2021年1月31日日曜日

2021.01.31 水星交響楽団 チェンバーシリーズ第3回演奏会

小金井 宮地楽器ホール 大ホール

● 水星交響楽団の演奏会。2014年以来,2回目の拝聴になる。これだけの技術を持つオーケストラの演奏をどうして6年間も聴かずに来たのか,と思う仕儀と相なった。
 開演は午後2時。入場無料。ただし,お約束の事前予約制。

● 曲目は次のとおり。指揮は齊藤栄一さん。
 プーランク フランス組曲
 ヒンデミット ヴィオラ協奏曲「白鳥を焼く男」
 プロコフィエフ 交響曲第1番「古典交響曲」

 芥川也寸志 弦楽のための三楽章
 ヒンデミット ピアノ・金管・2台のハープのための協奏音楽
 ヴィラ=ロボス ブラジル風バッハ第2番

● 全体を通じて最も印象に残ったのはプロコフィエフの1番。プロコフィエフの最初の交響曲。ここからプロコフィエフは始まったというのと,交響曲にしてはかなり短い曲だっていうのがあって(かつてはそうだったから,それゆえに古典),この曲はプロコフィエフの習作的なものだと思いこんでいたのだ。
 違うじゃん。これってプロコフィエフの助走なんかじゃないじゃん。むしろ,ひとつの到達点だ。蒙を啓いてもらった。

● わざわざスターリン時代のソ連に帰国して,後悔することはなかったんだろうかな。いや,なかったはずがない。アメリカでもフランスでも受け入れてもらえなかったことが,ソ連に帰国することを決意させたのだとすれば,自分の迂闊さに憤り,眠れぬ夜を過ごしたことも数知れず,だったろう。
 それとも望郷の念やまずというのが,帰国を決めた理由なんだろうか。「ふるさとは遠きにありて思うもの」であって,いったん故郷を出た以上は「うらぶれて 異土の乞食と なるとても 帰るところに あるまじや」という考え方は,世界のどこにでもあるものだと思うんだが。

● プーランクの「フランス組曲」とヒンデミット「白鳥を焼く男」は初めて聴く。「白鳥を焼く男」はCDも持っていない。
 協奏曲といっても,管弦楽はあり得ないほどの小編成だ。数的にもそうだけれども,ヴァイオリンがないのだ。こういう演奏を生で聴くことができたのも,コロナのお陰と言える。緊急事態宣言が出されるようなことがなければ,マーラーやブルックナーの交響曲を演奏していたのかもしれないのだから。

宮地楽器ホール
● ヴィオラ独奏は山本一輝さん。若き俊才。これからしばしばその名前を目にすることになるはずだ。
 曲目解説も山本さんが書いている。ヴィオリストにとっての3大ヴィオラ協奏曲があることも,この解説で知った。あとの2つは,CDで聴こうと思えば今からでも聴けるのだが。
 「ソリストは吟遊詩人として登場する」というのはどういうことか。ソリストのヴィオラは語るヴィオラということか。そのあたりのところは,実際に聴いた後でもよくわからない。ま,聴く人が聴く人だからさ。

● 芥川也寸志「弦楽のための三楽章」は先月にもTBSK管弦楽団の演奏で聴いた。コロナ禍で大編成を避けるのが普通になると,この曲を聴くことになる確率があがるということか。
 最近,CDでも聴くようになった曲のひとつだ。何度聴こうと,ウェルカムでしょ。

● 時間はサッサと進む。「ブラジル風バッハ」まで終わって終演。ボリューミーな内容だったので,アンコールがあるとは思わなかった。
 のだけど,マルケスのダンソン2番を。吹奏楽でアフリカン・シンフォニーをアンコールに持ってくるようなものですか。疲れを知らない人たちだ。
 ちなみに,山本さんのアンコールは,バッハ「無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第1番 ト短調」より “アダージョ”。これも幸せな数分間だった。

● この演奏会で最も目立っていた人は,指揮者でも奏者でもなく,椅子の並べ替えとか譜面台の移動とか,幕間にセッティングの変更を行っていた人。何人もでやっているんだけども,その中でもステージマネージャーなんだろうか,髪を後ろに束ねた男性が,何だか八面六臂の活躍っていう感じで。
 その後ろに束ねた髪型っていうのが,コンマスと同じだったので,コンマスが椅子を並べ替えているのかと思ったんだけど,もちろんそんなことはなくて,別人だった。

