ミューザ川崎 シンフォニーホール
● マーラー祝祭オーケストラの演奏を聴くのは,これが2度目。2015年8月に同じ会場で「大地の歌」を聴いている。「大地の歌」を生で聴いたのは,後にも先にもこれ1回だけ。
今回の定演はマーラーではなく,新ウィーン学派の代表作を取りあげた。
ベルン 管弦楽のための「パッサカリア」
ベルク ヴァイオリン協奏曲「ある天使の思い出に」
シェーンベルク 交響詩「ペアレスとメリザンド」
● 開演は午後2時。チケットは2,000円。当日券で入場。指揮は井上喜惟さん。
「ある天使の思い出に」のソリストは久保田巧さん。この楽団とこのソリストの演奏で聴けるのだから,川崎まで来たのも宜なるかな。
● とはいえ,ぼく的には新ウィーン学派というのは難解の代名詞だ。それはおそらく,ぼくだけではないのだと思う。それかあらぬか,客席はけっこう空席が目立った。新ウィーン学派は集客には寄与しない。それも宜なるかな。
しかし,にもかかわらず会場に足を運んでいるお客さんは,ぼくを別にすれば,けっこう聴き巧者が多かったようだ。開演前や休憩中の彼らの会話を聞いているとね。へえぇ,そんな見方もあるのか,と思うような話をしている。指揮の井上さんを個人的に知っているらしき人もいた。
● 木管,特にクラリネットに瞠目。が,依然として,ぼくには難解なままだ。正直言うと,よくわからんのだ,新ウィーン学派。
CDで何度も聴けば,何かが開けてくるんだろうか。開けた先に何があるのか。すでにそれを見ている人はあまたいるのだろうが,ぼくはとてもその境地には至れていない。
● 作家の百田尚樹さんが著書『至高の音楽』において,バッハの「平均律クラヴィーア曲集」を取りあげ,十二音技法について言及している。
この旋律は厳密にはロ短調だが,凄まじいばかりに半音階が使われていて,ほとんど無調性のように聴こえる。(中略)これは私の想像にすぎないが,おそらくバッハはドデカフォニーの原理を知っていたのだと思う。しかしドデカフォニーだけでは美しい音楽にならないことも同時に知っていた。だからこそ,その一歩手前で踏みとどまったのだ。(新書版 p30)
百田さんは音楽アカデミーに属する人ではないから,この指摘もほとんど無視されているのだろうけれども,超素人の感想ながらストンと納得できる。そうだろうと思う。バッハのみならず,モーツァルトもハイドンも気づいていたんじゃなかろうか。
● ミューザ川崎,来るたびにいいホールだと思う。WALKMANでブラームスの3番を聴きながら,開演を待っていた。開演されなくて,このままずっとこの場所でWALKMANを聴き続けているのもいいなぁ,と思っていた。
WALKMANで聴いているんだから,静かなところならどこでもいいわけだ(多少の雑音はあってもいいけど)。けれども,WALKMANから直接鼓膜にぶつかる音を聴いているのでも,このホールの1席に座って聴いていると何かが違うような。
● ぼくの乏しい体験からすると,ミューザ川崎が日本で最もいいホールだ。音響,導線,大きさ,スタッフの対応,使い勝手,などなどトータルクオリティで,たぶん,ここが日本一。たぶんと言うのは,西日本のホールはまったく知らないから。
同じ日の同じ時間帯に複数の演奏会があることは,まぁよくあることだ。楽団や演奏曲目によって2つまで絞ることができた。さて,2つのうちのどちらにしようかというときに,ホールで決めるのはわりとあることではないか。
● わが家からだと,上野東京ラインの開通によって川崎まで乗換えなしで行けるようになった。川崎がグッと近くなった。
末永くお世話になれればいいと思うのだが,さてさて。
日経ホール
● 昨年に続いて2回目の拝聴。4団体が演奏。4時間半の長丁場。開演は午後2時半。入場無料。
● トップバッターは明治大学OB交響楽団。フルメンバーではない。
ゴフ・リチャーズ ア・ラ・カルト
ドヴォルザーク 管楽セレナーデ ニ短調
● 「ア・ラ・カルト」は金管に打楽器が加わっての演奏。“テンピース型”というらしい。「ア・ラ・カルト」というタイトルは聴いてみればわかる。曲目解説によると「世界各国の絶品料理をイメージして各楽章が作られている」らしいのだが,この旋律,どこかで聴いた,というのが出てくる。そちらの方でア・ラ・カルトなのかと思った。
ドヴォルザークの「管楽セレナーデ」は,有名なわりに生で聴く機会はそんなに多くないって感じ。なので,こういう機会は貴重かもね。
