2021年2月28日日曜日

2021.02.28 ルートヴィヒ室内管弦楽団 スプリングコンサート 2021

彩の国さいたま芸術劇場 音楽ホール

● 与野本町駅からさいたま芸術劇場に向かって歩いていく。芸術劇場の隣に与野西中学校があって,その中学校に面した道路が手形通りになっている。俳優の手形レリーフが連なっているのだ。
 はじめは何ごとも感じなかった。ところが,何度か行くうちにだんだん気になってきてね。こういうものは浅草公会堂に任せておけばよいのではないかと思って。何も埼玉県が真似をすることもあるまい。

● こんなのを作ったのは,道路整備のときに予算が余ってしまって,何かやって辻褄を合わせなければならなくなったからなのかと勘ぐりたくなったんだけれども,どうやら道路整備とは関係なく,芸術劇場に因んでわざわざやったことらしいのだ。アートストリートとして整備するという。
 それはけっこうなのだが,手形レリーフかぁ。蜷川幸雄さんがさいたま芸術劇場の芸術監督を務めた数年間があったようで,その間,「彩の国シェイクスピア・シリーズ」を上演したらしい。それに出演していた人たちの手形ということのようなのだが。

● 通りすがりの者がとやかく口を出すことではないのだが,さいたま芸術劇場に行くたびにこの前を通らなければならないのかと思うと,少ぉしだけ憂鬱がきざす。
 しかし。気を取り直して,先に進む。

● ルートヴィヒ室内管弦楽団の演奏を聴くのは,今回が初めて。開演は午後2時。入場無料だが,事前申込制。
 曲目は次のとおり。指揮は鷲見譲治さん。
 ベートーヴェン 交響曲第1番
 シューベルト 交響曲第2番

さいたま芸術劇場
● 楽団のサイトには「管楽器は各パートとも,2人。弦楽器は最大で,6・6・4・4・2としています」とある。なるほど,文字どおりの室内楽団だ。
 さらに「オーケストラが初めての方から,経験豊かな方まで,幅広く在籍しています」ともあるのだが,今日乗っていたのは「経験豊かな方」だったんだろうか。

● 長い髪のオッサンというか,アルプスの中年オヤジというか,異形のコンマスが何だかニコニコしながら団員を引っぱって行く。引っぱって行こうとしているのかいないのかはわからない。が,結果において引っぱっている。
 不思議な雰囲気の,しかし腕はすこぶる確かなコンマスの存在感が際立っていた。

● 過去の演奏会においては,以下の曲も演奏している。
 アリアーガ 歌劇「幸福な奴隷」序曲
 シューベルト 歌劇「ヒュドラウリスになった悪魔」序曲
 シューベルト 歌劇「家庭争議」序曲
 シューベルト イタリア風序曲第1番(D.590)
 シューベルト 歌劇「双子の兄弟」から,序曲,アリア

 チレア 歌劇「アルルの女」より「フェデリーコの嘆き」
 ベートーヴェン リプルコンチェルト
 ボワエルデュー 歌劇「パリのジャン」序曲
 マイヤベーア 歌劇「アフリカの女」より「おおパラダイス」
 メンデルスゾーン 歌劇「帰国」序曲

 モーツァルト 歌劇「アポロとヒヤキントス」序曲
 モーツァルト 歌劇「アルバのアスカニオ」序曲
 ロッシーニ 歌劇「ブルスキーノ氏」序曲

● えっ,そんな曲があったの,と思うような曲目の集合体だ。メンデルスゾーンの歌劇「帰国」は「異国からの帰郷」の方が一般的な名称だろうが,ぼくは聴いたことがないし,CDも持っていない。
 こういった曲目はプロオケはなかなか取りあげづらいかもしれない。生で聴ける機会はそうそうないはずで,であればこの楽団の演奏会情報を追っていく価値がある。今までやってきたことは,これからもやっていくに違いないからだ。