2021.01.30 ハイリゲンシュタット・フィルハーモニー管弦楽団 第1回演奏会

光が丘IMAホール

● 練馬区の光が丘にやってきた。このホールには過去に二度来ていると思っていたけれど,一度しか来ていないようだ。どうも,記憶はあてにならない。無から有を作ってしまう。
 そんなことはどうでも。コロナの緊急事態宣言のあと,予定していた演奏会を中止または延期するところが多くなってきた。致し方がないと思う。が,そうなると,昨年の春から夏にかけてのようなことにはなるまいとは思いつつも,聴けるものを聴いておかないとという切迫感も感じるようになる。

● というわけで,練馬区までやってきた。ハイリゲンシュタット・フィルハーモニー管弦楽団の第1回演奏会に立ち会えるわけだ。
 この楽団は「ウィーン・フィルの響きに魅力を感じ,その響きをアマオケで再現しようと」発足したらしい。「ウィーン・スタイルの管楽器(いわゆるウィンナ・ホルン,ウィンナ・オーボエ,アカデミー式クラリネット,山羊革と手回しチューニングのティンパニなど)を使用」する。それら楽器の解説はプログラム冊子にも載っている。

● ウィーン・フィルはたしかに不思議なオーケストラだ。何が不思議って,オーストリアの人口は880万人で,東京都より少ないのだ。それなのに,ウィーン・フィルは近年まで純血主義を続けてきた。しかも,女人禁制を敷いてきた。
 にもかかわらず,世界最高峰のほしいままにしてきた。これが不思議でなくて何だろうか。

● クラシック音楽は発祥こそヨーロッパであっても,今や世界の共有財産になっているし,日本に限ってみても約40の音大(音楽学部あるいは音楽学科を有する大学。教育学部の音楽専攻は含まない)があり,30を超えるプロのオーケストラが活動しているのだ。
 しかし,ウィーン・フィルの立ち位置は揺るがない。そこに日本のオーケストラが食い込む余地は,今のところは1ミリもない。日本人はオーストリアに留学に行き,オーストリア人は日本に稼ぎに来る。

● 現在のウィーン・フィルは純血主義は放棄したのだろうが,しかし白人しかいない(ベルリン・フィルとは好対照)。女性の奏者はいるにはいるが,ほんとに数えるほどだ。
 そんなことを続けていて,どうして世界一を維持できるのか。ウィーン・フィルは現代に残るギルドだと誰かが言っていた。父から子に一子相伝で伝えられていく何ものかがある(?)。
 楽器をウィーン・スタイルにしたところで,何がどうなるものでもないのだろうが,わかっていてもウィーンへの尽きぬ憧れがあるんでしょうねぇ。

● 楽器については聴く側の問題もある。ぼくがウィーン・スタイルの楽器での演奏を聴いたところで,それとわかるだろうかという疑問だ。
 たぶん(いや,きっと)わかるまい。自分を卑下しているわけではない。等身大に見ているだけだ。

● 開演は午後2時。チケットは2,000円。この2,000円が聴いてみようと思った理由のひとつでもある。アマオケで2,000円取るのは珍しいから。腕に覚えがあるのだろう。
 曲目は次のとおり。指揮は内藤裕史さん。
 モーツァルト ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲 変ホ長調
 メンデルスゾーン 交響曲第1番 ハ短調
 シューベルト 交響曲第1番 ニ長調

● まず,モーツァルトの「ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲」。独奏は鈴木響香さん(ヴァイオリン)と鈴木聡美さん(ヴィオラ)。
 二人は母娘。響香さんが娘で,聡美さんが母。娘さんは桐朋の学生。したがって(と繋いでも許されると思うのだが),娘さんの方が腕が立つ(言うまでもないが,お母さんも相当な腕前)。闊達であり,自在であり,想定外の事象に対する対応力に富む。危機管理能力が高いという言い方でもよい。
 お母さんは麻酔科医だそうだから,大学病院かそれに準ずるような病院で働いているのだろう。外科医ほどではないにしても,激務であろうかと思う。この楽団の団員でもあるようで,メンデルスゾーンになってからもヴィオラの列に加わっていた。

● メンデルスゾーンの1番もシューベルトの1番も,生で聴くのは今回が初めてだ。CDはどちらもカラヤンで聴いているが,聴いた回数は片手で数えられるほどでしかない。
 メンデルスゾーンのこの曲は,プログラム冊子の曲目解説で知ったのだが,彼が15歳のときの作品。この分野の天才は必ず早熟だなぁ。いきなりクライマックスから始まるような印象を受ける。何ごとが起こるのかと胸踊らせる効果がある。

