2018年12月31日月曜日

2018.12.31 ベートーヴェンは凄い! 全交響曲連続演奏会2018

東京文化会館 大ホール

● ベートーヴェンの9つの交響曲を,1番から9番まで順番に演奏するこの演奏会,8年連続で8回目の拝聴。今年で最後にしようと2,3年前から思っている。が,できないで今年も来ましたよ,と。
 この日,小ホールでは「ベートーヴェン弦楽四重奏曲演奏会」も行われているのだ。こちらはさすがに全曲とはいかないけれども,2年続けて行けば全曲を聴くことができるはず。
 こちらの方が通っぽいじゃないか。交響曲は華やかだけれども,その華やかさに惹かれてしまうのは,どこかにミーハーの気配を残すじゃないか。

● 開演は13時。終演はたぶん来年。指揮者(小林研一郎)とコンマス(篠崎史紀)は不動。管弦楽は岩城宏之メモリアル・オーケストラ。メンバーは毎年入れ替わっている。
 今回の席は3階左翼の2列目(B席)。昨年は4階右翼の1列目(C席)だった。そっちの方が良いと思う。このC席はかなりお得。
 ただし,この席を取るには,スマホかPCをスタンバイさせておいて,発売開始と同時に申し込まないといけない。3時間後では遅い。今回,ウッカリしてしまったのだ。
 とはいえ,B席でも1万円なわけで,この演奏会を1万円で聴けるとは,タダ同然といっていいかもしれない(S席でも2万円なのだ)。あまり席のことで文句を言ってはいけない。

● 1番と2番を続けて演奏して,休憩を挟んで3番,さらに4番。こういうのを聴かされると,今年でやめようと思ったところで,そうもいかないよなぁと思う。
 この演奏会は,演奏する側にとってもお祭りの気味合いが多少なりともあるのではないかと思う。プロ野球のオールスターゲームと一緒で,真剣にやっていないわけではないけれども,ペナントレースと同じ構えではないだろう。それぞれが所属するオーケストラの定期演奏会に臨むときとは違うはずだ。
 何がいいたいのかというと,リラックスしているんだろうなってこと。だからいけないというのではない。逆だ。リラックス効果というものがあるような気がする。

● ただね。この演奏会の客席の水準はそんなに高くないよ。おまえが言うなって話だけど。演奏中にプログラム(別売,2,000円)を見るバカがいるし,プログラムを落とすヤツもいるしね。
 さすがに楽章間の拍手はない。ほんのちょっとしかない。電波が遮断されるので,ケータイの着信音がなることはない。

● 4番が終わった後に主催者の三枝成彰さんの話があった。「日本(アジア)と欧米における文化評価の違いについて」というタイトルになっていたが,それはまぁそれとして,この演奏会のコストの話があった。ぼくはこちらの方に興味がある。
 チケット収入ではとても賄えない,と。トヨタをはじめ協賛企業の資金提供があればこそ。当然そうだろう。例年,チケットは完売になるのだが,そもそも破格に安いわけだから。
 出演者には4回分のギャラを払っている。そうだったのか。付帯経費を含めると,相当な額になる。

● ということは,セコい話だけども,聴かなきゃ損ということ。チケット代の半額(かどうかは知らないが)補助を受けているようなものだから。
 協賛企業が全額負担して,自社の社員を客席に派遣するなんてことになったら,コンサートは成立しない。客席にはどんな動機であれ,聴きたいからここに来たという人がいなければならない。だから,あまり遠慮しないでゴチになったらどうか。

● ここで45分の中休止。館内のレストランではビールやワインも商っている。もちろん,悪いことではない。まともなホールならバーコーナーくらいはある。
 リラックスして聴けるし,それが楽しみだという人も少なくないだろう。自分は演奏を楽しむために来ているのだ,勉強しに来ているわけじゃない,と。
 それぞれなりの楽しみ方をすればいいのだと思うが,それでもアルコールはどうなんだと思うのだ。昨年,自分もそれでだいぶ損をしたと思っているので。

● 楽しみ方は人それぞれだとしても,全員に共通する前提がある。「聴く」がそれだ。「聴く」を妨げるような要素は排除した方がいいのでは。
 その「聴く」にもいろいろあるだろうと言われれば,それはそのとおりだと返すしかないのだが。耳をすますのではない聴き方もたしかにあると思うので。子守唄がわりに聴くというのだってありだと思うし。
 でも,コーヒーにとどめておいた方がいいのでは,と思ってしまうのだ。ぼくらはお金を払ってチケットを買った,サービスを受ける側の人間であることに間違いはないのだけれどもね。

