思うと,遊びも派手であったろう。むしろ,そういうところにぼくは惹かれる。誰か彼の人物像を再造形してくれないだろうか。

● ところで,これはオペラなのかオペラとは似て非なるものなのか,面白いのかつまらないのか。どうもよくわからなかった。判別がつかない。
 まず,合唱を除くと歌らしきものがない。第2幕第1場の為家と小萩の二重唱が唯一の例外。あとは歌なのか節の付いた台詞回しなのか,どうもよくわからん。

● その台詞が冗長だ。冗長と感じるのは台詞で状況や経過の説明をしているからで,その説明はすべて要らないのじゃないか。
 なぜかというに,傀儡子を3人も登場させて,説明を請け負わせているからだ。それで背景は充分にわかる。

● それとは別に,言葉の刈り込みが足らないと感じた。というか,刈り込んでいない。足し算ばかりで引き算がない。
 まぁ,引き算は気づきにくいから,きちんと抑制は効かせてあったのに,こちらが感知できなかっただけかもしれない。その可能性は大きい。
 その上での話なのだが,その台詞を聴かされるのは,たとえ節が乗っていたとしても,けっこう辛い。

● 逆にいうと,この脚本でここまで持ってこれたのは大したものだとも思う。照明の使い方,セットの使い回しといった舞台設営の妙もあるのだけれど,蓮生の奥方の初瀬を演じた伊藤裕美さんの功績が大きい。
 それから,舞台袖に控えて尺八を担当した福田智久山さん。この尺八がじつにもって効果的で,空気を切り裂かないのに鋭角的に遠くまで吹き渡っていく。不思議な調べだな。
 千年前の京都という設定にうまくはまるのだ。この舞台の前提には“幽玄”が横たわっている。いや,そうであるはずだという前提にこちらが立ってしまっている。その浅はかな思い込みかもしれないこちらの姿勢に,尺八は絶妙に絡んでくる。

● 結局のところ,オペラっていうのは,演者の個人技の集積だと思っている。総合芸術には違いないんだろうけど,核にあるのは個人技。脚本だの演出だのは,その邪魔さえしなければそれでいい。
 どうもモヤッとしたものが残るのは,その個人技を十全に出させていなかったからではないか,と。

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