● シューベルトの1番の出だしは,初夏の広葉樹の並木道を木漏れ日を浴びながら歩いているような気分にさせる。今の感覚なら,このときのシューベルトもまだ少年といっていい年齢なのだが,ここから悲しみが通奏低音になって全体を貫くような後の作品群に至るのが,不思議なような不憫なような,名状しがたい気持ちになる。
 神に選ばれてしまった者の栄光と悲惨を引き受けなければならなかった。シンドい人生だったろうなぁ。31歳で亡くなるとは本人も思っていなかったろうけれども,あれを50年も60年もやらなければならなかったとなると,それはそれでどうだったかなぁ,と。

● あるいはぼくの見間違いかもしれないんだけども,内藤さん,マスクをしたまま指揮していた。いや,だからどうこうじゃなくて,指揮ってマスクをしたままでもできるんだ,と思ったものだから。
 両手を胴体に縛りつけられても,顔を自由に動かせれば指揮はできるのもでしょ。指揮棒は補助で,メインは表情だ。指揮ってそういうものだと思ってた。
 マスクでこの下半分(3分の2か)を覆って見えなくしても,指揮ってできるんだな,と。眼力という言葉があるくらいだから,目が出ていれば指揮はできるんですかねぇ。

2021年1月25日月曜日

2021.01.23 寺根佳那 CDリリース記念ピアノ・リサイタル

彩の国さいたま芸術劇場 音楽ホール

● この日はミューザ川崎で開催される,「
ヴァールシャインリヒ シンフォニカー」の定演に行くつもりでいた。ブラームスのドイツレクイエム。この時期にこの曲をやるのか。予約入場制というので,チケットを取っておいた。
 が,18日に中止することが発表された。こういう状況なのだから,致し方がない。退くも地獄,進むも地獄。どちらを選んでも厳しい。その中で,退く方を選んだということだ。

● しかし,困ったことになった。翌日も東京で開催される演奏会を聴きに行く予定なのだ。しかも,その演奏会は正午開演なのだ。ので,今夜は東京に泊まるつもりで宿も予約してしまっている。
 代わりに何かないか。ネットで探してみたらこのピアノ・リサイタルがあった。すぐに “ぴあ” でチケットを買った。
 ので,この演奏会に行ったいきさつには,わりと身も蓋もないところがある。申しわけない。緊急措置的なところがあったわけだ。

彩の国さいたま芸術劇場
● 宇都宮発11:36の湘南新宿ライン逗子行きに乗った。緊急事態宣言が出されたばかりの9日には,車両にいるのは自分だけということがあったのだが,さすがにその状態は過ぎたようだ。
 大宮で埼京線に乗り換えて与野本町。家を出るときには降ってなかったんだけども,あいにくの雨だ。マツキヨで傘を買った。傘をさして歩くくらいなら,このまま帰ってしまいたい。そこを押して,着いたところがさいたま芸術劇場。

● 寺根佳那さんのピアノ・リサイタル。開演は午後2時。チケットは1,900円なのだが,プログラムが別売で100円だったので,ま,2,000円ということ。
 当日券もあった。空席が目立つのは,こういう時期だから仕方がないだろう。

● 曲目は次のとおり。
 バッハ 平均律クラヴィーア曲集 第1巻 第18番
 リスト バッハのカンタータ「泣き,嘆き,悲しみ,おののき」とロ短調ミサ曲の「十字架に付けられ」の通奏低音による変奏曲
 チャイコフスキー 18の小品より “即興曲” “ヴァルス・ブルエッテ” “5拍子のワルツ”
 チャイコフスキー ロマンス

 ラフマニノフ 幻想的小曲集より “エレジー” “前奏曲《鐘》”
 スクリャービン 3つの小品
 スクリャービン ピアノ・ソナタ第9番「黒ミサ」
 リスト アレルヤ
 リスト 超絶技巧練習曲第11番「夕べの調べ」

音楽ホール
● “CDリリース記念” とあって,そのCDに収録されている楽曲を演奏するという企画のようなのだけど,CD収録曲とまったく同じではない。
 寺根さんはロシアで勉強されたようで,ロシア産(?)の楽曲が多くなっている。すべての曲に聴かせどころがあるのだろうけど,まずはスクリャービンの9番。

● ウィキペディア教授によると,「黒ミサは,ローマ・カトリック教会に反発するサタン崇拝者の儀式」のことをいうらしいのだが,7番の「白ミサ」はスクリャービンが付けた副題なのに対して,9番を「黒ミサ」と呼ぶのは彼の友人が付けた通称であるとのこと。
 「ピアノの難曲の1つとしても有名」というのだけれど,寺根さんが弾くのを聴いて,それを意識できる人はそんなにいないだろう。名手は超絶技巧を超絶技巧に見せないで,軽々とやるから。

