2021年12月9日木曜日

2021.12.08 宇都宮短期大学-まちなかクリスマス・コンサート

宇都宮共和大学 エントランスホール

● 2017年に続いて,2回目。開演は17時30分。入場無料。
 最初の30分は「mix bell」の歌謡ショーみたいな。2017年のときも同じだった。が,メンバーは違う。どんどん入れ替わっているようだ。
 現在は3人らしいのだけど,今回登場したのは2人。可愛らしいお嬢さんたちだ。

● 18時から宇短大音楽科の学生さんが登場。今年はチャイコフスキーの「くるみ割り人形」。もちろん,全曲やるわけではなく,抜粋になる。組曲版と同じだったか。最後は “花のワルツ” で盛りあがって終わる。
 弦と木管,ピアノ,エレクトーン,ユーフォニアムの構成で「くるみ割り人形」を舞台にかけるのは,宇短大ならではといっていいだろう。

● その前にトロンボーンの二重奏があった。トロンボーンという楽器は管弦楽の演奏で必ず聴くものだから,どんな音色でどんな効果があるかは一応知っているつもりだ。
 が,トロンボーンだけを聴くと,あっ,トロンボーンってこういう音を出していたのか,と改めて思うことになる。

● 短大の学生なのだから,年齢は18~20歳のはず。若い人たちの演奏はそれだけで価値があると,ロートルは思う。そう思う自分の気持ちを探ってみると,頼もしさのようなものを感じるゆえだろうととりあえず結論づけたくなる。
 自分は何ほどのこともしなかったし,できなかったけれども,彼ら,彼女らは何事かをやってくれるだろう。だから未来は良くなるはずだ。そう思って安心する。そういう機序が働くようだ。

● この演奏会は,どうぞ皆さん,楽しんで下さい,というものだ。楽しめばそれでいい。
 下手な演奏では楽しめないが,充分に楽しめる水準にある。だから,聴く側もあまり難しいことは考えなくていいし,考えている人もいなさそうだ。

● 大きなホールでのコンサートはもちろんいいものだ。フルオーケストラでチャイコフスキーの5番や6番を聴くのは,至福の時間になり得る。
 一方で,こういう小さな演奏会もいい。演奏会の原点はこちらにあるはずだろう。しかも,大ホールでのコンサートは毎週,土日はどこかで開催されている(東京まで視野に入れた場合はね)のに対して,こうした原点に近い形の演奏会はけっこう以上に貴重だ。
 宇都宮に短大の音楽科がある恩恵は間違いなくある。エンタテイメントの総量を増やしてくれる。ぼくらはその増分をちゃっかりと頂いて,ニンマリすればよいのだと思っている。

● 今日のコンサートの模様はとちぎテレビの「わいわいボックス」で放送されると mix bell のお嬢さんが言っていた。「わいわいボックス」と宇短大音楽科は仲がいいようだ。利害が一致するというか。
 この番組は栃木県内の中学校や高校の演奏会などをこまめに報じているようだ。ならば,そうした演奏会がいつ開催されるかの予定表として,同番組のサイトを活用できないかと思ったのだが,残念ながらそれは無理っぽい。2週間先の放送予定までしかサイトには上がっていないから。サイトに上がったときにはすでに終了しているようだ。

2021.12.07 第60回立教大学メサイア演奏会

You Tube 配信

● 開演は18時。会場は東京芸術劇場のコンサートホール。といっても,ホールまで足を運んだわけではなく,自宅で聴いた。つまり,You Tube を使ってのネット配信だったので。
 急遽,無観客にしてネット配信に変えたのではなく,最初からネット配信の予定だった。予定どおりネットで配信したということ。

● ヘンデルの「メサイア」全曲を生で聴いたのは1回しかない。2年前に新百合ヶ丘まで出向いて,昭和音楽大学のメサイア演奏を聴いた。
 そのときに,キリスト教系の大学ではこの時期にメサイアを演奏するところがあることを知った。ベートーヴェンの「第九」に比べると目立たないけれども,年末(というよりクリスマス)の風物詩になっているようだ。
 しかし昨年は,声楽で神を称えるこの曲が演奏されることはなかったろう。通常の器楽曲以上の逆境になったはずだ。

