2020年9月30日水曜日

2020.09.27 サンフォニア・ドラマティーク 第8回演奏会

 ティアラこうとう 大ホール

● 4月から7月まで,音楽を聴ける機会はなかった。が,8月に入ってから,生演奏を聴くという贅沢を自分に味わわせてやれるようになった。
 とはいっても,東京においてはよりどりみどりで好きなのを選べるのが普通だが,現状ではそこまでは回復していない。あればラッキーというところにとどまっている。

● で,今日はサンフォニア・ドラマティークの演奏会を聴けるというわけなのだ。コロナが収束したとはいえないこの時期に開催してくれること自体が,かなりの程度にありがたい。
 聴く側は何の負担もしていない。開催する側の負担に全面的に拠っている。おんぶに抱っことはこのことだ。

● 開演は午後2時。入場無料。
 楽団のサイトによれば,この楽団は「音楽監督である佐藤雄一氏の音楽に共感し,さらにその表現の幅を拡げ,伝える事を目標に集ったアマチュア・オーケストラ」であるのだが,8回目にして初の拝聴となる。
 指揮はしたがって佐藤雄一さん。今回の曲目は,シューベルトの交響曲第8番と第7番。演奏の順番もこのとおりで,「ザ・グレート」を演奏してから「未完成」。

● オール・ベートーヴェンとかオール・ブラームスのプログラムはさほどに珍しくないと思うが,オール・シューベルトというのは,ぼくが聴く中では今回が初めてだ。
 ちなみに,次回はショスタコーヴィチの交響曲を2つ演奏する。こうした偏りはアマオケのみに許された求道(?)の方法かもしれないが,多くの場合,偏りはそのまま魅力でもある。

● この楽団にはもうひとつ特徴があって,本番の演奏を録音していることだ。素人録音ではなく,三点吊りが作動していたのではないか。
 過去の演奏会のCDやDVDの販売も。DVDというからには録画もしているわけか。自分たちの演奏を高品位で録音するのはやった方がいいに決まっている(と思う)。が,アマオケでそこまでやっているところはそんなに多くはない。わかっていても,なかなかやりきれないものだろう。この楽団はやっている。

● 「ザ・グレート」を一瞬の緩みもなく演奏しきれるオケって何だか凄いね。非常に明瞭で,曖昧さを残さない。曖昧さなんて残したら負けだ,と思っているがごとくだ。力があることの証明でしょう。
 聴いてるこちら側は何度も集中を欠いてしまった。まことに相すまぬことである。

● こうして今まで聴く機会のなかった楽団の演奏会を聴けているのも,コロナのお陰だといえば言える。追うべき楽団が増えるのは,ラッキーでもあるのだが,債務が増えたような気分でもある。
 追える範囲で追っていけばいい。このあたりは軽く考えておこう。軽く考えておくって,けっこう大事なことでもあると思うので。渡世術のかなり上位に来る心得かもしれないよ。

2020.09.26 オーケストラ・ノット ファイナル演奏会

 杉並公会堂 大ホール

● 4月5日にティアラこうとうで開催されるはずだったものが,今日に延期になった。4月の開催はどうやったって無理だった。ホール側が首を縦にふることはなかったろうし,もし強行できたとしても,世間から袋叩きにされたろう。街から人がいなくなってシーンとしていた時期だもんな。
 が,再度の延期にすることはなく,今日の催行にこぎつけた。関係者の労を多としたいという上から目線の定例句を述べても仕方がないのだが,ここで延期はしたくないよねぇ。やりたいでしょうよ。


● 開演は午後7時。入場料は1,000円。チケットは事前申込制。当日券もあったのかもしれないが,事前申込が基本だった。チケットはメールで送られてくる。スマホの画面を見せて入場。
 曲目は次のとおり。指揮は山上紘生さん。
 ラフマニノフ ピアノ協奏曲第3番
 スメタナ 交響詩「わが祖国」全曲
 スメタナの「わが祖国」をまとめて生で聴くのは,これが初めて。2時間半に及ぶ演奏会になった。