● もっとも,超絶技巧を超絶技巧として見せてもらっても,それが超絶技巧である所以をぼくらが,いや,ぼくが,と言い直そう,わかるかといえば,いささか以上に自信がない。
 たとえば,辻井伸行さんが「ラ・カンパネラ」を演奏する動画を複数,ネットで見ることができる。指使いを間近に眺めることができる。あれを見てどこまでその凄さに気づけるかという問題。

● そのリストの「バッハのカンタータ「泣き,嘆き,悲しみ,おののき」とロ短調ミサ曲の「十字架に付けられ」の通奏低音による変奏曲」も,今回初めて聴いた。CDも含めて,だ。
 リストはそもそもがほとんど聴かない。こうした機会に,少し体系的にリストの音源を揃えてみようか。最近,弦楽四重奏曲は少し聴けるようになってきたと思うのだが,ピアノ曲はこれからだ。

● この曲を録音で聴きたいというのであれば,寺根さんが出したCD「MISSA」を買ってしまうのが話が早くすむ方法かもしれない。
 けど,生演奏に2,000円出すのは何とも思わなくても,CDに3,000円を出すのはちょっと躊躇しちゃうケチ根性。少し,ネットをチェックしてみることにする。

● 寺根さん,着席してから演奏に入るまでの間をあまり取らない。横山幸雄さんほどではないけれど。
 終わるとさっと袖に消える。あまり思いを残さずに,次に動くタイプのようだ。サバサバした人なのでしょう。
 しかし,リサイタルじたいは,しっとりとした演奏会になった。

● 美形が際立つ人だ。「大学院在学中にミス・インターナショナル&ミス・ワールド2012ファイナリストに選出」というのだからハンパない。モデルとしても活動していた時期があるらしい。
 これほどの美貌を与えられてしまうのは,ピアニストとして得か損か。あるいは,ピアニストという枠を外して,女性として損か得か。
 細節や細々節を切り捨てて,ざっくり言ってしまうと,“やや損” というのがぼくの見立て。「娘は器量が良いというだけで 幸せの半分を手にしている」というのは本当ではない。美人はけっこう大変なのじゃないかと思う。

● こうした演奏会に来る男性が増えた。かつては女性が圧倒的に多かったものだが,最近はそうでもない。
 しかし,それにしても。このリサイタルはお客の8割が男性だったのではないか。音楽ファンではなく寺根ファンが集っていたのかもしれないと思いたくなるほどだった。
 女性が来ていないという言い方もできる。男性よりも女性を呼べた方が乗数効果は大きいはずで,この点でも “やや損” かなぁ,と。
 ちなみに,男の場合。イケメンは損か得か。これは “はっきりと損” というのがぼくの見立てだ。その理由は省略するが,イケメンから遠い相貌でラッキーだったと思ってますよ。

● さいたま芸術劇場では,同じ時間帯にこんなコンサートもあった。こちらも中止にはしないで,予定どおり催行したようだ。40分程度のミニコンサートだが,事情が許せば聴いてみたかった。
 ぼくの地元の栃木県では県立図書館がこの種の催しを実施していて,それらがなかなかの水準であるのはさいたま芸術劇場と同じなのだが,今年はすべての開催を取りやめている。

● さいたま芸術劇場は館内がそのままギャラリーのようなものだが,これらの絵を描いているのは,地元の画家たちですか? だとすると,彼らの絵を展示できるこうしたスペースがあってよかったですねぇ。
 栃木県では・・・・・・大島清次さんが栃木県立美術館の館長にとどまって長く務めてくれていれば,今とはまったく違う美術館になっていたろうになぁ,と思うことがある。大島さんが辞めた(詰め腹を切らされた)ときには,事の重大さに気づいていなかったけど。

2021年1月21日木曜日

2021.01.20 間奏67:チケット代金の払戻し

● こういう時期なので,演奏会が中止されることがある。すると,ホールのスタッフからチケット代払戻しの連絡が来る。去年の4月にも数件あった。また,同じ状況が生まれている。
 クラシック音楽の演奏会においては観客は喋らない(ことになっている)。そういうところでは,満席にして催行してもクラスタは発生しないことがこれまでの経験からわかっている。