2021.02.27 オーケストラ・ミモザ 第3回演奏会

カルッツかわさき ホール

● ミューザではなくカルッツかわさきで聴くのは,これが3回目だろうか。上野東京ラインができて川崎が近くなった。北関東を起点にした場合ね。
 「川崎に用事がある=ミューザに行く」なので,駅の西側に出ることになる。再開発区域のこととて,整然としている。思っていたイメージと違うなと感じるわけなのだが,先入観を持って見てはいかんなと反省した。

● ところが,カルッツかわさきに行くには駅の東側に出ることになる。こちら側が川崎なのだった。少し歩くと「思っていたイメージ」が展開するのだった。
 整然としているだけの都市なんて,何の面白味もない。都市とはスクラップ&ビルドが常態であるところであって,そもそも何百年後か何千年後かには廃墟になるはずのものだが,整然としているだけの,人工が濃すぎるところは,廃墟になるまでの期間が短くなるだろう。

● オーケストラ・ミモザの演奏を聴くのは,前回の第2回に続いて,今回が二度目。開演は午後2時。チケットは500円。事前申込みかつ連絡先を求められるのは,今どきのお約束。これ,当分,続くのかもしれないねぇ。
 それをするのに最も簡便なのは “Teket” を使うことだろう。集金,連絡先の提出,入場者の確認などを主催者に代わってすべてやってくれる。主催者が一番楽をできるのは “Teket” を使うことではないか。

● 客席に座る側にとっても,“Teket” はありがたい。当日の朝まで申込みができるし,催行が中止になったときの払戻しも,こちらは何の手間もかけられることがない。
 コロナが終息した後も,“Teket” を使ってもらいたい。紙のチケットを記念品として持っていたい人も多いかと思うのだが,ぼくは電子チケットでけっこうだ。メモリアルは文字どおり記憶の中にあればよい。

● 曲目は次のとおり。指揮は喜古恵理香さん。
 スッペ 歌劇「軽騎兵」序曲
 リスト 交響詩「レ・プレリュード」
 バルトーク 管弦楽のための協奏曲

● 若い楽団だ。清新だし,妙な屈折がなく一生懸命さが真っすぐに伝わってくる。それ自体が大いなる価値であることを若い人は気づいているのかいないのか。
 自分が若い頃はどうだったかといえば,たぶん,わかっていなかったと思う。というか,自分は若い頃に一生懸命だったろうか,という問題が先にあるわけだけど。

● 最近,ひとつ気になることがある。客席に中高年の男性が増えたことだ。つまり,ジジイが多くなった。彼らはたいてい1人で来ている。ま,ぼくもその中の1人なんだけどさ。
 以前には見られなかった事象だ。コンサートホールであれ,美術館であれ,演劇小屋であれ,観客の多くは女性たちと相場が決まっていたのだ。男たちはいったいどこで何をしているのだろう,と思案にくれるのが常だったのだ。
 爺さまがいる場合でも,たいていは彼の隣りには婆さまがいた。その頃の爺さまたちはあらかた引退して,もうホールの客席に足を運ぶことはなくなっているだろう。

● ので,その次の代の爺さまたちが今度は1人で立ち現れるようになっているのだ。なぜ急に1人爺さまが増えたのかがわからない。
 わからないけれども,この傾向はそもそも望ましいものなのかということを問題にしたいわけだ。高齢の男たちがこうした催しに足を向けるようになったことは,いいことなのかどうなのか。
 いいも悪いも,自分もその1人なのだから,自分をきちんと見詰めればそれなりの答えが出るはずのものだ。しかし,ここでは自分を棚にあげて語ってみる。

● おそらくだけれども,これは滅びへの道だ。なぜなら,1人爺さまが客席に満ちている光景は,それだけで人の気を滅入らせるからだ。そういうところに,人は寄りつかないものだろう。
 これが女性ならば話が違う。若い女性の誘引力は大したものだが,オバサンやオバアサンであっても,人を跳ね返すことはないだろう。オバサンはオバサンを呼び,オバアサンはオバアサンを呼ぶことができるだろう。
 しかし,爺さまの場合は,若い人はもちろん,爺さまたちをも遠ざけてしまう。じつにもって呪われた光景というか,おぞましい光景というか,すべてのものをはじいてやまない地獄の3丁目といった趣を持つ。