● まず,ラフマニノフ。ソリストは嘉屋翔太さん。若干20歳。には見えない顔立ちで,遠目には30歳だと言われればそうかと思う風貌だ。非常に大げさにいえば,20歳にしては異形の持ち主だ。異形は天下を取る相と言っていいだろう。大物になることが多い。
 加えて,中学・高校は開成。で,東大に行かずに,東京音大に特別特待奨学生として入学。ピアノの才能と3歳からの積み重ねの大きさが,東大に行くことを許さなかったのだろうと推測する。


● 嘉屋さんの脳とぼくの脳を比べても,ハードウェアとしては変わるところはないと思うんだけどねぇ。インストールされたソフトウェアが違うんだろうかなぁ。
 こういうのはね,考えても詮ないものだからね。人の一生は複雑系に属するもので,初期値のほんの僅かな違いが結果に大きな違いをもたらす,と考えておくより仕方がないよねぇ。
 その昔に流行った行動科学なんぞは,薄っぺらい子供騙しの戯言だったかもしれないね。あれって,操作主義に帰着しそうだもんね。こうすればこうなるって。そんなことはないんだって。複雑系なんだもん。


● 演奏はどうだったかといえば,大過ないという水準をはるかに超えて,とんでもなくハイレベルの仕上がり。ピアノのみならず,オケもすばらしい。現役の音大生を中心に,かつての現役生が加わっているのかと思われるのだが,若さは力なり,を実感したければ,この楽団の演奏を聴けばよい。
 随所で心地良さに浸ることができる。力のこもった演奏だ。その力のこもり具合と技術の高いレベルでの均衡。そうそうあるものではない。
 っていうか,ぼくごときが青かったとか赤かったとか,陳腐な感想を述べても仕方がないかと思う。

● 交響詩(symphonic poem)とは何か。Wikipediaによれば「管弦楽によって演奏される標題音楽のうち,作曲家によって交響詩と名付けられたものを言う」とあるのだが,こんな定義ではとうてい納得できない。作曲家が交響詩と付ければ交響詩になるって,なんだ,それ。まったく恣意的ではないか。
 「わが祖国」の第2曲「モルダウ」が何を描写しているかは有名だから,さすがにぼくも知っている。上流端からプラハ城にたどり着き,エルベ川に合流するまでのモルダウ川を描いたものだ。途中,結婚式があったり,妖精たちが舞っていたりする。その様子を音で表したものだ。

● そういうことを予め知ったうえで「モルダウ」を聴けば,そういうふうに聴こえないこともない。が,それを知らずにこの楽曲を聴いて,その “詩” を想像できるかといえば,それは絶対に無理だ。
 音でやる以上あたりまえのことなのだが,その “詩” はすこぶる抽象的なものにならざるを得ない。現代詩や抽象画以上に,作り手と受け手の間に共通了解事項を産みだすことは難しい。橋は架からない。

● したがって,交響 “詩” なのではなく,“交響” 詩なのだろう。作り手が描こうとした情景や心象風景は,直接的には(聴き手にとっては)どうでもよくて,音としてどうなっているかがまず問題にされる。標題はどうでもよろしいので,結局のところ,交響詩も絶対音楽の範疇に属するものだと考えていいのではないか。
 「わが祖国」においても,スメタナが語っているストーリーは,この曲を聴くにあたってタグとして使えるかといえば,ほとんど使えない。逆にいえば,それを知らなくても何の支障もなく,「わが祖国」を聴くことができる。徹頭徹尾,自分に引きつけて聴くのがよい。

● 弦の奏者はマスクを付けている。過剰反応かと思うが,そんなことは承知之助で演じているんだろうねぇ。
 指揮者はさすがにノーマスク。マスクを付けて指揮したら,はたして指揮が指揮として成立するだろうか。サングラスよりはマシだろうけど,ちょっと厳しいような気がするね。


● 次回は来年の5月8日。次々回は11月14日。次回までに法人化を完了している予定。法人化すると何かいいことがあるのかどうか,ぼくにはわからないが。今回は法人化前の楽団としてのファイナル演奏会というわけだ。
 この楽団の面白いところは,そのあたりの航海図をざっくりと決めて(つまり,細部までは詰めないで),出航してしまうところかもしれない。始めてみないと細部は詰まらないから,そのやり方でいいのだと思う。