● だから,中止したり延期したりする必要はない。なのになぜ中止になんかするのかね。君たちは学習するということを知らないのかね。
 と言い放つことは,もちろんできない。現実は複雑だ。複雑なものを1つの理屈で一刀両断にして恥じない者をバカという。
 致し方がないのだ。中止を決めた主催者が最も無念さを噛みしめているのだ(たぶん)。

● けれども,払戻しを受けるためだけにわざわざホールに出向くのは耐え難い煩雑となる。払戻しを受けるよりは,そのまま寄付してしまいたい。
 のだが,どうもそれはやってはいけないっぽい。連絡されたのに行かないと,ホールからまた連絡が来そうで。つまり,さらに手間を取らせることになりそうだ。
 ので,緊急事態宣言が出される中,払戻しを受けに行ってきた。こういう時期には前売券は買わない方がいいのか。でも,それも何だかな。

● コロナ禍の演奏会は,有料無料を問わず,事前予約制を取るところが多い。そこでにわかに増えてきたのが,電子チケット販売サービスの【teket】だ。
 何度か利用して,これは便利だと思っている。買い手にとって,メリットが4つある。

 1 手数料がかからない。代金だけの支払ですむ。
 2 当日でも購入できる(午前9時頃までか)。
 3 コンビニに行って紙のチケットを受け取る手間を省ける。
 4 公演が中止になった場合の払戻しが簡便。買い手は何もしなくていい。

● 売り手(主催者)にとっても,現金の授受とモギリを省略できる,緊急時の連絡先も把握できる,誰が来て誰が来なかったのかもわかる(そこまでチェックするところはないだろうけど)といったメリットをもたらす。要するに,楽ができる。
 受付の際にQRコードを読み取るのが面倒だが,おそらく時間が解決してくれるだろう。簡単に読み取る工夫がさなれるはずだ。

● チケットの役割は,この人はこの演奏を聴く権利を取得した人だと証明するところにある。その証明ができるのであれば,紙である必要はない。電子記号でよい。
 ひょっとすると,紙のチケットを記念品やコレクションアイテムと見る人もいるかもしれない。記念写真と同じようなもので,アルバムや手帳に貼ってとっておきたいという人。
 それでも,コロナ禍がこの先も続くのであれば,そういう懐古趣味を押し流して,チケットの電子化は進むに違いない。

● “ぴあ” の殿様商売を脅かすところまで育ってくれると面白くなる。ぴあ を使うと,システム使用料と発券手数料で,1枚のチケットを買うのにチケット代のほかに330円が必要になる。
 ぴあ が登場したときには,便利になったと拍手喝采されたに違いないと思うのだが,もはやこれは時代に取り残されたサービス形態になった。紙にこだわることを利益の源泉にしている時点で化石化が始まっている。

● そうしたコストと無駄を削ぎ落としてくれる【teket】のようなサービスが,コロナ禍を機に定着してくれるといい。コロナもマイナスばかりではなかったということになってくれるからだ。

2021.01.17 新交響楽団 第252回演奏会

東京芸術劇場 コンサートホール

● 開演は午後2時。全席指定。S席が3,000円でA席が2,000円。
 ぼくは安いA席のチケットを事前に楽団に申し込んでいた。チケットは郵送されてくる。チケットが届いてから代金を振込む方式。その方が事務処理の工数を削減できて合理的ではある。けれども,性善説に立たないとできないよね。
 ひょっとして,振込まれたかどうかのチェックもしてなかったりするんだろうか。いや,それはやってるでしょうね,さすがにね。

● 当日券もあった。座席は半数に限定して指定している。それでもだいぶ空席があった。新交響楽団にしてこうなのだから,他も同じだろう。
 こういう状況なのだから,それは当然とも言える。何事かの不思議があるかといえば,ない。
 主催者の側から見て,一番心配なのはコロナが収束した暁に,自粛していた人たちが全員戻ってきてくれるだろうかということだろう。自粛が長引けばそれが常態になってしまうかもしれない。だから,早く収束してくれないと困る。

● 指揮は飯守泰次郎さん。御年80歳。さすがに年齢から来るものなのか,それとも足を傷めているのか,ちょっと覚束ない足取りで登場。
 しかし,指揮台に上がって客席に背を向けてスタンバイすると,とたんにシャキっとするのはさすがというか,何というか。
 老人(?)にここまで頑張られてしまうと,若年,壮年の指揮者は辛いかもなぁ。力づくで奪いに行かないとしょうがないんだろうかなぁ。

