ミューザ川崎 シンフォニーホール
● 12月は忙しい。仕事じゃなくて,休日がね。なぜなら,年末は「第九」がもうこの国の民俗行事になっているけれども,「第九」以外にもコンサートが増える時期ですよね。可能な限り,付き合うことにしているもので。
まず,今日は首都圏の音大フェス。計4日間で開催されるこの催し,今日が最終日。結局,ぼくが聴いたのは半分にとどまった。
● まず,このホール(ミューザ川崎)について語っておかなければならない。いや,“ならない”ってこともないんだけど,語っておきたい。
要するに,いいホールですよね。演奏する側にとってどうなのかはわからないけれど,聴く側にすると相当聴きやすい。ぼくの限られた体験の範囲内でいうと,最も聴きやすいホールがここだ。
勾配があるので,前の人の頭が視界に入らない。ぼくも座高の人なので,後ろの人に気を遣わなくてすむのは助かる。
● 建物じたいの構造が柔らかくできているんだろうか。音の響きも柔らかいと感じる。同じ奏者がこのホールで演奏すると,香車一枚分だけ巧くなったと感じるのではあるまいか。
要するに,かのサントリーホールよりもここミューザの方がカンファタブルだ。
● さらに。ぼくのような北関東の在住者にとっては,上野東京ラインの開通によって川崎が一気に近くなった。しかも,駅前にあるんだから,物理的にもサントリーホールよりミューザの方が,物理的にも近いのだ。
聴きたいコンサートを選ぶとき,ホールはどこかっていうのも選択を左右する要素になる。ホールがミューザってことになれば,それだけで聴きに行こうかと思うかもなぁ。
● 開演は午後3時。チケットはお得すぎる1,000円。東京芸術劇場のネット販売を利用。セブンイレブンで受け取る。“ぴあ”を使うより手数料が216円安くなる。セコくてすまんが。
今回登場するのは,東邦音楽大学,国立音楽大学,洗足学園音楽大学。それぞれ,ドヴォルザーク8番,ブラームス2番,マーラー1番を演奏。
● まずは,東邦。指揮は梅田俊明さん。
演奏する彼らにしても,同じメンバーで演奏できる機会は,この先二度とないだろう。当然,聴く側のぼくらもこの演奏は二度と聴くことができないものだ。たった一回の巡り合わせ。一期一会を強く思わせる。
逆にそう思って聴くせいか,妙にセンチメンタルな気分になる。切なくなってくる。
● ぼくの席はいわゆるP席に近い場所だった。演奏中,指揮者の顔が見える。指揮者って,まず肉体労働者なんだよねぇ。これは,身体を鍛えておかないとダメだわ。
これだけ動いているんだから汗をかくよねぇ。しかも襟の開いた軽装でやってるんじゃない。しかし,汗を見せない。これは巧妙というべきなのだろうか。
指揮者って容赦ないものだってのもわかる。奏者とすれば,演奏を止めて,指揮台にツカツカと歩み寄って,指揮者の首を絞めてやりたい,と思うことはないんだろうか。
● この席だと,弦よりも管が近くなるんだけど,それによって聞こえてくる音に違和感を感じることはまったくない。
フルートの男子学生が目立っていた。木管奏者の動きがよく見えるのは,この席の役得だ。ぼくの席だと,金管は視野から消えてしまうのだが。
● 第3楽章はスウィーティーな舞曲で,自分もどこぞの色白美女と踊っているような気分に染められるんだけど,演奏する方はスウィーティーどころじゃない。弦の奏者は忙しく左指を動かしている。必死こいているというのは失礼すぎる言い方かもしれないけれど,アヒルの水掻きという言葉を思いだした。
曲の骨格が浮きでてくるような,くっきりとしたクリアな演奏。ノイズがないからくっきりと聞こえる。さすがは音大の高水準。ここまでの演奏を聴ける機会はそんなにない(ぼくの場合は)。
● 国立音大のブラームス2番。指揮は尾高忠明さん。
1番が苦節20年なのに対して,2番は4ヶ月で仕上がった。だから1番より軽いし,ゴツゴツしていない,おおらかで伸びやかだ,と言われる。
実際そうなんだろうけど,ぼくの耳ではそのあたりの対比というのが,いまいちピンと来ない。1番も2番もCDを含めれば数え切れないほど聴いているはずなんだけど,その対比を聴き取れていない。
2番も沈鬱な苦渋を感じるところが多い。時に豪華絢爛もあり,たゆたうような穏やかさを感じる楽章もあるんだけど,全体の印象は1番とさほど変わらないというかなぁ。
● オーボエの女子学生が目立った。プレッシャーもあったろうけど,美味しかったと思うな。
この曲だとやはりオーボエですか。オーボエが彼女だからこの曲を選んだってことではないんだろうけどね。
● 洗足はマーラー。指揮は秋山和慶さん。尾高さんにしろ,秋山さんにしろ,功成り名を遂げた日本を代表する指揮者。彼らの指揮ぶりに接する機会も,ぼくの場合はほぼないので,この音大フェスはありがたい。
指揮者って長命でしかも最後まで現役って人が多い印象なんだけど,それもわかる気がする。これじゃ年なんか取ってられないっていうかね。
指揮者以外の職業に就いている人でも,このあたりは大いに参考になるかもしれない。仕事の細かいことで頭をいっぱいにして,始終動いていればいいのだ。
もっとも,それをやると老害と言われることが多いのが,ぼくらの職業のほとんどだろう。ひょっとしたら,指揮者でもそう言われているのかもしれないけど,実際問題としてお座敷がかかるんだからね。
● マーラーなんだから,打楽器を中心に編隊が大きくなる。ティンパニが淡々とテンポを刻んで舞台を維持する。淡々というのが,しかし,できそうでなかなかできない(のじゃないか)。
気持ちをできる限り平らにして,あるいは小さく(細かく)して,時を刻んでいくという。
● 初めてこの曲を聴いたときの印象は,“鄙”だった。田舎びている,素朴である,日向の臭いがする,そういう印象だった。
じつは今でもそこからあまり出ていないんだけど,その鄙の中に,あるいは鄙と鄙とのつなぎ目に,マーラーの洗練が見えるようにも思える。
しょせんは,聴き手の器量以上の聴き方はできない。目下のぼくの器量はそんなところだ。
● 彼らのうち,プロの世界に行く人が何人いるのかは知らない。大学の専攻と社会に出てからの仕事の間に関連がある方が珍しいから,音大卒といえども音楽の世界ではないところで生きていくこと自体は,別に異とするに足りない。
しかし,音大生の場合,どうしてもそこを考えてしまうのも事実であって,それはなぜかといえば,大学での元手のかけ方が違うからだろう。経済学部や文学部の学生が大学で学んでいるとは誰も思っていない。遊んでいるのだと思っている。学んでいるとしても,大したことはやっていない。自分も経験しているからよくわかる。
● しかし,音大生は違う。音楽だけをやっている。実際には違うかもしれないけれど,そういうイメージがある。しかも,音楽なのだ。つぶしが利かないのだ。
実際はね,藝大を出てソニーの社長になった人だっているんだから,大学で何をやった(やらなかった)とか,つぶしが利くとか利かないとか,そんなのは一切無関係だってのはわかるんだけどね。
それでも,彼らのこれからの行く末に思いをいたさせるのも,音楽の持つ魔力のひとつなのかと思った。
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