● 今年は昭和音楽大学は通常開催するようだ(ただし,演奏時間を圧縮)。青山学院も通常開催。愛知県の金城学院でも11月に開催し,ネットで全部を聴くことができる。京都の同志社は中止にしたらしい。立教は実施するけれども,観客は入れずにネット配信というわけだ。
 状況はこんなところだ。現状はほとんどゼロコロナ状態なので,一切の感染対策をしないで開催しても問題が起きる可能性はない。が,準備を始める時点ではそうではなかった。

● 指揮は上野正博さん。現田茂夫さんの予定だったが,変更になった。ソリストは佐竹由美(ソプラノ),山下牧子(アルト),小貫岩夫(テノール),久保和範(バリトン)。チェンバロ・オルガンが大藤玲子さん。
 合唱は立教大学グリークラブと立教学院諸聖徒礼拝堂聖歌隊。そのOB・OG。合唱団の中にはかなりの年配の人も混じっていた。管弦楽は立教大学交響楽団。

● YouTubeチャンネルにて生配信したあとは,アーカイブ動画を来年11月30日まで公開するとのことなので,今後1年間はいつでも都合のいいときに聴けるわけだ。時間に縛られない。
 のだが,まずはリアルタイムで視聴。本当はライヴを聴きたいのだがオンラインになった,というとき,奏者とリアルの時間を共にすることが,ライヴに近づけるためにけっこう以上に重要なことだと思っている。

● 入ってくる動画はいつでも同じなのだが,演奏は演奏として他と切り離されて屹立して存在するのではない。聴き手との関係性において立ち現れてくるものだ。
 ならば,聴き手,つまりこちら側の聴く態勢を整えなくてはいけない。環境整備が必要だ。その第1番目に来るものがリアルタイムで聴くということだ。
 途中で20分間の休憩時間があるのだが,その休憩時間も共有した方がいいのだ。トイレに行きたくなれば画面を止めていつでも行けるのだが,ホールで演奏を聴いているのと同じにした方がいい。トイレに行くなら休憩時間に行く。

● とはいえ,リアルの演奏をホールで聴いているときに,アルコールを飲みながらくつろいで楽しみたい,手許にコーヒーがあればなぁ,と思ったことがない人は少ないと思う。
 それはこういう機会に試してみるといいと思う。が,事前に準備を整えておくこと。途中で席を外してコーヒーを用意するというのではなくて。

● ネット配信で聴く演奏がどれだけリアルに近づくか。当然,はるかに及ばない。第1に,こちらの機材が貧弱極まるからだ。
 ネット配信だからパソコンかスマホ,タブレットで受信するしかないのだが,ぼくはノートパソコンに外付けスピーカをつないだ状態で受信している。おそらくXperiaかストリーミングWALKMAN(+ハイレゾ対応イヤホン)で聴いた方が音はいいのだと思うが,画面が小さくて視る楽しみが減殺される。
 ミニコンポを買ってパソコンをつないで聴くのがいいのだろうか。でなければ,ちゃんとした性能のスピーカを備えたデスクトップパソコンに買い替えてしまうか。NECや富士通から良さげなのが出てるんだけど,テレビ機能まで付けているのが大難。なんでそんな余計なものを。

● N響の演奏がEテレで放送されることがある。年末の第九とかね。昨年だったか,それを宿泊中のホテルのテレビで見たことがあった(だからテレビはけっこうな高級品)。
 が,まるでダメ。“ノートPC+外付けスピーカ” の方がまだ音が立っているような気がする。
 のだが,ネット配信がリアルのライヴに伴走するのがあたりまえになるのだとすると,対応を考えた方がいいのかもなぁ。たとえば,右のような機材でテレビの音響を補強するとか。

● ネット配信の画面は超絶S席になるか。ホールのどんな席で見るよりも特定の部分を高解像度で表示してくれるわけだから。
 残念ながら,これまたリアルには及ばない。全体を視野に入れたうえで特定の部分に注意を集めることができるのは,リアルならではだ。
 むしろ,特定の部分を必要以上に明瞭に示してもらうのは迷惑だと感じることもある。たとえば,ソリストの化粧の具合をここまでハッキリと見せてもらわなくてもいい。見えない方が幸せだ。

● 視聴者数が画面に出るのだが,“ハレルヤ” の時点で約670人だった。こんなものか。このあとアーカイブを視聴する人が出るのだろうが,どのくらいの数になるのだろう。
 リアルに開催して,地道に集客した方が,ネット配信よりも多くに人に聴いてもらえるということか。