東京芸術劇場 コンサートホール
● 曲目はスメタナ「わが祖国」の全曲。全曲を生で聴くのは何度目になるだろう。って,2度目だ。昨年9月にオーケストラ・ノットの演奏で聴いている。もちろん,CDは何度も聴いている。
 スメタナという作曲家は神経がむき出しのまま外に出ているようなところがあって,自身も辛かったろうし,他人を追い詰めることも多かったろう。清濁併せ呑むなんて芸当は思いもよらなかったことだろう。
 そうしたスメタナの性格と「モルダウ」の美しすぎる旋律とが,不思議な取り合わせのように感じられる。実際には不思議でも何でもないはずなのだが,そう感じるのが癖になっている。
 そうして,「モルダウ」のあの旋律は,何度聴いても初めて聴くもののように染みてくる。

● その「モルダウ」を新交響楽団の演奏で聴くわけだ。弦のダイナミックなうねり。そのうねりに愛撫されているような快感は何事ならん。
 「ブラニーク」でのホルンの馥郁とした響き。さすがと言うべきでしょう。栃木の在からわざわざ足を運ぶ価値がある。
 こういう時期でも,中止するなどとは1mmも考えなかったでしょう。そう思わせる演奏でしたよ。

● ところで。最近,見つけた楽しみなのだが,まだガラガラのホールの席に座って,ウォークマンで音楽を聴くのは気持ちがいい。だから,開場そうそうに行って着座するのがいい。
 ソニーのCMじゃないけれど,「いい音には,静寂が要る」。ぼくは田舎に住んでいるので,家の中も外も静かなものだ。けど,ホールの席で聴くときのあの密やかな幸福感はなかなか味わえない。
 もちろん,ウォークマンはついでの楽しみだ。が,ついでにしてはちょっと大きい楽しみになってきた。

2021年1月16日土曜日

2021.01.10 Orchestra Failte 第15回定期演奏会

ミューザ川崎 シンフォニーホール

● 昨日(1月9日)
に続いて,今日もコロナの緊急事態宣言が出されている神奈川県に来た。といっても,ぼくが住んでいる栃木県でも緊急事態宣言が出されるのは時間の問題かと思われるのだが。
 緊急事態宣言を要請する各県知事も,実際のところはその効果と妥当性には疑問を感じているのではないかと推測する。緊急事態宣言ごときで感染者が減るのなら,出さなくても減っているはずだし,緊急事態宣言によって街並みから人が消えることのマイナスの方がはるかに大きい(コロナ死亡者を上回る自殺者を作りかねない)ことは,よほどのバカでもない限りわかるはずのことだからだ。
 しかし,やらなければ有権者の多くから指弾される。

 ま,そういうことはともあれ。この時期に演奏会を催行するというのだから,それではということで聴きに行くことにしたのだ。
 Orchestra Failte(オーケストラ・フォルチェ)の定演を聴くのは今回が初めて。コロナがそのキッカケを作ってくれたわけだ。
 開演は13時30分。事前申込制で当日券はなし,というやり方ではなかった。1,000円で当日券を買って入場した。座席は1席おきに指定されている。

● 曲目は次のとおり。指揮は村本寛太郎さん。
 ヴェルディ 歌劇「ナブッコ」序曲
 ウェーバー 歌劇「魔弾の射手」序曲
 館山幸子 さくら
 ベートーヴェン 交響曲第7番

● 館山幸子さんはこの楽団のフルート奏者とのこと。昭和音大(+大学院)で作曲を学んだ。自分の曲が演奏されて,聴衆に聴いてもらえるって,相当に嬉しいことなんだろうかなぁ。そのあたりはクリエイターではない自分には想像するしか手がないところだ。
 桜はコロナなどに煩わされることなく,時期が来れば咲き,やがって散って,地味な姿で次に咲くために備えるわけだ。が,「次に咲くために備える」というのは人間の都合に沿った言い方であって,桜にしてみれば咲いている状態が特別なわけでもないのだろう。

ミューザ川崎シンフォニーホール
● ベト7を久しぶりに聴くことができた。この曲を「舞踏の神化」と言ったのはワーグナーだったか。あのワーグナーもベートーヴェンにはひれ伏したのかと思うとちょっと痛快だ。ひれ伏したわけではないのかもしれないけどね。
 ベートーヴェンの特徴は,短い旋律の執拗な繰り返しとオフビートだ(弱音にアクセントがある)と聞いたことがある。この演奏会のプログラム冊子の曲目解説にも「任意のリズムを繰り返し用いて結論を導く曲構成は,現代でいうトランスミュージックにも似ている。単純に聞こえるリズムの繰り返しは,聞き手を曲へと没入させる作用があるのだ」と書かれている。
 そのとおりに違いないのだけれども,そうやって言葉でベートーヴェンにアクセスしようとすると,した分だけベートーヴェンがスルッと逃げていくようにも思われる。