● その前に10月31日(土)に室内楽の演奏会がある。モーツァルトの弦楽四重奏曲「春」をはじめ,魅力的なプログラムだ。盛りだくさんでもある。
 今年2月の第9回演奏会に続いて,今回が二度目の拝聴になるのだが,この楽団は可能ならしばらく追いかけて行きたい。

2020年9月24日木曜日

2020.09.21 アンサンブル・ジュピター 第16回定期公演

 杉並公会堂 大ホール

● 開演は午後7時30分。入場無料(カンパ制)。
 この時刻の開演だと,終演後すぐに電車に乗っても,自宅には帰りつけない。最終電車に間に合わない。新幹線を使えば間に合うんだけど,そこまでして東京まで聴きに行かんでもとの思いがある。
 が,今夜は東京に宿を取っている。後顧の憂いなく,地下鉄丸の内線で荻窪までやってきた。

● たぶん,今回に限ってはということなのだろうが,座席は指定される。ぼくに与えられたのは4列目だった。といって,1~3列は撤去されているので,最前列ということ。
 曲目は次のとおり。
 モーツァルト セレナード第6番 ニ長調「セレナータ・ノットゥルナ」
 チャイコフスキー 弦楽セレナード ハ長調


● この楽団の演奏を聴くのは初めて。と思っていたのだが,4年前に同じホールで聴いていた。ガッデム!
 「2005年,早稲田大学フィルハーモニー管絃楽団出身のメンバーを中心に結成」された楽団。ということを知って団員を見ると,みな利発そうに見えてくる。早稲田大学フィルハーモニー管絃楽団は早稲田大学の学生だけで構成されているわけではないのだが,それにしたってぼくから見たら。

● 卒業したばかりと思しき可愛らしいお嬢さんもいれば,キリッとした感じの元お嬢さんもいる。年齢幅はけっこうあるが,総じていうと若い印象を受ける。
 ひとつには,圧倒的な存在感を示したコンマスが若い人だったからだが,はるか昔は少年少女だったという団員も気が若いのだろう。


● 指揮は安藤亮さん。「早稲田大学在学中に早稲田大学フィルハーモニー管絃楽団を創立」したというから,一途な変わり者だったんでしょうかねぇ。
 早稲田には泣く子も黙る早稲田大学交響楽団という早稲田純正のオケがある。おそらく(というのは,すべての大学オケを聴いたわけではないからだが)大学オケではトップに位置する。もちろん,藝大や桐朋は除いてということにしておきたいのだが,ひょっとしてひょっとすると,それらを加えても・・・・・・と思わせるほどのものだ。
 安藤さんはそのワセオケと反りが合わなくて,スピンアウトしたんだろうかなぁ。そうして早稲田フィルを創設したとすると,これはもう英雄譚なんだがなぁ。


● モーツァルトはいいものだ。18世紀のウィーンの伯爵か侯爵になったような気分だ。席が最前列で観客が視界に入らなかったせいもある。しかも,当時の彼の地の貴族諸君よりいい演奏で聴いているはずだ。
 楽器も進歩しているだろうし,当時の貴族の館よりも今夜のこのホールの方が音響も優れているだろう。
 しかし,それよりも奏者の技術水準だ。18世紀のヨーローッパの愛好家よりも,現在の日本のアマオケの団員が上のはずだ。

● クラシック音楽もぼくが聴いているくらいだから,極限まで大衆化していると思うのだが,大衆化というのは悪いことばかりじゃない。それあればこそ,音楽の教育体制が整う。“教える”が業として成立する。録音音源の充実にも支えられているでしょうけどね。
 聴く側が当時の欧州貴族を超えたとは思えないが(何せ,彼らは楽譜を読むことによってその楽曲を鑑賞していたわけだから),演奏する側は,当時と比べれば,長足の進歩を遂げているだろう。