● 通常,未就学児は入場禁止にする。中には大人以上に静かに聴ける子どももいるだろうけれども,就学しているかいないかで線を引いている。妥当なところかと思う。
 ならば,70歳以上の男性も入場禁止にできないか。中にはまったく害をなさない70歳(以上)もいるだろうけれども,未就学児と同様に等しなみに線を引いて,彼らを入場禁止にする。そうしないと他の人が入って来れなくなる。
 そうなるとぼくがホールに足を運べるのもあと数年しかないことになるのだけれども,冗談でなく,これがシリアスな問題になるときが来るのではないかと思う。

● 男性は加齢とともに,人に嫌われがちな要素を蓄えてしまいがちだ。依怙地になる。人の話を聞かなくなる。思い込みから抜けられなくなる。唯我独尊的になる。その結果,人に迷惑をかけ,人を不快にする。
 前頭葉萎縮という器質的な理由によるものらしいから,致し方がないのかもしれないのだが,それが外見にも出てしまうわけで,そうなるとひとり本人だけの問題にとどまらず,サービス業全般が何らかの対処をしないと自らの存在を危うくしかねない。
 超高齢化社会の到来とともに,厄介な問題が色々と出てくるが,コンサートホールにおける1人爺さまの急増もそのひとつになるかもねぇ。

2021.02.21 アンサンブル ディマンシュ 第88回演奏会

府中の森芸術劇場 ウィーンホール

● 今日は東京大学音楽部管弦楽団のスプリング・コンサートがあるはずだった。サントリーホールでブラームスの1番リヒャルト・シュトラウスの「ドン・ファン」。
 プログラムを2種類用意していて,明後日はミューザ川崎でブラ1に代えてベートーヴェンの5番。両方聴きたいから,両方ともチケットを購入していた。
 が,つい先日,中止を決定した。コロナの緊急事態宣言が出されているわけで,中止を決定したことはやむを得なかったのだろうと理解はする。
 理解はするが,かなりの程度に残念だ。演奏する側の学生さんたちはぼくの無限倍も残念だったろうけど。

● それではというので,Kプレミアムオーケストラの定演に行くことにいていた。「慶応義塾大学公認オーケストラサークル」で,こちらは所沢市民文化センター ミューズ でサン=サーンスの「オルガン付き」。
 一度聴いたことがあるので,栃木の在から電車を乗り継いで所沢まで出かけたとて,裏切られることがないのはわかっている。
 ところが,こちらも3月18日に延期になった(→ 結局,中止になった)。

● どうやら,大学公認のサークルの場合は,開催するかしないかを独自に判断することは許されないっぽい。大学側から中止にしろと指示がある。
 大学側とすれば,公認サークルの活動から感染者が発生すれば,世間から(特にメディアから)指弾されることになる。緊急事態宣言が延長された以上,中止せよとなるのは,自然といえば非常に自然だ。大学側が独自の基準を持っているはずがないからだ。

● プロオケの場合は,ここは死活問題だから,奏者と観客の距離,奏者間の距離,楽器によって飛沫が届く距離の差異などを実験して,こうすれば感染を防げるというのを示したのか示さなかったのか。
 観客が音声を発しないクラシック音楽のコンサートなら,満席にして実施しても差し支えないというお墨付きもだいぶ前に出たのか出なかったのか。
 しかし,プロオケの苦心惨憺の結果も現場で活かされることはなさそうだ。エビデンスや理論で行動を決められる人は少ないからだ。
 過半の人は根拠のない不安を優先させてしまう。それを愚かというのは酷に過ぎるだろう。生存本能の発露と考えるよりしょうがない。人間とはそういうものだ。

府中の森芸術劇場 ウィーンホール
● さて,と。ではどうするか。次を探すしかない。こういうときに “次” が存在するのが首都圏のすごいところでもある。
 で,アンサンブル・ディマンシュを聴くことにした。という言い方は無礼に及ぶだろうか。一応,経過を申し述べたのだけど。
 もっとも,この楽団の前回の演奏会も聴いているので(ファランクという滅多に聴く機会のない作曲家の交響曲を聴くことができた),実力のほどはわかっている。

