栃木県総合文化センター メインホール
● NHK交響楽団が宇都宮に来るのは何年ぶりか。足利へは毎年来てるんだけど,宇都宮へは数年に一度でしょ。
だから何がどうってことではないんだけどね。
● 開演は午後6時半。チケットはS席が6,000円で,以下1,000円きざみで,C席が3,000円。
ぼくは一番安いC席のチケットを買っていた。4階の右翼バルコニー席。1列目だからまだいい。2列目になると,だいぶ視界が遮られることになる。もっとも,バルコニー席の2列目というのは,数はほんとに少ないんだけど。
● この席ならば,歌舞伎見物客が桟敷席から成田屋ッとか中村屋ッと声をかけるように,ブラボーッと叫んでも許されるだろう。S席やA席に座っている人が,ブラボーを叫ぶのはおそらくルール違反だろうね。
ま,ぼくはブラボー嫌いなので,おとなしく聴いているだけではある。
● プログラムは次のとおり。
グノー 歌劇「ファウスト」-ワルツ
グノー 歌劇「ロメオとジュリエット」-ジュリエットのワルツ「私は夢に生きたい」
マスカーニ 歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ」-間奏曲
ベッリーニ 歌劇「カプレーティ家とモンテッキ家」-「おお,いくたびか」
プッチーニ 菊の花
プッチーニ 歌劇「ジャンニ・スキッキ」-「私のお父さん」
プッチーニ 歌劇「ボエーム」-「私が町を歩くと」
(休憩)
チャイコフスキー 交響曲第4番 ヘ短調
● N響がグノーのワルツを演奏して,次に森麻季さんが登場。「私は夢に生きたい」を艶やかに歌って,再びN響が「カヴァレリア・ルスティカーナ」の間奏曲をしっとりと。
「カヴァレリア・ルスティカーナ」じたいは,激しくも愚かな若者が決闘で命を落とすという物語。この間奏曲は,その幕間に儚い叙情を提供する。聖母マリアがわが子イエスの最期を包みこむような哀切な叙情。
男性的な激しさっていうのも,女性的な,他者のために自分を捨てるような,献身的な情愛があって初めて成立する,と示唆するようだ。こういうのを“こじつけ”っていうんでしょうかね。
● 森さんが「おお,いくたびか」を歌って,N響が「菊の花」を演奏。さらに,森さんが2曲続けて歌った。こうして,前半は終了。
N響と森麻季。豪華版ですな。
● N響というと,思いだす本がひとつある。許光俊『最高に贅沢なクラシック』(講談社現代新書)だ。面白い本でいろんな読み方ができる。のっけから挑発的なところが特徴だ。
学食で飯を喰ってるようなやつにプルーストはわからない,というのがまず出てくる。さらに,電車通勤なんかしているようなやつに音楽はわからない,トヨタ車に乗ってるようなやつに音楽はわからない,N響をいくら聴いたって音楽はわからない,と畳みかけるように挑発してくる。これ,けっこう,気持ちいいんだけどね。
● では自分はどうなのか。もちろんわかるわけだろう。それを例示するために,香港を皮切りにソチコチに旅に出る(すでに過去のものになった旅行を再構成)。ちなみに,最終地は青森県六ヶ所村。
しかし,豈図らんや,その過程で,著者もまた学食で飯を喰う側の人間なのだということが明らかになっていく。著者はそうは思っていないはずだが。
● この本のミソは“わかる”とはどういうことなのか,そこを定義していないことだ。議論の出発点で予め定義しておくのは困難だろう。喧々諤々の議論をする中で定義が浮かびあがってくるというのが,普通の順序のように思う。
ので,定義を述べるのは最後でいい。実際,そのための旅だったはずだろう。ところが最後(巻末)になっても“わかる”の定義がない。
だから,一読したあと最初に戻って読み直してみると,「学食で飯を喰ってるようなやつにプルーストはわからない」に何だかカチンと来ちゃうんだな。おまえの言う“わかる”ってどういうことだよ。
● そのN響を聴いているわけだ。「N響をいくら聴いたって音楽はわからない」っていうのを捻った言い方だと見なさないで,文字どおりの意味に受けとめると,やはり疑問を呈したくなるね。
いや,ぼくが疑問を呈してはいけないのかもしれないけどね。N響を聴くのはこれが3回目なんだから。少なッ。疑問を呈するのはもっと聴いてからでいいなぁ。
● でも,呈しちゃうよ。ベルリン交響楽団を2回聴く機会があった。で,どう考えても,ベルリン交響楽団よりはN響の演奏からもらえるものの方が圧倒的に多いと思うんだよね。ベルリン交響楽団をヨーロッパ代表にしてはいけないんだけどさ。
許光俊さんが言いたいのはそういうことではないのかもしれないけどね。
● さて。オーケストラの指揮はジョン・アクセルロッド氏。アメリカ人にしては小柄だけど,エネルギーの塊のような人だ。
バーンスタインの弟子のようだ。けれん味のない指揮ぶりということしか,ぼくにはわからないけど。
● 天下のN響に対して,個々のパートを云々しても始まらないけれど,チャイコフスキー4番の第2楽章。冒頭のオーボエがまっすぐ届いてくる。こちらの心臓に突き刺さるようでもあり,心臓を包んでくれるようでもある。
チェロが受けて,低く歌う。ここを聴けただけで,元は取れたかなぁと思った。
● さすがは宇都宮のお客さん。楽章間で拍手が起きてしまった。しかも,躊躇のない堂々たる拍手。普段はコンサートなんて来ないんだけど,N響だから来てみたっていうお客さんがけっこういたことの証左でしょう。
チッと舌打ちをした人もいたかもねぇ。楽章間では拍手しちゃダメなんだよ,このカッペどもがっ。
● ただし,ぼく一個は,楽章間での拍手に対してはわりと寛大。なぜ楽章間で拍手をしてはいけないのかが,イマイチよくわからないのでね。
奏者の集中を切らせるからだろうか。奏者は全楽章を通して気持ちを作っていくからだという説明もよくされるけれど,それが楽章間の拍手を禁止するほどの理由になるんだろうか。
終演後,指揮者が出たり入ったりのセレモニーを延々とやって,その間,ずっと拍手を強要する。それはいいのか。それを良しとするなら,楽章間の拍手くらい,許してくれないか。
● バレエでは拍手はわりと自由だ。自分がいいと思ったところで拍手する。いいと思うところって意外に個人差がないようで,拍手もそんなに割れないで起こる。
オペラでもアリアを歌い終わったあとに拍手をする。ピットで管弦楽が演奏していても拍手をする。
そのあたりとの兼ね合いもありそうだけどなぁ。
● アンコールはレスピーギの“シチリアーナ”。東日本大震災や熊本自身の被災者への祈りをこめたようにも思われた。
N響のアンコールを聴くのは,3回目にしてこれが初めてかもしれない。
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