● 演奏も素晴らしかった。モーツァルトは,モーツァルトだけは,上手な演奏で聴きたい。天から降ってくるようなモーツァルトの旋律はやはりそれなりの水準の演奏で。
 この楽団は,その“それなり”を優に凌駕していて,モーツァルトを聴いているっていう歓び(というと大げさになるかもしれないけれども)をジンワリと味わうことができた。
 コンマスが全体を掌握していたので,この曲では指揮者は要らなかったかもしれない。が,それは奏者側が決めることで,客席からあれこれ言う話ではない(言ってしまっているのだが)。

● チャイコフスキーの「弦楽セレナード」も聴きごたえがあった。男性奏者が多い1st.Vnの,何と言ったらいいのか,プロ感というか見た目のプロっぽさというか,要するにカッコいいのだ。
 カッコいいのは内的躍動(?)を感じさせるからでもある。地表にいるぼくらには見えないけれども,地球の内部ではマグマが始終蠢いているのだぞ的な。


● 衒いのない,妙に内に籠もらない,フェイントをかけない,直球しか投げない投手のような,ストレートに響いてくる「弦楽セレナード」だった。どうよ,アタイのスッピンは,と言うような,ね。
 といって,バカ正直にスッピンを晒しているはずもないと思うので,スッピンに見える高度な化粧術を施しているのだろう。どのくらい練習したのだろうと思うのだが,そもそも持っている技術が高いのだろうね。

● 当初の予定ではベートーヴェンの第九を演ることになっていたらしい。ベートーヴェンの生誕250年を盛大に祝うつもりだったのに,それが叶わない情勢になった。この楽団に限らない。業界として見たって,逸失利益の大きさは途方もない。
 で,アンコールは,「ベートーヴェンの最も美しい緩徐楽章」である弦楽四重奏曲第13番の “Cavatina”。全5楽章の中の第4楽章,と聞いた気がするんだが,全6楽章の中の第5楽章。細かいことであいすまぬが。

● オーケストラも人間の集団だ。である以上,一枚岩はあり得ない。が,内部の軋轢や衝突や対立もエネルギーを生む母体になるのだろう。それらを孕みながらひとつの有機体として動くところに妙味がある。一枚岩では何の魅力も醸さない。
 中でしかるべき立場にある人は胃が痛くなる思いをすることもあるだろう。そんな思いをするのは仕事だけでたくさんなのに,と言いたくもなるだろう。が,それが魅力の代償であるかもしれない。
 というわけで,アンサンブル・ジュピター,記憶しておくべき楽団かと思う。

2020年9月23日水曜日

2020.09.19 弁天百暇堂 [別館] no.2 楽聖前夜

 早稲田奉仕園 スコットホール

● 弁天百暇堂なる人を喰ったような名前のグループの演奏会。
 弁天百暇堂とはいかなる所以で名づけられたか。配られたプログラム冊子に書いてある。それを読めばなるほどねと思うんだけども,なお “人を喰ったような” という印象が抜けたわけではない。
 演奏会名の “別館” とはこれまた何か。こちらもサイトに説明がある。やはりなるほどとは思うものの,別館ねぇという感覚が抜けない。


● が,そういうことはどうでもよろしい。この時期の開催だ。客席をひとつおきにしたり,来場者の検温をしたりという,余計な手間を引き受けての開催になる。それだけでお疲れさまですということになる。
 この時期に人が集まるコンサートに行く方も行く方じゃないの,と思う向きがあるかもしれないけれども,そうではない。クラシック音楽のコンサート会場でコロナのクラスタが発生する可能性は,絶対にないとは言わないけれども,九分九厘ないだろう。
 理由は単純で,喋らないからだ。喋らないんだから飛沫が飛ばない。おそらくマスクも不要だろうし,席をひとつおきにする必要もないと思う。


● 先月から催行するコンサートがあるようになって,発見したものは行くように努めている。コロナをもらったらどうしようか(逆に,無症状でも陽性である可能性もあるわけだから,感染させたらどうしようか)と不安に思ったことは一度もない。
 談論風発する酒場や至近距離で言葉を交わす風俗店とは違うのだ。あるいは,興奮して大声を出すような類のコンサートとも違うのだ。クラスタなど出るわけがない。