● 開演は午後2時。チケットは1,000円。なのだが,当日券は販売しないというのがむしろ普通になっていることもあり,かつ事前予約的な招待券送付というのがあったので,今回は招待券で聴いた。ので,タダ。
 曲目は次のとおり。指揮は平川範幸さん。
 モーツァルト:歌劇「魔笛」序曲
 シューベルト:交響曲第3番 ニ長調
 ベートーヴェン:交響曲第5番 ハ短調

● シューベルトの交響曲は7番と8番以外は生で聴くことは滅多にないものだと思っていたが,1月に1番を聴いており,2番は2019年の7月に聴いている(だいぶ前?)。おそらく,1番から8番までのすべてを聴いているはずだ。
 シューベルトを聴く機会は,しかし,最近増えたような気がする。誰を取りあげるかも流行り廃りがあったりするんだろうか。

● 本当に人生の窮地に陥ったときにどう対処すればいいか。ぼくには明確な答えがない。部屋の片隅で膝を抱えてジッとしている,何日もそうしているのが,ひょっとしたら最も賢い対処法なのかもしれない。
 この場合,音楽が癒やしになることは,まずもってないものだろう。音楽が助けになるのは浅い落ち込みの場合に限られる。
 だから音楽などに価値はないと言いたいのではない。逆だ。本当に窮地に落ちることは,そう何度もあることではない。多くは浅い落ち込みなのだ。それに対する処方箋を持っていることは,その人の大いなる鎧になることだろう。

● 浅い落ち込みに陥ったとき,ベートーヴェンの5番はよく服用される楽曲のひとつ,というよりその筆頭だろう。ベートーヴェン自身は死の淵から甦ったほどの体験を昇華させたのかもしれないが,それを聴くぼくらは,天才ベートーヴェンが渾身のエネルギーを注いで雑味を除き去った,その上澄みだけを味わうことになる。
 アタッカで入る第4楽章冒頭の輝かしい勝利宣言は,ぼくらの灯火だ。このように生きた人が過去にいたのだと思えるだけでも力になるだろう。
 創作と創作者の実人生をあまりリンクさせてはいけないというのは,古今の鉄則だと思うのだけれども,それでもそこにベートーヴェンの背中を見る思いがするのは,一人ぼくだけのはずがない。

● ここのところを上手に説明してくれる文章を最近読んだ。『AIの壁』(PHP新書 2020年)で養老孟司さんが次のように書いている。
 「芸術とは心地よさだ」と定義したときに,いろんな物差しで測って安定しているということが,一つの評価軸としてあると思うんですね。多次元空間の中で「安定平衡点」っていうんです。これ,要するに普通の平面で考えたら,すごく窪んでるということですよね。そこに落ちるとしばらくじっとしていられて楽だよ,という。(中略)深ければ深いほどそこに溜まって動かないわけですから,生き物って,本能的にはそういう状況って気持ちがいいでしょう?(p161)
 浅い落ち込みにあって,5番を聴いて,そこに灯火を見るのは心地いい。それは窪みに落ちてジッとしている状況に似て,気持ちがいい。そう言われれば,確かにそうだ。

● アンコールはロッシーニの歌劇「幸福な錯覚」序曲。シューベルトが3番を作曲するにあたって,影響を受けた曲だからという理由によるのだが,本当にそうなのかそうじゃないのかを判定する能力と情報がぼくにあるわけがない。
 ので,そうなのだと思うことにする。軽快で面白い曲だと思ったのだが,歌劇本体が演奏されなくなったのはもちろん,序曲が演奏されることもほとんどない。

● 当然,初めて聴いた。CDでも聴いたことがない。とりあえず,音源を確保しようと思って,Amazonなどを見ていった。
 が,手元にあったのだった。リッカルド・シャイー&ミラノ・スカラ座管弦楽団のものがあった。なんてこったい。うっかり八兵衛にも程がある。まずは聴いてみよう。