● 中休止のあと5番。例年,5番と7番で熱く盛りあがるというふうになる(もちろん,9番は別格)。演奏者も聴いてる側も同じなのだから,曲そのものの然らしめるところと解する他はない。
 冷静に(?)そう解してみても,皮膚がビリビリするような感触を味わうのだ。マイクで拾ってアンプで増幅してるわけじゃない。生音でこの音量。多彩な音の粒が巨大なひとつの塊になる。オーケストラって凄いなと思うわけだよね。

● 6番はやや退屈と感じたこともある。が,同じ旋律にバリエーションをつけて巨大な構築物にする手法は,5番より徹底しているかもしれず,その構築物ができあがってゆく過程を堪能すればいい。
 要所要所で存在感を示すオーボエが素晴らしい。音色の明晰さが非常によくわかる。

● 6番が終わった後は90分の大休止。夕食タイム。当然,レストランでビールやワインを嗜む人も多い。が,先に申しあげたような理由で,アルコールは終演まで我慢するのが吉かと存ずる。
 客数に比してテーブル席は圧倒的に少ないので,ワイングラスを片手に立って喋っている人も多い。ピッと背筋を伸ばしていると,文句なくカッコいい。
 あ,見られることを意識しているな,こいつ,とか思う。エッへへへ,だから来てるんじゃないか,って。いや,気持ちはよくわかる。
 ロビーからレストランに至る石の階段に腰をおろしている人はもっと多くいる。でもって,おにぎりとか食べてる。堅実派。これまた,気持ちはよくわかるっちゃわかる。
 ぼくは朝のうちに1日分のカロリーを摂取しちゃってるんで,夕食は抜き。

● 大休止の後に7番と8番。7番はやはり盛りあがった。終演後,立ちあがって拍手するヤツが出る。気持ちはわからんでもないが,すこぶる目障りだ。座っていることがなぜできぬ?
 それからブラボーの専門家もいる。こいつのブラボーが早すぎるんだな。一拍置けと言いたくなる。こういうバカを摘みだす方策はないものか。
 場内放送で言ったらどうかね。下品なブラボーは他のお客様のご迷惑になりますので・・・・・・

● 音楽とは何の関係もない話なんだけど,女子奏者にはドレス着用を義務付けてほしい。稽古着なのかよく知らないけど,レオタードみたいなのは困る。体の線がくっきりでる。
 それでなくても演奏中の奏者はセクシーなのだ(演奏中だけセクシーなのだが)。どうしても見てしまうのだ。見るなというのは酷である。よろしくご配慮をお願いしたい。

● 8番が終わった後,指揮の小林さんが客席に話しかけた。これだけの音は超一流じゃないと出せないと思うんですよ・・・・・・。
 で,客席がヤンヤの拍手。そっか,その超一流の演奏に,今,俺は立ち会っているんだ,やったぜ。オーケストラへの称賛というより,その満足感の方が勝っていたように思えた。
 どんだけ根性がひん曲がってんだ,おまえは,と言われますかねぇ。

● ここでまた45分の中休止。そうして「第九」となる。日本で1年の最も遅い時間帯に演奏される「第九」だ。この時間に声を出さなければならないのも大変だと思う。
 ソリスト陣は昨年と同じく,市原愛(ソプラノ),山下牧子(アルト),笛田博昭(テノール),青戸知(バリトン)の諸氏。合唱はこれまた不動の武蔵野合唱団。

● 何というのか,ぼくの耳には,完璧以上。何ものかを孕みつつある混沌を描いたかのような第1楽章からして,どこに飛んでいくのかわからないほどに,ダイナミックでワイルド。が,フォーメーションは1mmも崩れない。
 低弦部隊もヴァイオリンも木管も金管も打楽器も,そして合唱陣も,それぞれの役割を果たして,何というのか空白がないという感じ。いやはや,何とも。

● 会場を出たときには年があらたまっていた。年なんかどうだっていいと思った。
 さて来年(いや,今年)はどうするか。9回連続にするか,弦楽四重奏曲演奏会にするか。
 ベートーヴェンにあやかって9回は聴くかな。そうしてから,小ホールの客になるか。そのあたりがまとまりのいい結論っぽいな。

2018年12月24日月曜日

2018.12.23 第36回宇高・宇女高合同演奏会(第九「合唱」演奏会)

宇都宮市文化会館 大ホール

● この演奏会は第27回からほぼ1年おきに聴いてきたんだけども,34回から3年連続になった。じつのところ,今年は見送るつもりでいた。この演奏会に出かけるのはかすかに億劫なのだ。
 その理由は非常に単純で,半端なく混むからだ。あまりの混雑は鬱陶しい。開演は13時30分で,会場は45分前。が,45分でも足りるかどうか,と思うくらいの長い行列ができる。

● 世の中には並ぶのを苦にしないというか,むしろ嬉々として並ぶのを楽しめる人たちがいるようで,appleの新製品の発売日前夜から行列を作る人もいる。TDRもそういう人たちのおかげで商売ができている。
 appleにしてもTDRにしても,それだけのコンテンツや話題性を提供しているのだと思うが,その列に加わるのは,相当な理由があるのでなければ御免こうむりたい。