● 開演は午後2時。入場無料。事前予約制。曲目はオール・ベートーヴェン。
 2つのオブリガート眼鏡付きの二重奏曲 変ホ長調
 フルート,ヴァイオリン,ヴィオラのためのセレナード ニ長調(全7楽章のうち,第1,2,3,4,7楽章)
 モーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』の「お手をどうぞ」の主題による変奏曲 ハ長調
 弦楽四重奏曲 ヘ長調(ピアノ・ソナタ第9番の作曲者自身による編曲版) 
 4曲のうち,3曲はベートーヴェンが作品番号を付けなかったもの。生で聴ける機会はそんなにない貴重な曲だったとも言える。

● 音大を出てずっとブイブイ言わせてきた人たちではないように思う。いや,音大出もいるのかもしれないけれども,音楽がなければ私の人生もない,という視野狭窄の人はいないようだ。
 そういう若い時期を過ごしてきたのかもしれないけれども,今は要するに,ちゃんとした大人だ。仕事でもそれぞれの持ち分をキチンと(かどうかは知らないけれど,ともかく)果たしている人たちのように思える。
 その上での話なのだが,“好きでやってる” 演奏活動を一定以上に振り切っちゃってる人たちのようでもある。偏りがある。多くの場合,偏りは魅力でもある。


● 東京にはしばしば出てきているが,早稲田はあまり縁のあるエリアではなかった。これが三度目だと思う。
 早稲田にこんなところがあるとは知らなかった。教会のホールなのだが,一般に開放されている。比較的新しい建物のように思えたんだけど,完成は1921年で,都指定の歴史的建造物になっているらしい。きちんと風を入れているのだろう。

2020年9月16日水曜日

2020.09.13 アンサンブル ディマンシュ 第87回演奏会

 府中の森芸術劇場 ウィーンホール

● クラシック音楽の演奏会については満席にして実施することを容認する方向で,政府が検討中であるらしい。着々と正常化に向けて舵が切られている。
 いずれ,コロナウィルスについての知見が確定し,ここまでの対策や防御方法についての検証がなされるはずだが,飛沫感染にのみ注意すればよく,皮膚感染についての対策は無用であったとされるのではないかと,愚察している。
 まぁ,対策案の決定者と検証者が同一になるだろうから,自身の決定について完全否定するような文章にはなるまいが。

● しかし,現時点ではまだ中止や延期が普通だ。催行を決定するには少々の勇気が必要だろう。それ以上に手間が必要になる。体温測定だの,ホールの座席に着座不可の印を付ける作業だの。
 そうした勇気と手間をかけても催行するというのだから,こちらとしても行かざるべからず。っていうか,生演奏があるなら聴きたいということなんですけどね。4~7月はまったく聴けなかったわけだから,仇を取るといった気分がないわけでもないのだ。


● というわけで,東京は府中市にやってきた。オーケストラ ディマンシュなら二度ほど聴いたことがあるけど,こちらのディマンシュは初めてだ。
 開演は午後2時。入場料は1,000円。当日券もあるにはあるが,できれば前売券を購入してくれとのことだった。さもありなん。が,前売券の購入の仕方がわからなかった。
 で,どうしたかといえば招待券をもらっちゃうことにしたのでした。ので,今回は無料で入場している。

● 曲目は次のとおり。
 バッハ 管弦楽組曲第3番 ニ長調
 ファランク 交響曲第3番 ト短調
 ベートーヴェン 交響曲第4番 変ロ長調。
 指揮は平川範幸さん。まだ33歳か。指揮者の33歳は若いと言っていいんでしょうね。 

● 4月から毎日が日曜日になったのと,演奏会が軒並み中止になったのとで,CDを聴いてる時間が確実に増えている。
 ベートーヴェンとバッハがメインで,時々,ブラームスとモーツァルトを聴く。その外に出ることはほとんどないようになった。チャイコフスキーもマーラーも絶えて聴かなくなった。
 いいんだか悪いんだかわからないが,グレン・グールドに親近感を覚える。