2021.02.11 林真理子の劇場で愉しむ “オペラ” なるもの

栃木県総合文化センター メインホール

● 昨年の5月17日に開催されるはずだったもの。大規模改修工事が終わったあとのお披露目公演のひとつになっていた。
 が,新型コロナのため今日に延期。正直,よく今日やったなと思う。先月13日に栃木県にも緊急事態宣言が出され,3日前の8日に解除されたのだが,その間にこの公演も中止されることもあると思っていた。

● 水面下でいろいろとやり取りがあったのかもしれないが,一番割を喰ったのはホールのスタッフだろう。チケットの払戻しや再販売,座席指定のやり直し,チケット購入者への連絡といった,通常ならやる必要のない,しかも事後処理的な業務をせざるを得なかったのはお気の毒としかいいようがない。
 その代わりと言ってはなんだが,通常業務はずっと閑散期が続いていたろう。それはそれでやるせないものだろうけれど。

● この種のコンサートに家人と一緒に出かけたことは一度もない。小学生の頃からピアノを習っていたというし,高校生のときにはクラリネットを吹いていたそうなのだけれども,管弦楽にも室内楽にもまるで興味を示さない。
 その方がありがたいのだけどね。夫婦で趣味が同じというのは,決していいことではない。それぞれが好きなことをやっていて,互いに邪魔をしないというのが最も好ましい。
 今回もチケットは1年前に1枚だけ買っていた。

● が,家人は『ルンルンを買っておうちにかえろう』からの林真理子ファンであるらしい。小説は読んでないけどエッセイはすべて読んでいる,という。たしかに,トイレにも林真理子のエッセイ集が3冊ほど置かれている。ずいぶん長い間,同じものが置かれているようではあるんだけど。
 ので,今日のコンサートの話をすると,珍しく(初めてなんだけどね)私も行きたいと言う。当日券もあるらしかったので,ではそうしようかとなったんだけども,結局,彼女は休日のこの日も仕事に出て行った。休みなどあってないような日々がこのところ続いている。ブラックな職業なのだ。

● 開演は午後2時。S席のチケットを持っている。4列ほど後ろの席に指定替えされていたのは,少々残念だったけど。
 プログラムは次のとおり。パンフレットからそのまま書き写してみる。
 第1部 トーク・ステージ
 林真理子さんが語る-本とオペラのある人生

 第2部 コンサート・ステージ
 ビゼー:《カルメン》より「ハバネラ」(メゾ・ソプラノ)
 ジョルダーノ:《アンドレア・シェニエ》より「祖国の敵」(バリトン)
 プッチーニ:《ラ・ボエーム》より「冷たき手を」(テノール) 「私の名はミミ」(ソプラノ) 「愛らしい乙女よ」(ソプラノ&テノール)
 ヴェルディ:《リゴレット》より「美しい恋の乙女よ」(四重唱)

 第3部 クロストーク・ステージ
 オペラに生きる人たちとの対話

 第4部 プレゼント・ステージ 作家に贈るプレゼント曲
 ロッシーニ:《セビリアの理髪師》より「それじゃ私なのね?」(メゾ・ソプラノ&バリトン)
 カタラーニ:《ラ・ワリー》より「さよなら故郷の家よ」(ソプラノ)
 プッチーニ:《トゥーランドット》より「誰も寝てはならぬ」(テノール)

● 出演者は林真理子さんの他に,進行役の浦久俊彦さん。ソプラノが小林沙羅さん,メゾ・ソプラノが山下裕賀さん,テノールが西村悟さん,バリトンがヴィタリ・ユシュマノフさん。でもって,伴奏ピアノが河野紘子さん。
 登場人物は絢爛と言っていいだろう。小林さんと西村さんはもはや日本の声楽界を代表するビッグネームになっているし,山下さんとユシュマノフさんは2016年の「コンセール・マロニエ21」(声楽部門)の1位と2位なのだが(このコンクールも客席で聴いている。どちらが1位になってもおかしくないくらいの僅差であったろう),若手の実力者として認知されている。