● いつだったか,ソフトバンクが吉野家牛丼の無料クーポンを配布したことがあった。380円の牛丼を無料で食べるために,とんでもない行列ができた。
 ソフトバンクもソフトバンクだが,380円の牛丼をタダで食べるために,1時間以上も並べる輩がこんなにいるというのは,ぼくの理解を超えた。こういうのって,祝祭性を帯びるんだろうか。
 だとしても,世の中は暇人で溢れかえっているのだと感じたことだった。時間コストを気にしなくてすむのは,暇な証拠だから。
 ラーメン店や飲食店にできる行列も理解しがたいもののひとつだ。並んでまで食べるに値するものが,この世にあるわけもない。

● というと,ぼくはけっこう忙しい人間のように思われるかもしれない。そうではない。言っちゃなんだけど,ぼくはハッキリ暇である。ぼくほどの暇人がそんなにいるとは思えない。
 しかし,だね。行列に加わるのはねぇ。あれって見た目が下品だしね。旧ソ連に生まれなくて良かったとつくづく思うわけでさ。

● そこを押して,この演奏会は3年連続になった。その所以は以下においおいと述べることにする。
 混むのはわかりきっていたので,早めに並んだ。2階右翼席の最も左側に着座。ぼくはここが一番カンファタブル。
 チケットは1,000円。当日券はあるにはある。が,前売券の売れ残りではなくて,最初から当日券分として取り分けておいたものかと思われる。緊急避難用ではないか。
 ゆえに,この当日券はあてにしない方がいいだろう。前売券を買っておくのは必須。

● 3階席までギッシリ。両校の関係者が多いのかもしれないが,県内きっての名門ブランドの集客力もあるのかも。
 2階席中央に来賓席がかなり確保されていた。いささか確保しすぎたようだ。開演時には立ち見客もいたのだが,確保しすぎた分を彼らに開放することはなかったっぽい。
 そのあたりの臨機応変性というか機敏性を学校関係者に期待するのは,期待する方が間違っていることはわかっているけれども,少しもったいないような気がした。
 いや,この演奏はOB会が主催だった。それゆえかどうかは知らないが,学校長挨拶などというマヌケなものがないのはとてもいい。

● 今回は例年と違って,宇高合唱から始まった。オナーティン,磯部俶(詞:室生犀星),youth case(詞:小山薫堂)の「ふるさと」3つ。多田武彦の“鐘鳴りぬ”と清水脩「最上川舟唄」。
 宇女高合唱は「キャロルの祭典」から“入場”,“来たれ喜びよ”,“四月の朝露のごとく”,“この小さな嬰児”。この曲は3年連続となる。宇女高合唱の定番。
 シュミットとプーランクの小品をいくつか。今回の合唱の山はここになった(と思う)。

● そのあと,両校の合同演奏があって,第1部は終了。15分間の休憩。といっても,これだけビッシリと満席だと,休憩中に席を立つのも面倒くさくなる。
 左奥の席なのでなおさらだ。じっとしてる方がいいやとなる。

● 第2部は管弦楽。両校の管弦楽が乗るわけだから,大編隊になる。ちょっと窮屈そうだ。
 まずは管弦楽だけで,サン=サーンスの交響詩「死の舞踏」。この曲って,TDLの「ホーンテッド・マンション」を思い浮かべながら聴けばいい? あそこまでコミカルじゃなくて,あれをもっとシリアスにした感じの。って,そういうものじゃないでしょうねぇ。
 交響曲第3番のスケルツォ楽章を思いださせるような旋律があったりして,聴く側からすればお楽しみが多い曲だと思う。

● 最後は両校のオールキャストによるヘンデルの“ハレルヤ”と「第九」の第4楽章。
 昨年は「第九」より“ハレルヤ”が記憶に残った。こういうのって,演奏側がどうのこうのじゃなくて,主にはこちら側の事情による。極端な話,「第九」じゃなくて“ハレルヤ”に感動してやろうと思って聴くと実際にそうなる,という法則(?)だってありそうだ。
 今回もこの“ハレルヤ”にいたく感心した。

● この演奏会は今回が36回目。現在は宇都宮で開催される「第九」は2つある。日フィルと栃響によるもの。36年前にはどちらもなかった。
 だから,この演奏会は宇都宮においては生で「第九」を聴ける唯一の機会だったかもしれない。第4楽章だけであっても。が,今はそんなわけで,他に全楽章を聴ける機会が2つもある。
 だったら,「第九」はそちらにお任せして,こちらはたとえば“ハレルヤ”のみならず「メサイア」の全曲をやるとか(演奏時間が2時間半に及ぶ。まったく現実的ではないな),「第九」以外の一手を指してみるのはありかなぁと思った。