管楽といいながらフルートが入っていない。ホルンのほかにチェロとコントラバスが加わる。
● 次は千代田フィルハーモニー管弦楽団。指揮は水村怜央さん。
ウェーバー 歌劇「魔弾の射手」序曲
ドヴォルザーク 交響曲第8番
あれ,さっき弾いてた人がいるよ。って,両方で活動しているんでしょうね。
● ドヴォルザークの8番は花々が匂い立つような曲だと思っている。第3楽章の冒頭のメロディーがそのイメージを作っているかもしれない。
のだが,こうして聴いてみると,ずっしりとした重さを持つ曲でもあることがわかる。
● 化学オーケストラ。指揮は宮野谷義傑さん。
シベリウス 交響詩「フィンランディア」
ドヴォルザーク 交響曲第9番「新世界より」
● この楽団はとても面白い。何が面白いかというと,おそらくだけれども楽団運営の規範がないように思われる。作為を加えないで,なるようになるだろう的な,老荘思想を是としているのではないかと思える。
もちろん,実際がどうなのかは知るところではないし,実際なんてどうでもよろしい。そう思えるというところがとてもよい。
● そして奏でられた「フィンランディア」が素晴らしかった。いや,素晴らしいと言ってしまうのはどうなのかとも思う。聴き手の好き好きがあるからだ。ぼくはたぶん,「フィンランディア」が好きなのだ。
しかし,堂々たるというか遠慮のないというか,管弦の共振がホールを揺るがすような感じでね。ドボルザークの9番も同じような印象なんだけども,惜しむらくはホールの音響だ。残響がない。ホールが音をひとつにまとめることがない。
● 最後はMusica Promenade。指揮は瓦田尚さん。
團伊玖磨 祝典行進曲
ドヴォルザーク 交響曲第8番
ドヴォルザーク スラヴ舞曲集第2集より第7番
● 最初から最後まで客席にいるお客さんは案外少ない。お目当てがあるらしい。化学オーケストラの演奏が終わるとかなりの人が退出した。
けっこうな長丁場だから,聴く側も後半に入ると疲れてくる。後から登場するのは損か。まぁ,損とか得とかの問題じゃないんだろうけどね。
● 今回はどの楽団もドヴォルザークを取りあげていた。8番はかぶってしまった。自由選択だからこういうこともある。
團伊玖磨「祝典行進曲」は初めて聴くもの。ここまではルンルンだったんだけどね。ドヴォルザークになると,さすがに同じ日にフルサイズで8番を2回聴くのは腹に堪えるなぁ。嫌いな曲ではまったくないんだけど。
というわけで,実質,2回分のコンサートを聴いた。
● 今はこうして栃木の在から花のお江戸にやってきて,暢気にクラシック音楽の演奏を聴いていられるが,それができるのは来年の3月までだ。
4月から仕事を完全引退して隠居生活に入るのだ。収入が激減する。東京までの電車賃がけっこうきつい額に感じるようになるだろう。
● お金がない状況はまぁ平気だ。対応できる。インターネットというお金無用の暇つぶしの手段もあるんだしね。お金の効用は,インターネット以前に比べると明らかに低下している。
ぼくらの世代は,田舎ではほぼ全員がそうだったと思うのだが,子供の頃はおしなべて貧しかった。ぼくらが子供の頃にやっていた暮らしを今やったら,間違いなく生活保護に該当するだろう。いうなら貧しさがプレインストールされている。
● 来年4月からは,地元だけになると思う。したがって,聴く頻度も減るだろう。
それでいいのだと思っている。お金云々とは別に,もっと早くそうすべきだったとも考えている。
那須野が原ハーモニーホール 大ホール
● 昨夜から今日の未明にかけて,関東や東北は大変な目にあった。台風19号が猛威をふるった。
にもかかわらず,今日予定していた演奏会を,何と予定どおり催行する楽団がある。台風上陸の前に催行を決めていたわけだ。「13日(日)は台風一過の晴れ予定のため,予定通り決行致します」ってね。
● 良くいえば蛮勇に満ちている。普通にいえば思慮がない。短くいえばバカである。
それはそうだろう。今回の台風は大雨特別警報が出たほどのとんでもない台風だったのだ。とんでもない台風であることは事前にわかっていたはずなのだ。
13日は晴れたところで,ホールが浸水被害を受けて使えなくなる可能性だってあったはずだ。川が氾濫して道路や鉄道が寸断され,お客さんが来れなくなっていたかもしれない。
なのに,13日は晴れているはずだからやるというのだ。何も考えていないのだ。思考過程に変数を組み込むことを知らないのだ。