● ネット配信の技術が現状のままということはない。どんどん良くなるだろう。受信用の端末の性能も同様だ。いずれはリアルのライブに肩を並べるところまで進歩するのかもしれない。
 え,まだホールで聴いてるの? 遅れてるな,おまえ,と言われる時期が来ることを夢想したりもする。現状はそうなっていないが,遠くない将来にライブとの差がかなり詰まってくることはあり得ると思っている。

● ネット配信がこれから増えるのだとしよう。すると,とても全部は聴ききれないという数になるはずだ(個人演奏的なものを含めれば,現状ですでにそうなっているのかもしれないが)。
 そのときにどれを聴くことにするか。はっきりしている。この演奏会がリアルであったらホールまで出かけて行って聴きたいかと自分に問い,Yesと答えられるものだけを聴くことになるだろう。
 この立教大学のメサイア演奏会が普通に観客を入れて開催されていれば,ぼくは今日,電車に乗って池袋まで出かけたはずだ。だからネット配信を視聴することにしたのだ。

● 合唱陣はマスクを付けて歌っている。先月の学習院輔仁会音楽部の第九もそうだったのだが,歌えるマスクという画期的な製品が出ているのかもしれない。
 けれども,当然ながら歌いづらそうで,見ていて気の毒だった。本当は歌ってはいけないのだが,マスクを付ければ特例的に歌ってもいいことにするというのでは,合唱陣の士気もあがるまい。
 マスクは付けないとダメなのかね。今の状況でもマスクを外してはダメだと言うなら,外せる時期は永遠に来ないのじゃないか。

2021.12.05 モーツァルト合奏団 第23回定期演奏会

那須野が原ハーモニーホール 大ホール

● 開演は午後2時。チケットは500円。当日券を買って入場。
 この合奏団の演奏は過去に5回聴いている。直近では2017年の第19回演奏会。そこから4年間,空いてしまった(昨年は開催していないだろうけど)。

● プログラム冊子の「ごあいさつ」でも,「練習会場の確保ができず,できたとしても時間制限が厳しく,なかなか練習時間が取れない」と苦心が語られている。
 コロナは人間の群生性を否定する方向に働いたのだから,引きこもり傾向の人には神風だったかもしれないものの,大方の人には不便と苦痛をもたらしたろう。
 好きな人の目を見て話す。友人と酒(お茶でもいいのだが)を飲みながら論談する。数人で共同作業をしてひとつの仕事を仕上げる。そうしたことが許されなくなった。勢い,楽しみの多くを失うことになった。仕事に喜びややり甲斐を見出そうにも,その取っ掛かりになるものが与えられない。

● しかし,一方で,少ない時間しか与えられないがために,練習の仕方に工夫をこらすなどの試みもやらざるを得ず,そこから得られたものもあったのではないか。
 否応なくムダを省く術を会得したとか,そういうことだ。制約が進歩を生むという,しばしば見られる現象があったのだと思いたい。

● 曲目は次のとおり。
 モーツァルト 弦楽四重奏曲 ニ長調 KV.155
 パーセル シャコンヌ ト短調
 ボッテジーニ コントラバス協奏曲第2番 ロ短調
 ドヴォルザーク 弦楽セレナード ホ長調

● モーツァルトのKV.155は弦楽四重奏曲第2番と言った方が通りがいいですかね。たまたま,モーツァルトの弦楽四重奏曲を順番にCDで聴いていたところだった。
 軽やかな小品というイメージで,これが弦楽四重奏というものだよなぁ,いきなりベートーヴェンの後期から聴くのは間違ってるよなぁ,と思ってたところ(いや,それが正解の人もいるんだろうけどさ)。

● そこで生演奏を聴いたからかもしれないんだけれども,ほっこりとした演奏だと感じた。
 演奏する側はほっこりとしてはいられないと思うのだが,音を合わせる楽しさは,大きなオーケストラよりこれくらいの少人数の方が濃厚に味わえるものだろう。全体を把握しやすいから。全体の中の自分が見える。何をどうすればいいかが明瞭にわかる。責任感も持ちやすい。
 大きなオーケストラだと大企業の社員になったようなものか。自分の働きが全体にどう影響しているのか実感しにくい。ゆえに,会社の経営が傾いていても社員はそれに気づかないというようなことも起こる。
 いや,オケの場合は,そんなことは起こらないですかね。

● 昔の合奏団とはメンバーはかなり入れ替わっているんだろうか。那須フィルのメンバーが主力になってるっぽいんだけども,前からそうだったっけ。
 どうも昔の記憶が不確かだ。が,別の団体になっているような気がした。いい悪いの話ではない。