● そう思ったあとで「第九」第4楽章。宇高・宇女高といったって,構成員は毎年入れ替えがある。そうである以上,年によって波がある。
 何度か聴いたこの演奏会で,これならこの演奏で全楽章を聴いてみたいと思ったこともあるし,そこまでは思わなかったこともある。
 で,今回は,全楽章を聴いてみたいと切に思った。技術ではない何ものかが立ち上がっていると感じたから。

● その何ものかが立ち上がったのは,演奏開始とほぼ同時。では,その何ものとは何か。
 この演奏会における「第九」は高校生が演奏するところにアピールポイントがある。高校生でもここまでやれるのだという,そこのところを知らしめるためのものというか。
 であるから,主役はあくまで演奏する高校生であって,ベートーヴェンはその高校生を引き立てるための媒介に過ぎない。そういうものだと思って聴いている。
 感心したとか,巧いと思ったとか言っても,それはそういう範疇での話であって,それを超えるものではない。それが暗黙の前提としてある。

● しかるに何ぞ。ステージから客席に届いてくるのは,間違いなくベートーヴェンなのだった。ベートーヴェンが立ってゆらゆらと揺れている。
 演奏している高校生は背後に退く。主役が主役としての役割を全うすると,こういうことが起こるのだ。
 技術ではない何ものかとは,比喩的にいうとそういうことだ。あくまで比喩でしかないが。
 なぜそういうことが起こるのか。わからない。言葉にできないというのではない。そもそもわからない。

● 何ものかを立ち上げるためには,これだけの技術が必要なのだろうと思う。が,もっと巧いオーケストラはアマチュアの中にもある。あたりまえだ。
 そのもっと巧いオーケストラの「第九」を聴いても,ここまでくっきりとベートーヴェンを感じたことは,さて,何回あったか。

● それから。合唱,特に女声,が素晴らしい。お見事という他はない。練習時間はそんなに取れなかったろうに。

● 宇高・宇女高合同演奏会といっても,率直に申しあげて,合唱においても管弦楽においても,4分の3は宇女高が支えている。
 その分,奔放さにおいては宇高生が勝ると言えればいいんだけれども,これも意外にそうではない。型を想定してそこに自分を嵌め込もうとしているのは,むしろ男子に多かった印象がある。おそらく楽器の経験年数の違いかと思われるのだが。
 男子受難の時代はしばらく(ひょっとすると,半永久的に)続きそうだ。が,彼らの年代だと,彼は昔の彼ならずとなる可能性はいくらでもある。今はあくまで途中経過に過ぎない。演奏に限らない。

● とはいえ,数年前に比べると,宇高管弦楽団の水準が切り上がっているので,溶けあわない2種の油をひとつの容器に入れた感は薄くなった。
 というわけなので,第4楽章だけの第九は第九ではないとは誰でもわかる話だけれども,それでも聴いておいて損はない。混雑や長い行列に並ぶのを忍んでも,聴いておいた方がいいでしょう。

2018年12月17日月曜日

2018.12.16 第11回栃木県楽友協会「第九」演奏会

宇都宮市文化会館 大ホール

● ベートーヴェンの「第九」は大世界遺産だと思う。凡百の世界遺産が100個束になってかかっても足下にも及ばないほどの,大世界遺産。
 この大世界遺産の素晴らしいところは,CDで好きなだけ聴けることだ。所有できる世界遺産だ。
 しかも,リッピングしてWALKMANやスマホに転送すれば,いつでもどこでも好きなときに聴けるのだ。世界遺産をポケットに入れて持ち歩ける。この一点だけでも,ぼくらは恵まれた時代を生きている。

● 音質が良くなっている。昔日の比ではない。携帯音楽再生プレーヤーのほぼすべてがハイレゾに対応するようになった。たいていのスマホも同様だ。
 普通の圧縮音源でもハイレゾ相当に復元して再生してくれる。イヤホンもノイズキャンセリング機能が標準になりつつある。いやはや。

● 可能ならば音楽は生演奏で聴いた方がいいと思っていた。CDで生演奏並みの迫力を出すのは不可能ではないかもしれないけれども,環境の整備に億のお金を投じる必要があるだろうから,まったく現実的ではないと考えていた。
 が,ハイレゾが普通になってくると,ある程度の割り切りは避けられないものの,録音音源だけで充分かもしれないぞと思うようになった。ややもすると,ライヴ不要論に傾きそうになる。

● 実際のところは,ライヴの醍醐味は音だけではないので,録音音源の視聴環境がどれほど進化しようと,ライブが不要になることはあり得ない。
 そういう前提で,それでも演奏のみを聴ければいいというのであれば,もうWALKMANのみで足りるとぼくは思っている。