● こういうものは事後に言語で説明できないといけない。かくかくしかじか,こういうふうに考えて,催行を決定しました,と。結果オーライだからいいというものではないのだ。
説明できるほどに考えていないことは明らかだ。こういう者に大事な決定は任せられないよね。
● が,結果はオーライだったのだ。電車で出かけたのだけれども,宇都宮~黒磯間はほぼ定時運転を維持していた(烏山線は運休)。
氏家を過ぎて荒川を渡り,片岡を過ぎて内川を渡り,矢板を過ぎて箒川を渡る。水嵩は少し引いているのだろうけれども,怒濤の流れだ。荒川に架かる鉄橋はソロソロと渡った。それでも定時運転を維持。
西那須野駅からホールまでの道路もまったく問題なし。このあたりは無傷で残ったらしい。
● ぼくはといえば,12日は台風対応のため,朝から24時間の勤務についた。こういうときでも2時間程度の仮眠はできるものなのだが(といって,寝るための設備はないので,デスクに突っ伏して寝ることになる),今回ばかりはそんな時間もなかった。次々に情報が入るからだ。
で,今朝は10時前に帰宅して,そのまま布団に入って寝た。目が醒めたら正午だった。
● 今から出れば間に合うというわけで,ハーモニーホールにやって来たのだ。やはりバカの範疇に入るかなぁと思わぬでもない。
催行してくれたから,昼間に寝る時間を2時間に抑えることができた。寝てるだけの1日と演奏会を聴きに行けた1日では,当然にして後者の方が彩りが鮮やかだ。それもこれも,主催者の考えなしの開催断行のおかげであるな。
マロニエ交響楽団の定演は2年に1回なので,中止にはしたくないだろう。そこはよくわかる(つもり)。
● 開演は午後2時。当日券(1,000円)で入場。曲目は次のとおり。指揮は柴田真郁さん。
ガーシュウィン ラプソディ・イン・ブルー
チャイコフスキー ピアノ協奏曲第1番
ドヴォルザーク 交響曲第7番
● が,今回,プレコンサートがあった。ガーシュウィンの「3つのプレリュード」。サクソフォン,バンジョー,パーカッション,ピアノの4人。ピアノは今回のソリストである黒岩航紀さんだったのだが,他の3人はこの楽団のメンバーなのだろうと思って聴いた。
が,どうも違うっぽい。サックスなんか,ちょっと巧すぎる。何者なのかね,この人たちは。
● さて,本番。「ラプソディ・イン・ブルー」は何と言えばいいんだろうかなぁ。これだっていう。これが聴きたかったんだっていう。
アメリカのホールでアメリカ人の演奏を聴いているような気分になったというか(ガーシュウィンはユダヤ系ロシア人で,長じてからアメリカに移住したのだったと思うが)。もちろん,アメリカで「ラプソディ・イン・ブルー」を聴いたことなどないわけだけどね(っていうか,アメリカ本土に行ったことがない)。
● 黒岩さんは存分に暴れて指揮者を慌てさせることもできなくはなかったろうけど,そういう行儀の悪さはなし。
でも,行儀の悪さも見たかったよね。柴田さんは慌てながらも対応するだろうから,その対応ぶりも見てみたかった。一番迷惑を被るのは楽員ということになるか。
● チャイコフスキーも黒岩さんのピアノ。これはもう見事なものだとしか,ぼくには言えないんだけれども,問題は管弦楽だ。
過去に何度か聴いている。化粧品ではないけれど,聴くたびにハリとツヤを感じてはいた。のだが,ここまで巧かったか。
● 黒岩さんのアンコールはラフマニノフ「前奏曲嬰ハ短調」(鐘)。プレコンサートから出ずっぱりで,アンコールまであるとはちょっと驚き。
● さて,このあとはオケだけでドヴォルザークの7番ということになるのだが,水準の高さにいよいよ驚く仕儀となった。
第3楽章。舞曲の旋律を刻む1st,2ndのヴァイオリン。聴覚を閉じて,視覚だけで見ても,鑑賞に耐えるというかな。動きが美しい。“オーケストラ舞踊”と命名したくなった。
チャイコフスキーから感じていたのだが,金管の透明度が高い。スラヴの曲を聴くときに,ここはかなり大きなポイントになるでしょ。
● この楽団の骨格は宇都宮大学管弦楽団のOB・OGだと理解している。今回は,栃響その他から相当に強力な助っ人が入っていたようなのだが,それでもこの楽団の演奏の色合いを決めているのは,創立当初からのメンバーのように思われる。それでよいのだろう。その基調は変えないのが正解のように思われる(たぶん)。
と申しあげたうえで言うのだけれど,今回の演奏に関しては助っ人組の貢献が大きかったかなぁ。
● さて,台風12号の傷跡が生々しく,瘡蓋さえできていないこの日に,演奏会を予定どおり催行するのも蛮勇ならば,聴きに来るお客さんもいかがなものか。