府中の森芸術劇場
● で,バッハの管弦楽組曲第3番。CDはカール・リヒターのものが多くの支持を得ているようだけれども,ぼくは鈴木雅昭&バッハ・コレギウム・ジャパンの演奏で聴いている。
 理由があってそうしているわけではない。何もわからないで入手したのがそれだったからだ。他のCDと聴き比べることもしていない。たぶん,これからもしない。


● この第2曲を,後世,アウグスト・ウィルヘルミがヴァイオリン独奏のために編曲したものが「G線上のアリア」として有名になっている。ハ長調に移調するとG線のみで演奏できることからその名が付いたらしいのだが,東日本大震災のあとに「G線上のアリア」が鎮魂歌としてしばしばオーケストラによって演奏された。
 この場合に演奏されたのは,ニ長調の第3番第2曲ではなくて,ハ長調の「G線上のアリア」だったというわけですか。初歩的な疑問で申しわけないのだが,「G線上のアリア」というタイトルはそこまで厳密に用いられているものなのだろうか。第3番第2曲を「G線上のアリア」と呼ぶこともある,ということではなく。


● ファランクという作曲家の名前は初めて聞く。フランスの女性作曲家。プロブラムの曲目解説に彼女の経歴と業績が整理されている。
 その曲目解説によると,第1楽章はシューマンの,第2楽章はメンデルスゾーンの香りがする,とある。ぼくは全体的にチャイコフスキーに近いと感じた。
 もっとも,この曲がパリで初演されたのは1849年だそうだから,そのときチャイコフスキーはまだ9歳だ。

● この楽団では2014年にもこの曲を取りあげており,それが日本初演だろうとのこと。ぼくが知らないのは当然だったわけだ。
 CDはAmazonやタワレコのオンラインストアで手に入るが,巷のCDショップには置かれていないだろう。売れないはずだから。
 そういうものでも2~3日で手に入るんだから,インターネットは素晴らしい。ネット以前には,こういうときはどうしてたんだろう。海外のレーベルに手紙を書くか,ショップに取寄せを依頼するか。それはそれで,届くのを待つ楽しさがあったんだろうかな。

● ベートーヴェンの4番。ベートーヴェン生誕250周年の今年,久方ぶりにそのベートーヴェンを聴けた。文句なしの華でしょうねぇ。交響曲1曲で世界遺産千個に匹敵する。
 この曲はもっぱらカルロス・クライバー&バイエルン国立管弦楽団のCDで聴いている。それで何の不満もないのだが,こうして生で聴けると,得られる情報量がまるで違う。一回性の生演奏に立ち会うことでしか得られない臨場感と視覚情報。
 加えて,コンサートホールは音楽を聴く環境として最上であること。こういうホールで聴くんだったら,然るべき装置でCDを再生するのでも,相当な生感というか,録音音源であることを忘れさせるような臨場感に包まれて聴けるのでしょうね。

● アンコールは「G線上のアリア」。さて,これはニ長調の原曲なのかハ長調に編曲されたものだったのか。

2020年9月11日金曜日

2020.09.06 Piano Duo Nao & Yoshiaki Recital

逗子市 結・yui コミュニティホール

● 4日から東京に遊びに来てて,今日,帰る。帰るんだけども,新橋から横須賀線に乗って,自宅とは真逆の方向にある逗子にやってきた。
 ピアノデュオのコンサートがあるからだ。この時期,生音を聴ける機会は貴重だ。自宅とは真逆の方向であっても,行ける距離ならば行くのだ。

● 唯一面倒なのは,今の時期は当日券というのが事実上なくなっていることだ。当日,受付で,現金と引換にチケットを渡すというのをしなくなっている。
 ソーシャルディスタンスを確保するために,座席数を4分の1しか使わなかったりするので,事前に来場者数を確定しておきたいのでもあるだろう。