● ただし,「第九」に関しては,CDにはひとつだけ不満がある。合唱がちゃんと録音されていない。録音の仕方の問題なのか,合唱の録音がそもそも難しいことなのか,ぼくにはよくわからないが。
 ソリストの声はきちんと入っているのに,合唱がぼけてしまっている。合唱が遠くに感じる。空気を引き裂いて客席に届くあの迫力を,CDで感じることはない。オラトリオやオペラはどうなのだろう。
 だから,「第九」に関しては,ライヴを聴ける機会があったら,逃さない方がいいだろう。

● というわけなんだけども,11月に二度「第九」を聴いている。18日(鹿沼)24日(川崎)。もう今年は「第九」は聴かなくてもいいかとじつは思っていた。今日は栃響の「第九」なんだけども,見送るつもりでいた。
 が,「ライヴを聴ける機会があったら,逃さない方がいい」のだと自分に言い聞かせて,2日前にチケット(1,500円)を買ったのだった。
 結局ね,妙に斜に構えないで,聴けるときに聴いとくものだというのが結論。

● 開演は午後2時。指揮は荻町修さん。
 いつもは県の総合文化センターで開催されるのだけど,総合文化センターは絶賛改修中。だから使えない。ので,この会場(宇都宮市文化会館)になった。おそらく来年も同じではないかと思う。
 総合文化センターに比べると,こちらは収容人員が多い。1階席と2階席は埋まったが,2階の右翼と左翼,3階席には空席が多かった印象。
 といっても,この会場を3階席まで満席にする催事は,ぼくが知る限り2つしかない。ひとつは作新学院吹奏楽部の定期演奏会。もうひとつは,来週開催される宇高・宇女高合同演奏会。いずれも高校生を動員できるという。

● “さすがは栃響”の精緻なアンサンブル。互いの音をよく聴いているし,奏者それぞれが全体の音をイメージできているような気がした。ステージにいて客席の音をイメージするのは,なかなか以上に難しいのではないかと思うのだが。
 それを象徴するのが木管陣で,なかんずくフルートの1番に瞠目。躊躇なく前に出る小気味よさ。最近,小気味いいというのは女性の特性なのだと思うようになった。
 コンマスを別にすれば,最もしなやかさを感じさせたのが,彼女のフルート。が,彼女は最も目立ったものの,一例にすぎない。

● 栃響の「第九」では,2012年(第5回)の神がかったような演奏を忘れることができない。その再現はしかし,難しいようだ。
 “北京で蝶が羽ばたくとニューヨークでハリケーンが起こる”的な複雑系に属する出来事なのだろう。複雑系の回路はブラックボックスだ。初期値がわずかに違うのだと思うが,その初期値を解明することなど,誰にもできない。

● チェロとコントラバスが“歓喜の主題”を静かに奏し始め,これがヴィオラ,ヴァイオリンに渡され、ついには管弦楽全体が壮大に歌いあげる。ここが第4楽章の白眉。
 苦悩と戦って歓喜に至るという場合,これで充分じゃないかと思う。これ以外,何があるというのか。これで“歓喜”は表現され尽くしたではないか,とぼくなんぞは思ってしまう。
 が,ベートーヴェンはそれすら捨て去り,さらに前に進んでいく。前人未踏の境地に分け入るとはこういうことだ(いや,ここまでの道のりも前人未踏だったわけだが)。

● 超人だと思う。天才の技という段ではない。天才もしょせんは人だ。が,ここにおけるベートーヴェンの所為はもはや人為を超えている。
 これほどの捨て身の跳躍は,音楽以外の分野を含めて,ぼくは他に知らない。「第九」が大世界遺産であると思う所以だ。

● これほどの壮大なドラマ(もしこれをドラマというならば,であるが)は,やはり良い演奏で聴きたいものだ。
 ベートーヴェンが残した,奏者のことをほとんど考えていないと思われる楽譜。そのとおりになぞどうやったって演奏できるわけがないじゃないか,と言いたくなる箇所がいくつもある楽譜。
 その楽譜を,ベートーヴェンの意を汲んで,精緻な演奏で表現しきることができるオーケストラが,そんなにたくさんあるとは思えない。栃木県ではひとり栃響のみと断言する勇気はぼくにはないけれども,ここまでの水準で「第九」を差し出してもらえれば,神がかってはいないとしても,まずもって文句はない。小さな事故は不問に付されて当然だ。

● ともあれ,栃響の「第九」が終わると,今年も暮れる。暮れたところで,今はまだ“来年”と呼ばれている“今年”がやってくるだけなんだけどね。
 といったあたりが,凡人が考えるせいぜいのところなのだ。凡人とベートーヴェンとの違いは,保育園の砂場の砂山とエベレストほどの違いであるだろう。