いかがなものかと思わせる人はそんなにはいないはずだと思いたい。良識を備えた人たちばかりだと思いたい。
ゆえに,客席はガラガラだろうなと思っていたのだけども,意外にそうでもないのだった。1階席に限れば席の過半は埋まっていた。
そんなことでいいのか? 君たちには他にやることはないのか? え? ご同輩。
ちなみに,2年前の第4回もハーモニーホールで開催されたのだが,そのときは台風前夜だった。台風を呼ぶ楽団なのだな。
白鷗大学 白鷗ホール
● OYAMAオペラアンサンブル公演を拝聴した。今回で29回を数えるのだが,こういうものがあることを知らないでいた。
今回これを知ることができたのは,けっこう前。どこかの演奏会で配られたチラシを見たからだ。
● この演奏会に限らないのだが,聴衆は高齢者が多い。60歳以下は全体の何割いるだろうか。3割くらいだろうか。
高齢者は早晩死に絶える(ぼくもまたそう遠くない将来)。そのあとを若い人たちの新規参入で埋めることができるかどうか。そこがどうも心配になる。
いや,心配には及ばないかもしれない。高齢者も次々に再生産されるからだ。高齢者の後は新たに高齢者になった人たちが埋める。そういう流れかね。
● 開演は午後2時。当日券(2,500円)で入場した。
チケットは事前に申し込んでおく方式のようで,当日券は販売しないんじゃないかと不安になった。が,そんなことはないのだった。そりゃそうだよね。座席数分を事前に完売できる演奏なんて,普通はない。ただ,その普通じゃないのに二度ほど遭遇したことがあるので,少し不安が兆したということ。
チケットの入手方法は必ずチラシに書いてあるはずだから,チラシをちゃんと読めばいいんだよね。わかっているんだけど,大きな文字で書いてある日時と会場名しか把握しないのが常。
● 公演は2部構成。第1部は主にはオペラのアリア。
トスティ “夢” “理想の人”
モーツァルト 歌劇「コジ・ファン・トゥッテ」より“恋人の愛の息吹は”
ヴェルディ 歌劇「椿姫」より“燃える心を”
プッチーニ 歌劇「妖精ヴィッリ」より“もしお前たちのように小さな花だったら”
ヴェルディ 歌劇「リゴレット」より“娘よ お父様”
● 字幕があったのはありがたかった。何度か聴いている曲もあるにはあるし,字幕なしでもこんな歌だろうと推測することはできるのだが,その推測が当たるとは限らない。
字幕があれば安心だ。字幕を読む分,演奏に向けるこちらのリソースが減るという弊害があるにはある。が,これはもう致し方のないことだ。
● 第2部が「カヴァレリア・ルスティカーナ」。Wikipediaによると“田舎の騎士道”という意味らしいのだが,観終えたあとでなるほどと思った。
ここまでヴィヴィッドな愛憎劇だったのか。あの有名な“間奏曲”も劇の途中の口直しになくてはならないものなのだな。
● 徹底的な演奏会形式で,バックも管弦楽ではなくピアノと弦楽カルテット。徹底的というのは,演者の動きもほぼ完全に抑えていたからだ。動きを与えてもらった方が演者はやりやすいのだろうけれど,そうなると舞台からの出入りも必要になってくる。
演奏会形式というのだから,この方が収まりはいいのだけどね。
● それでもとんでもない熱演。愛憎の生々しさに圧倒された。“間奏曲”がほんとに救いになった。
ストーリーがストーリーだから熱を込めやすいというのはあるんだろうけども,サントゥッツァには途中で怖くなった。トゥリッドゥももう少し上手くあしらえよとか思っちゃうんだけど,リアルに引き寄せてしまうのは,見方としては邪道なのでしょうね。
● 圧巻だったのは弦楽カルテット。舞台よりも近くで見たせいもあるのもしれない。ヴァイオリンもヴィオラもチェロも名人芸で,これで“間奏曲”を聴けたのはもっけの幸い。
聴いておいて正解。CDも聴きやすくなるはずだ。オペラをCDで聴くというのは,ぼくにはかなりの高ハードルで,持っていてもなかなか気が向かない。
最大の理由はCDには字幕がないからだが,全体が頭に入れば多少は違ってくるだろう。比較的小さいオペラでもあることも幸いしそうだ。
● でも,この歌劇,どうも既視感(?)がある。「あなたのサントゥッツァが泣いて頼んでいるのよ」という字幕にも見覚えがある。
5年前の東京大学歌劇団第42回公演でこの歌劇が上演されたのだった。それを観ているのだ。
そのときにどう感じたのか。今回と同じことを思ったのではないか。憶えていないだけで。