● 今回も事前にメールでチケットの取置を依頼するというひと手間があった。10秒もあればすむ手間であって,手間というほどのことでもないのだけれども,ふらっと行ってみるってのはしにくくなっているね。
 催行する側の手間はこんなものではない。これをいつまで続けなくてはならぬのか。
 まったく中国の不手際が恨めしい。ササッと情報を公開して武漢を封鎖していれば,「武漢で妙な風邪が流行ったようだよ」ですんでいたろうに。

● さて。金村奈緒さんと佐藤善彬さんのピアノデュオ。開演は15時30分。チケットは1,500円。
 お二人とも20歳。慶応の理工学部の学生。音大を受けても余裕のよっちゃんで合格していたはず。
 いろんな意味で羨ましいわけだが,個体に大いなるばらつきを与えるのが神の御業というものでしょ。

● 曲目は次のとおり。この時期としては,アンコールを含めて2時間弱の堂々たるリサイタル。

 ラヴェル(シム編) 亡き王女のためのパヴァーヌ(2台ピアノ)
 ドビュッシー 小組曲(連弾)
 デュカス 交響詩「魔法使いの弟子」(2台ピアノ)

 バッハ 楽しき狩こそ我が悦び アリア「羊は憩いて草を食み」(連弾)
 モーツァルト 2台のピアノのためのソナタ ニ長調 K.448(2台ピアノ)

 ラフマニノフ ロシア狂詩曲 ホ短調(2台ピアノ)
 ラヴェル ラ・ヴァルス(2台ピアノ)
 アンコール:ラフマニノフ 「組曲 第2番」より “序奏”(2台ピアノ)

● まず思ったのは,音楽や演奏とはまったく関係のないことで,金村さんはチラシの写真より実物が美人だなってことなんですよね。ということは,写真が間違っている。
 素人が撮ったスナップ写真ではなくて,プロに撮ってもらうべき時期に来ているのではないかなと思った。ちゃんと自分の外見の美しさを捉えた写真を使うこと。

● 腕の確かさは相当なものとお見受けする。音大でもここまでの技量の持ち主はそうそういないのでは。
 それぞれがソロでやるのももちろんありだと思うけれども,デュオとしての歯車の噛合がミクロン単位でヤスリをかけたように(そんなヤスリがあるのかどうかは知らないが),精緻を極めている。
 1+1が2ではなく,3か4になっている,という印象。最初の「亡き王女のためのパヴァーヌ」を聴いて,なるほどねぇと独り言ちた。何がなるほどなのか,自分でもわからないのだが。

● 最も印象に残ったのは,デュカス「魔法使いの弟子」。デュカスの “遊び” を表現するのに,2人の若さが放つ何ものかが決定的な作用を果たしている。たとえば,金村さんの席に仲道郁代さんが,佐藤さんの席に横山幸雄さんが座って,同じ曲を弾いたとしても,この面白さはおそらく生まれない。
 この曲では佐藤さんの技量に瞠目。デリカシーという言葉を思いだした。

● デリカシーとは,新明解国語辞典によれば「繊細(な心づかい)」とある。その意味でのデリカシーだ。
 女性が彼氏や恋人に向かって,「デリカシーのない人ね」と非難するときのデリカシーではない。そのデリカシーは,エゴの別名だからね。どうして私に快をくれないの,という意味だからさ。デリカシーのまさに対極。

● モーツァルトの「2台のピアノのためのソナタ」もちゃんと聴いたのは初めてだ。帰ったら,すぐさまCDをウォークマンに転送することに決めた。こういう曲を聴かないまま一生を終えてしまっていいはずがない。
 そういうことを実地に教えてもらえるのも,こうした演奏会の功徳にかぞえていいだろう。果たせない宿題が増えてしまうということでもあるのだが。

● というわけで,逗子に来て正解だった。満足感に浸りながら,湘南新宿ラインの列車に乗りこんだ。
 はるかなかなた,北極星の先にある宇都宮まで帰ることにする。さしずめこの列車は銀河鉄道999というわけだな。
 逗子から宇都宮までは3,080円。もちろん “青春18きっぷ” を使っている。新幹線に乗換えるという発想はない。乗換なしで宇都宮まで行くわけだしね。