● この演奏会の団長挨拶に「驀直去」という言葉が紹介されている。“まくじきこ” と読む。真っ直ぐ行きなさい,という意味だ。
 その昔,中国でのこと。峠の麓にある茶店のお婆さんが,修行僧に「五台山に登るにはこの道を行けばいいのですか」と訊かれ,驀直去と答えた(とされる。もとより実話ではない)。そうです,この道でいいのです,真っ直ぐにお行きなさい,と。
 諸々の思考を容れることのできる膨らみのある言葉が,禅の世界には多くあるようだ。短い言葉を素材に禅問答をしているのかと思いたくなる。
 ぼく一個は,道元の只管打坐の只管と同じ意味だと考えている。あれこれ理屈を考える「分別」を否定する意思の表明ではないか。
 ベートーヴェンに対しても,理屈を考えるのは後にして,ただ聴いてみるのがよろしかろう。そうしているうちに人生を終えることができれば,それ以上の幸せはないかもしれない。

● 若い奏者が多い。多くは音大を出ているか,それに準ずる人たちだろう。したがって,演奏には熱があるし,水準も高い。ベト7だって,そういう演奏で聴くからベト7たり得ている。
 “若い” と “巧い” はともに価値であって,その両方を備えている場合は,「若い+巧い」ではなく「若い×巧い」が価値の総量になる。

● というと,年配者からはお叱りを受けそうだし,いつまでも若いままでいられる人はいないのだから,若い人からも叱られるかもしれない。
 しかし,「若い×巧い」が価値の総量であって,それ以外に価値はない。現実は無惨なまでに冷酷だ。年輪を重ねてきた美しさなど,この世には存在しない。枯れた味わいなんていうのもない。少なくとも,管弦楽の演奏にそれはない。
 老齢になっても未熟なぼくは,そのように考えている。

2021年1月14日木曜日

2021.01.09 アウローラ管弦楽団 第24回定期演奏会

すみだトリフォニーホール 大ホール

● 昨日から東京都,埼玉県,千葉県,神奈川県の1都3県にコロナの緊急事態宣言が布告された。個人的には仰々しいことであるという以上の感想は持たないが,それですませることができるのは,自分がコロナに直接的な影響を受ける位置にいないからだ。
 コロナがもたらす制約は,畢竟,フェイス・トゥー・フェイスのコミュニケーションを禁じることに帰着する。個対個であれ個対多であれ多対多であれ,面と向かってするコミュニケーション(その大半は会話)を許さない。
 したがって,コミュニケーションを促進するために利用される酒場やレストランは存在基盤を失う。デートの場として選ばれるところは軒並み厳しい。

● ヒトは群生動物だ。群れなければ生きられない。だから集落や都市を作ってきたのだし,会社のような組織も作ってきたのだ。
 そのヒトが群れることができなくなった。群れてはいけないと言われる。リモートワークに代表されるネットを介したつながりも群れの形態の1つではあるのかもしれないが,そうだとしてもそれに慣れるには時間がかかるだろう。
 群生動物が群れることを許されないのだから,当然,ストレスになる。ある程度以上のストレスに長期間耐えることなどできない相談だし,コロナについての情報量も増えているから,今回の二度目の緊急事態宣言に対しては,一度目ほどの律儀な対応はしないだろう。

● そうした中で演奏会はどうなっていくのか。クラシック音楽の演奏会のように観客が喋らないところでは,満席にして催行してもクラスタは発生しないことがこれまでの経験でわかっている。
 だから,思うように練習できなくて演奏会を開催できるレベルまでアンサンブルを整えることができなかったのなら格別,そうでないならば中止したり延期したりする必要はないということになるのだが,現実はそう単純ではないだろう。
 早い話が,ホール側が貸さないと言えば,それまでのことだ。ホールの多くは公営だから,そうなる可能性は高い。地方に行くほどその傾向は強くなるはずだ。

● プロであれアマであれ,演奏する側はやりたいはずだ。アマなら収入の問題ではない。演奏会の本番をやらない(できない)というのは,大きな欠落を作ることでもある。この欠落を埋めるのは生半なことではない。
 ルーティンを崩すと代償が大きい。もし,本番を催行できない状態が1年で収まらず,2年,3年と続くようなら,楽団の維持そのものが難しくなるだろう。