2018年12月11日火曜日

2018.12.09 真岡市民交響楽団 第58回定期演奏会

真岡市民会館 大ホール

● 1年ぶりの真岡市民交響楽団。開演は午後2時。チケットは500円。当日券を購入して入場。

● 曲目は次のとおり。指揮は佐藤和男さん。
 シューマン 劇音楽「マンフレッド」序曲
 ブラームス ハイドンの主題による変奏曲
 ブラームス 交響曲第2番 ニ長調

● 昨日,百田尚樹『至高の音楽』を読んだ。いわゆる名盤探しに血道をあげる人に対して,「演奏を聴くな,曲を聴け」と戒めている箇所がある。
 ぼくは同一曲について複数のCDを聴き比べることをほぼしないのだが(唯一の例外がバッハのゴルトベルク変奏曲。「第九」のCDは手元に7枚あるが,うち6枚は一度も聴いたことがない。それもどうかと思う),演奏を聴いて曲を聴かないという戒めは自身にも適用すべきだろうと思った。

● というのも,ライヴをメインに据えているからで(というより,CDをあまり聴かないわけだが),それだとどうしたって視覚に引きずられる。奏者の姿形とか,ヴァイオリンなら右腕の動きの速度とか角度とか,身体のゆれ具合とか。
 視覚はコンサートホールにおいても聴覚より優位であるようで(ぼくだけか),それが曲を聴くことを妨げているかもしれない。客席にはときに瞑目して聴いている人がいるが,それではホールに来る意味がないだろうと思っていた。のだが,それもありなのかもしれない。時々は視覚を遮断した方がいいのかも。

● というわけで,「演奏を聴くな,曲を聴け」と自分に言い聞かせて客席に着いた。けれども,曲は演奏に体化されているわけで,演奏と曲を切り分けるのは難しい(っていうか,できない)。
 外見と中身といわれる。が,人の外見と中身を峻別することはできない。外見は中身の表層という言い方はまったく正しい。外見に現れたところの中身を見るのだ。あるいは,外見を通して中身を推測するのだ。外見と切り離して,中身をダイレクトに把握する術はない。
 というのとパラレルではないんだけれども,演奏と曲を分けることは甚だしく困難だ。

● レコードもテレビもラジオもなかった昔は,音楽を聴く手段は生演奏しかなかった。その機会を得られたのは貴族に決まっているのだけれども,当時の貴族は楽譜で曲を鑑賞できたらしい(できた人もいたらしい)。
 スコアを読んで,相当な細部あるいはディテールまで脳内で再生できたのだろう。人は道によって賢し。
 こちらはそんな芸当のできるはずもないから,曲を聴くには演奏に頼るしかない。演奏にしか頼れないんだから,いよいよ曲と演奏を切り分けることはできない。というわけで,演奏を聴くことにした。

● クラシック音楽を生で初めて聴いたのは,2009年の5月9日。この真岡市民交響楽団の演奏だった。それもブラームスの2番。
 初心に帰らねば。というかですね,何も知らなかったあの頃が聴く楽しさを最も直截に味わえたような気がするんですよ。コンサートのたびにドキドキした。ふぅぅっとため息をついて帰途についていた。

● ところが,あの頃の真岡オケと今の真岡オケはたぶん別物になっている。指揮者は変わらないが,メンバーはその多くが入れ替わっているのではないか。むしろ,当時から賛助で参加していたメンバーの方が不動度(?)が高いような気がする。
 メンバーが替わっても,変わらず残るものがあるのかもしれないが。

● 「マンフレッド」序曲から,演奏はたしかだ。小さな地方都市にこれだけのレベルの市民オケがあるのは,それ自体が驚きだ。が,その賞賛は賛助参加者に帰せられるべきものかもしれない。
 それほどに弦には賛助が多い。ゲストコンサートマスターの上保さんをはじめ,トレーナーも加わっているし,栃響のメンバーが多数いる。

● 市民オケを維持して運営していくのは,傍が思うほど楽ではないようだ。人集めから始まって,オーガナイズして,演奏会まで持っていくのは,かなり骨の折れることなのだろう。
 なかんずく,最初の人集め。地方の市民オケはリクルート合戦を繰り広げている印象がある。少ない人材の奪い合い。今はどの世界でもそうなんだが。

● しかし。賛助が少ない管とパーカッションも,かなりの水準にあると思えた。オーボエ,フルート,クラリネット。あとホルンもね。
 最も刮目したのは,ブラームス2番のティンパニ。構えが柔らかい。360度どこから攻撃されても対応可という風情。マレットの捌きも細やか。ティンパニは客席から見ると指揮者の次に目立つから,ここが締まると演奏以上に見た目が締まる。彼,前からいたんだっけ。

● 今回は,そういうわけで,地方の市民オケが置かれた状況の厳しさをちょっと感じた演奏会。
 どこもそうなんだけど。賛助なしで成りたつところなんてないんだけど。お互いに融通し合っているものだと思うんだけど。