那須野が原ハーモニーホール
● ボッテジーニのコントラバス協奏曲のソリストはN響の岡本潤さん。昨年10月の日比谷高校フィルハーモニー管弦楽団の定演でお見かけしている。2010年のコンセール・マロニエ21で優勝したときも,客席から見ている。たしか栃響のステージにも団員と一緒に上がっていたことがあった。
 この人の経歴はちょっと面白い。欧米に留学していないところが面白いのだ。プロを目指す人って,日本の音大や大学院を出てから,ヨーロッパやアメリカに留学するのが普通のような印象がある(そうではないのかもしれないが)。どんだけ大学で人に教えてもらうのが好きなんだよ,って。

● 留学するのが普通なのであれば,留学に価値はない。稀少性がないのだから。稀少価値以外の価値はないわけでね。
 留学くらいしなかったらスタートラインにも立てないんだよ,ということ? むしろ,留学なんかしてしまうのはわざわざ価値を捨てるようなものではないか。自分を “その他大勢の1人” にしているように思われる。
 しかも,留学って,時間のほかにお金もかかるんでしょ。時間とお金をかけて人並みを目指すって何なのよ,と思ってたんですよ。
 電車に乗ると同じ車両の乗客全員がスマホをいじっている光景に出くわすことがあるけれど,時間とお金をかけてスマホをいじる1人になることに何の意味があるんだろう,って。そこまでして幻想を追いかけてたんじゃダメなんじゃないの,って。見当はずれのことを言ってますかね。

● 岡本さんはその留学をしていない。そんなものを吹き飛ばせるだけの才能があったからなのかもしれないけれども,あるいは偶然・成行きでそうなったのかもしれないけれども,人と同じことをしないっていうのは,それだけでカッコいいというかね。
 てか,並みの留学って,そもそもが時代遅れになっていないんだろうかなぁ。

● 岡本さんのアンコール曲は,マラン・マレ「人間の声」。マラン・マレは17世紀から18世紀にかけて生きたフランスの作曲家,ヴィオラ・ダ・ガンバ奏者。
 って,わかったように書いているけれども,ネットをググって知ったこと。

● 休憩後はドヴォルザークの大作(岡本さんも演奏に加わった)。合奏団のアンコールはなし。団長のあいさつで締めとなった。地元でここまでの演奏を聴けるんだから,これ以上望むことはない。
 ので,コロナが収束した暁には,地元に沈潜したいと思う。県外に聴きに行くのは例外としたい。できるかどうかわからないが,目下のところ,そのように思っている。あとはCDをちゃんと聴ければいい(今はちゃんと聴けていない)。

● これも見当はずれのことを言うのだが,コロナに過剰反応する気配は地方ほど強くなる。良くいえば,律儀に対応している。
 結果,予定されていた演奏会の中止は,首都圏より地方において顕著であるように思われる。首都圏の方が緊急事態宣言やマンボーが出される頻度が高いにもかかわらず。
 ので,何はともあれ,コロナの収束が前提だ。オミクロン株がマスコミに飯の種を提供しているが,収束はそんなに遠い話でもないように感じる。あとは,政治が決断できるかどうかだけの問題になるだろう。首尾よく行けば,ぼくも地元沈潜と参りたい。

2021.12.04 第12回音楽大学オーケストラ・フェスティバル 国立音楽大学・洗足学園音楽大学

ミューザ川崎 シンフォニーホール

● 今年の音大フェスも今日が最終日(4日目)。通し券を買って皆勤することができた。毎日が日曜日になった爺さまの,大いなる余録というやつでしょうなぁ。
 全席使用で観客を入れている。前方の左右のバルコニー席(厳密にはバルコニー席とは言わないのだろうが)にもお客さんが入っている。おそらく,今回が最高の入りになったのではないか。それでも当日券があるにはあった。

● まず,国立音楽大学。プログラムが異色。何が異色なのかといえば,このフェスではベートーヴェンやブラームス,ブルックナー,マーラー,チャイコフスキーの交響曲など,正統派クラシック楽曲が選ばれてきたからだ。
 ところが,今年の国立はアメリカの近現代を持ってきた。次のとおり。
 レブエルタス センセマヤ
 バーンスタイン 「ウエスト・サイド・ストーリー」より “シンフォニック・ダンス”
 コープランド 「ロデオ」より 4つのダンスエピソード