● アウローラ管弦楽団はこれまで通常どおりの演奏会を開催できている。第1の理由は,開催時期が最悪の時期を免れていたこと。つまり,運が良かった。今回も緊急事態宣言があと2週間前に出ていたらどうだったか。
 いや,やったろうな。開催したろう。

● この問題については,プログラム冊子の「ごあいさつ」の中で,楽団の団長(たぶん)が短いながらも力をこめた考察を披露している。
 私の本職はITエンジニアであり,リモートワークの恩恵を最も受けている職種でもありますが,一方で人間というのはやはり現実の空間で,お互いが触れ合うほどの距離感で群れることでしか社会的な生活を維持できない生物であるとも考えています。クラシックの演奏体験も同じであり,(中略)皆でひとつの場所に集まって,お互いの息遣いを感じながら練習する喜び,お客様を身近に感じながら演奏する喜びは,何物にも代えがたいものです。多くのお客様の前で演奏して,拍手喝采を浴びたいというのは演奏者としての本能でもあります。
 いちいちごもっともだ。いずれはコロナを克服して,以前の状況に復することができるだろう。が,それは当分先のことになる。今は臥薪嘗胆と自らに言い聞かせて,先に備えて縄をなうべき時期だ。

● ともかく。こういう時期であってもやるというのだから,こちらも千里の道を遠しとせず,聴きに行く以外の選択肢はないではないか。意気に感ずということがなくては,人生は面白くない。こういう些やかすぎる符合であってもおろそかにすべきではない。
 開演は13時30分。チケットは1,000円なのだが,招待券をもらっていた。曲目は次のとおり。指揮は田部井剛さん。
 チャイコフスキー 幻想序曲「ロメオとジュリエット」
 ショスタコーヴィチ 映画音楽「馬あぶ」組曲より
 ショスタコーヴィチ 交響曲第12番 ニ短調「1917年」

● チャイコフスキーとはどういう作曲家なのですかともし訊かれたら,「ロメオとジュリエット」を聴けばわかりますよと答えますかね。短いこの曲にチャイコフスキーのすべてが詰まっているような気がする。
 ある種のおどろおどろしさ。ドラマチックな場面転換。演芸やお笑い芸でいう “つかみ” の上手さ。視聴者サービスと呼びたくなるような金管の使い方。

● この楽団はロシアを専ら扱う楽団として,知る人ぞ知る存在。ゆえに,と言っていいのかどうか,自分が聴いたことのない楽曲が取りあげられることはしばしばある。
 ショスタコーヴィチが映画音楽をたくさん残していることは知っている。が,聴いたことはなかったし,CDも持っていない。
 旧ソ連と映画と作曲家の関連については,プログラム冊子にしっかり解説されている。ともかく,「馬あぶ」を含めて,CDを入手するところから始めるよりしょうがない。

● ショスタコーヴィチを聴くのはときに億劫だ。その理由のひとつ(というか,その筆頭)が裏読み解釈に煩わされることだ。
 “Es-B-C” の音型をスターリンの頭文字と見立てて,ショスタコーヴィチはそれに対する異議申し立てをしているのだと言われると,少々以上に鼻白むではないか。それを演奏会のプログラム冊子で読まされる身にもなってほしい。
 ショスタコーヴィチをスターリン体制批判の哲人(あるいは聖人)に仕立ててしまう愚鈍さはどこから来るのか。陰謀論に傾倒するのと同種のもので,この種の愚鈍さは義務教育終了までに克服しておいてもらわないと困る。

● その点,この演奏会のプログラム冊子の曲目解説では,そういう解釈(?)を理由を付してバッサリ切っているので,溜飲が下がる思いがする。
 総じて,この演奏会の曲目解説やコラムは,楽団の中の誰かが書いているのであろうけれども,ペダンチックと言いたくなるくらいに(言わないが)掘下げて詳しく書かれている。相当な勉強好きがいるのだろう。読みごたえがある。ありすぎてなかなか噛み砕けない。

● ショスタコーヴィチのこの多作さはどうだ。交響曲と弦楽四重奏曲が15もあって,他にヴァイオリン協奏曲やピアノ曲,ジャズ組曲,そして映画音楽。
 強いられた多作という側面があるのだろうが,誰かここを論じてくれないだろうか。誰かというのはつまり,この楽団の中の人を想定しているのだが,ひょっとすると過去に論じているのかもしれないね。

● 演奏は大変な熱演。第1に個々の奏者の技量が高く,第2にコンミスがオケをしっかりグリップできているゆえだろう。これだと指揮者も楽ではないか。
 女性奏者のドレスがカラフルだからではなく,見た目も美しいオケだ。