2018年12月10日月曜日

2018.12.08 第9回音楽大学オーケストラ・フェスティバル 東京音楽大学・東邦音楽大学

東京芸術劇場 コンサートホール

● 音大フェスの4日目,つまり最終回。今回は皆勤することができた。
 どんだけ暇なんだよ,おまえは,と言われるかもな。言っちゃなんだけど,暇人は最強だからな。暇があって,そこにSome Money(大金の必要はまったくない)が加われば,ほとんど天下に敵なし。天上天下唯我独尊の世界になる。

● 東京音大はR.シュトラウスの交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」。指揮は広上淳一さん。
 オルガンも加わる大編隊。大編隊を要する楽曲がしばしば取りあげられることを,この音大フェスの特色のひとつに数えていいかもしれない。
 大学によって演奏に何か特徴があるかといえば,当然ながらそんなものはない。実力は伯仲しているかもしれないが,桐朋はこう,芸大はこう,国立はこう,というようなそういう特徴はないし,あったらむしろおかしい。

● 世はあげてグローバル化の時代なのだ。いかに外に向けて自身を開くかが問われているのであって,ウチに籠もって自らの特色を模索してみても仕方がない。やってもいいが,それは停滞と呼ばれるものになる。まして世界言語の音楽なのだ。
 というわけで,東京音大のこれが特徴だというものは,ぼくには捉えることができない。しかし,これまで聴いてきた各大学と同様に,素晴らしい演奏だというのはわかる。今の彼らにしかできない演奏で,強烈な一回性,一期一会の出会いを感じる。

● 広上さんは高名な指揮者であるけれども,彼の指揮に接するのは,ぼくは今回が初めて。頑固一徹な職人という風情。空気を読むなどということは,間違ってもやらなそうな感じ。学生にとっては怖い先生なのかもしれない。
 舞台袖から指揮台まで歩いてくるその歩き姿は,とてもコミカルなんだけど。

● 東邦音大はサン=サーンスの3番。こちらも大編成。オルガンの他にピアノも加わる。指揮は大友直人さん。
 この曲で最も耳を打つのは,(普通に数えれば)第3楽章の冒頭の部分だろう。何ごとが起こったのだと思わせる。
 以下,荒唐無稽なことを言うんだけど,ぼくはここでナポレオンの登場を想起する。そこから先は進軍に次ぐ進軍。ウィーンを落とし,ベルリンを落とす。それまで歯が立たなかった宿敵プロイセンを木っ端微塵に蹴散らして,パリに凱旋する。歓喜するパリ市民に迎えられて大団円。

● 徒しごとはさておき。この曲は長らくぼくには難解だった。“フランス”を頭から追いだして聴くのがいいと思う。
 そうじゃないと脳が勝手にこの曲の中に“フランス”を見つけようとしてしまうのだ。明るさとか軽さとか気分とか自由とか非様式とか,そういうものを探そうとしてしまう。
 そういうものをフランス的なるものとするのはそもそもどうなのよ,ということもあるわけで,ぼく程度の聴き手は注意しないといけない。

● この曲の全体を何とか脳内に収めることができたかと思ったのは,今年の6月に鹿沼ジュニアフィルハーモニーオーケストラの定演でこの曲を聴いたときだ。が,そうなると今度は,その鋳型に合わせて聴こうとしてしまう。
 いったんできた鋳型は壊さなければいけない。ぼく程度の聴き手は,ここでも注意しないと。

● 指揮の大友さん。あの髪型は大切な商売道具なのだろうな。大友さんの一部になっている。髪は女の命というけれど(本当だろうか),大友さんの場合はそれ以上の存在という気がした。
 無駄な贅肉がなくダンディだ。密かにかおおっぴらにかはわからないけれども,身体を鍛えているんだろうし,食事にも気を遣っているのだろう。放っておいたんじゃ(自然にしてたんじゃ)ああはならないものね。

● 今日も客席はほぼ満席。お客さんはよくわかっている。
 素晴らしい演奏で,これさえ聴いとけば,他は聴かんでもいいのでは。今年も終わったという気分になった。

● 終演後,「音楽大学フェスティバル・オーケストラ」のチケットを購入。9大学の合同チームによる演奏会。
 来年3月の30日と31日の2回公演なのだが,31日のカルッツ川崎でのチケットを購入した。ミューザではなくカルッツ川崎。川崎の旧市街(?)にある。川崎も駅とミューザの間(数百メートル)しか知らないから,旧市街を歩く機会を得られるのはありがたい。
 指揮は小林研一郎。「ひたむきに,一心不乱に自分の生き様を音に託して精進する学生諸君との共演。心が踊っている」と語っている。リップサービスではないはずだ。