● 指揮は原田慶太楼さん。選曲にあたっては原田さんも噛んでいたんだろうかね。
 「センセマヤ」は初めて聴く。こういう曲があること自体,知らなかった。今どきだからネットで聴くことはできるとしても,名前を知らないんじゃ検索もできないわけでね。
 ニコラス・ギレンの詩に基づく「蛇殺しの唄」と知って,何となく納得。レブエルタスは芸術家の鏡と言いたくなるほどに後先を考えない生き方をした人なんですねぇ。こういう生き方しかできないから芸術家になった(なるしかなかった)ということですかねぇ。

● コープランドの曲は “「ロデオ」より 4つのダンスエピソード” となっているんだけども,ぼくは “ロデオ=4つのダンスエピソード” なのだと思っていた。
 「4つのダンスエピソード」を部分集合とする「ロデオ」というバレエ音楽があるんですか。CDを探してみるかな。

● 選曲だけではなく,曲間に原田さんのトークが入った。トーク自体はこれまでにもないわけではなかったけれども,これまでのトークは何というかオフィシャルなもので,半分は形作りのためだった。
 客席サービスのトークは初めてではないか。陽性が徹底している人だ。地なのか,心がけなのか。和製バーンスタイン候補の面目躍如。
 学生の気持ちも掴んでいるだろう。といって,学生の気持ちを掴もうとしてこの選曲をサジェストした(と決めつけている)わけではないだろう。そんな下心を持っていては学生に見透かされる。

● こちとら,不協和音を駆使されると現代的と感じてしまう幼稚な感性しか持ち合わせていない。それを畳み込んでくるようにして差しだされると,たとえばストラヴィンスキーを連想してしまう。現代音楽は北米も南米もロシアも似たようなものだな,となってしまう。ストラヴィンスキーが現代かどうかは考えないことにして。
 音楽はすべからく慣れの問題かもしれなくて,何度も聴いていると身体に入ってしまう。

● 洗足学園はサン=サーンスの3番「オルガン付き」。国立のアメリカも楽しかったけど,正統派は落ち着ける。
 いくらぼくでも,この曲はCDを含めて何度も聴いている。ぼくはカラヤンで聴けるものはカラヤンで聴く(例外はあるが)というつまらない男なので,この曲もカラヤン+BPO で聴いているのだが,カラヤンのCDが生演奏に勝ることはあり得ない。
 生の場合は視覚から入ってくる情報があるからだとずっと思っていたのだけれども,たぶんこちらの集中度,入れ込み具合が違うからだ。CDに集中するのは難しいのだ。視聴環境によるとは思うのだけれども,いかに機材を揃えようとCDから流れてくる音に集中できる度合いは限られるような気がする。

● 生演奏だとお金を払っている。会場までの電車賃もかかる。自分の身体を運んでいく面倒さもある。北関東の在から川崎まで行くとなれば,それ相応の時間も要する。
 でもって,同じ目的を持ってやってきた大勢の観客と一緒に聴く。集中するための道具立てが揃っている。ライヴの魅力を支える,それも大きな要素だろうな。

● それなのに,聴いている最中に寝てしまうことがあるのはどういうわけかね。かなり贅沢な睡眠になるよね。お金と手間暇をかけて作りあげた睡眠だな。
 今日は寝ませんでしたよ。聴きましたとも。プロの演奏よりいいんじゃないかと思いますよ。そう思わせるものは何なのか。一期一会感が強いということか。演奏者が込めている “気” が多いということか。

● 指揮は秋山和慶さん。80歳のダンディズム。体型も80歳とは思えないし,服装への気配りも年寄り臭くないし,何より指揮ができるわけだから。洗足学園で若い学生と接しているのも若くいられる理由のひとつですか。
 年齢のせいだろうが何だろうが,いかに赫々たる実績が過去にあろうと,機敏な指揮ができなくなればお払い箱にされる世界にいるわけだろう。その世界でなお第一線に立ち続けているのだから,これはもう怪物でしょうよ。壮年世代の指揮者は何をやっているのかということにもなるんでしょうかねぇ。

● というわけで,今年の音大フェスも終わってしまった。来年3月に9音大の選抜オーケストラの演奏会がある。チケットは買ってある。
 外に出れば冬の短い日は暮れてしまっている。その分,イルミネーションがはえるのだが,日は長い方がいいかなぁ。