● せっかくこのメンツが揃ったのだから,各地で公演するのかというと,そうではない。それをするには,それぞれが忙しすぎるだろう。
 が,同じようなものが,2018年5月(横浜),2019年11月(高崎)にも開催されていて,今年3月には名古屋でも開催されるらしい。毎年,どこかでやっているっぽい。
 いずれの場合も,林-小林-河野浦久 ラインは不動。そこにその都度,ソプラノ以外のオペラ歌手が加わって,ユニットを作っている。

● そういうことはともかく,これだけのメンバーが揃っているんだから,おそらく東京からわざわざ宇都宮まで聴きに来た人が,けっこうな数いたのではないか。
 今回に限っては,客席にいたのは地元民ばかりではなかったはずだ。それだけの吸引力があるでしょ。

● 第1部は林さんのトーク。話の引出し役が浦久さん。
 原稿は万年筆で書いているらしい。恋愛小説の人は手書きで,ミステリーやノンフィクションの人はパソコンで書いている,という。たしかに,たとえば森博嗣さんに手書きのイメージはない。
 分野によって,テンポやリズムが手書きに馴染むものとパソコンに合うものとがあるのだろう,ということ。なるほどと説得されそうになったのだけれども,そうなんだろうかねぇ。

● 宇都宮美人なんぞという言葉も飛びだした。地元にそういう言葉はないんだよね。だってね,初めて聞いたからね,宇都宮美人って。いや,リップサービスをありがとうございます,ってことなんだけどさ。
 餃子の話もねぇ,無理にしてくれなくていいんだけどねぇ。浦久さんに至っては,小京都と言われていて・・・・・・と言いだしちゃって。栃木市と混同してるよねぇ。
 そんなものだと思っているので,そこは別にいいんだけれども,要は開催地をそんなに持ち上げようとしてくれなくてもいいよ。

● 第3部は林さんと浦久さんが,4人の歌手から話を引きだす趣向。
 ユシュマノフさんが初めて日本に降り立ったときに,ここは自分がいるべき場所だと直感したという話をしていたのが印象的。日本を好きになってくれてありがとうということではなくて,そういうことってあるよね,と。
 逆もあるでしょうね。ここにいてはダメだと直感すること。着いたばかりで,誰とも話していないし,何も食べていないんだけど,そう感じることがあるでしょ。
 とはいえ,ロシアから地球を半周して日本に来て,ここは自分がいるべきところだと感じたってのは,ロマンに満ちているなぁと思って,少し以上に感動した。

● アンコールはヴェルディの《椿姫》から「乾杯の歌」。曲自体が綺羅びやかなところにきて,この4人で歌うわけだから,客席は竜宮城と化すわけだよね。
 さらに,ヨハン・シュトラウス2世の《こうもり》から「シャンパンの歌」。歓喜の絶頂で終演。

● 小林沙羅さんのソプラノをたっぷり聴けて幸せだった。この世のものとは思えないっていうか。
 何だか凄いんでした。“何だか凄い” を別の言葉に換えてみようとジタバタしてみたんだけど,きちんとした言葉が見つからない。
 天は二物を与えずというのは,逆の意味で本当にそうだなと思う。天は二物なんてケチなことは言わない。三物でも四物でも与えるんだよね,特定の人に。
 小林さんはまさにそうで,音楽の才と声を持って生まれ,なみはずれたルックスを与えられ,経済的にも恵まれた環境を用意され,強運まで授けられ,何より努力できる才能を天から分与された。これだけでいくつになる?

● しかし,多く与えられたから幸せで,与えられなかったから不幸かというと,それはまた別の問題になる。与えられたがゆえの苦悩というのが,当然あるだろう。
 ほとんどの人は一物も与えられていないはずだが,だから自分は不幸だ,神様は不公平だ,と考えるのは短絡が過ぎるというものだ。与えられなかったことが,そのまま神の恩寵であるやもしれぬ。ラッキーだったのかもしれぬ。