2018年12月5日水曜日

2018.12.01 第9回音楽大学オーケストラ・フェスティバル 昭和音楽大学・国立音楽大学・洗足学園音楽大学

ミューザ川崎 シンフォニーホール

● 音大フェス,3日目。この音大フェスは国内で最も上質な演奏を聴ける場ではないかと,本気で思っていたりする。会場まで日帰りできる距離に住んでいることのラッキーを噛みしめている。
 自宅から川崎や池袋に出ることはまったく苦にならない。幸いなことに,電車が好きだ。乗れたうえに,川崎や池袋に移動できるんだから,電車という乗物はじつにどうもありがたい。

● 客席はほぼ満席状態。熟年夫婦が多い印象。ぼくの両隣もそうだった。クラシック音楽のコンサートもそうだし,(ぼくは行ったことがないけれども)歌舞伎のような伝統芸能の公演も,女性客が多いのだろうと思う。男性客が多いのはプロ野球かボクシングの試合くらいのものだろう。
 けれども,クラシック音楽に関する限り,男性客が増えてきたような気がする。一人で来ている男性がけっこう多くなった。どういう理由によるものか。って,ぼくもそうなんだけどね。

● 今回は3大学なので,けっこう長丁場になった。3番目に登場するところは,少し割を喰う。さすがに帰るお客さんが出るので。
 この音大フェスに行きだした頃は,お客さんのかなりの部分がその大学のOB・OGとその家族なのだろうと思っていた。自身の出身大学の演奏だけを聴きにきているのだ,と。そうではない。普通のクラシックファンが,安い料金で高水準の演奏を聴けると知って,これだけの動員になっている。
 そのクラシックファンでも,メインの曲目を3つ聴くのはなかなか大変ということなのだろう。あるいは,開演が15時なので,最後までいると帰りが遅くなりすぎるということかも。

ミューザのクリスマス飾り
● ミューザは,音響,ホール内の動線,スタッフの対応,いずれの点でも,ぼくの知る限り国内最高水準。最も優れたホールだと思う。サントリーホールよりもミューザがいい。
 ミューザがサントリーホールに負けているのは,唯一,場所が川崎だということくらいだろう。向こうは赤坂だもんね。その代わり,北関東から出向く際の便の良さは,ミューザが勝る。駅前という立地も助かる。
 実際,ミューザならサッと行く気がするのに,みなとみらいホールとなると,かすかに億劫さが兆す。川崎なら宇都宮から乗換えなしで行けるのに対して,みなとみらいホールに行くには横浜で乗り換えなければいけない。それも理由かもしれないんだけどね。

● 昭和音大はリムスキー=コルサコフの交響組曲「シェエラザード」。指揮は齊藤一郎さん。
 コンミスをはじめ,各パートのトップは責任重大。で,今年の昭和音大はすごかった。ナイフを入れれば赤い血がバッと噴き出しそうな「シェエラザード」。
 曲中のシェエラザード姫は命をかけてシャリアール王に対しているのだ。その緊迫感と言ってしまってはちょっと違うのだけれど,濃密感がハンパない。説得力のある「シェエラザード」だったと感じた。
 これですよ,これ。これが音大フェスなんですよ。

● 国立音大はチャイコフスキーの5番。指揮は現田茂夫さん。
 今回のぼくの席は3階席の中央。ステージはやはり遠い。が,目線を動かすことなく全体を見渡せる。
 この曲を演奏するために,奏者に要求される運動量が相当なものであることがわかる。この運動量を全員分合わせたら,膨大なものになる。その運動量が演奏にこれだけの起伏を生むのかと思ってみた。

● 洗足学園はバルトーク「管弦楽のための協奏曲」。指揮は秋山和慶さん。
 1日目に藝大の演奏で同じ曲を聴いたばかり。洗足には洗足のバルトーク。曲そのものを自分が受容できているかどうかまだわからない。わからないが,ズシンと来る演奏なのだ。

● ぼくの年齢になると,指揮者の秋山さんが気になる。御年77歳(たぶん)。なのに贅肉などなくスラリとしている。ダンディを絵に描いたようだ。
 指揮者ってほんとに若い人が多い。その理由のひとつが,こうして若い奏者で構成されている楽団を指揮していることにあるのは間違いあるまい。日常,若い学生たちと接していること。それも秋山さんのように,自分が持っているものを若い人たちに伝えるという関係を築ければ理想的だ。

● コンサート会場の客席に座るには申しわけないような恰好で,ぼくは行く。が,今日はぼく以上の人を目撃した。半袖Tシャツに素足にサンダルで来ていた猛者がいたのだ。暖冬とはいえ12月なんだが。
 ともあれ。頑張ろうぜ,猛者君。お互いに,な。いや,頑張らなくてもいいか,そんなところで。つーか,頑張らないから猛者になっているのかもしれないもんな。