栃木県総合文化センター メインホール
● 2年に一度の発表会。生徒の保護者に向けた催事なのだと思うけれども,2階席は自由席。ご自由にご覧ください,無料ですよ,誰でもどうぞ,ということになっている。
というわけで,3回連続で3回目の拝聴というか拝観となった。
● 開演は午後3時30分。入場無料。プログラム冊子は別売で500円。
ちなみに,終了したのは7時40分だった。詳細は次に見ていくけれども,4部構成の長大なもの。バレエ学校の発表会って,わりと長め(オーケストラの演奏会などに比べると)が普通のようにも思えるんだけど,ここまで長いのはそうないんじゃないか,と。
● が,その4時間の間に,退屈した時間は1秒たりともなかった。保護者向けの,いうなら内輪の発表会だとしても,水準の高いパフォーマンスを次々に繰りだしてくる。エンタテインメントとして充分以上に楽しめる。
● このS.O.Uのサイトを見ると,次のようなクラス構成になっているようだ。
幼児科 満3歳~入学前
児童科C 小学1,2年生
児童科B 小学3,4年生
児童科A 小学5,6年生
本科 中学生以上
児童科A以上になると,週3回,1回2時間の練習がある。
以上を予備知識としたうえで,さて,第1部から観ていこう。
● 第1部は「おそうじだんす」(児童科B),「カプリッチョ・イタリアン」(児童科A),「Tango Tango」(本科)。
ステージで踊るダンサーは,実際の年齢よりも大人びて見える。化粧効果,衣装効果,舞台効果で説明できるのだろうけれど,「カプリッチョ・イタリアン」を踊っているのが小学生だとは,教えてもらってもなかなか腑に落ちない。
● ひとりひとりが一個の若いレディであって,その若いレディたちが固まったり広がったりして,きれいなラインを作っている。しかし,小学生なのだね。
「おそうじだんす」もそうだけれども,小学生の一所懸命は気持ちを安らかにしてくれる。彼女たちのダンスを観ていると,気持ちが安らぐ。なぜなのかはわからない。
● 本科生による「Tango Tango」は,たぶん今回のすべてのダンスの中の白眉といってよいものだったろう。
全員が高い水準で動きが揃うのは,お見事というかあっけにとられるというか。
● 表現の技法について考えさせられた。文章,絵画,音楽,演劇。表現のための手段はいろいろある。
絵画にしろ音楽にしろ,表現のしもべではなく,それ以上のものを内包しているのかもしれないということ。よくわからないんだけどね。
で,身体表現という言葉があるわけで。ここでも,表現したい何かがあって,そのために身体を使うという捉え方では,おそらく豊穣なものは生まれないのだろう。
意図やイデアが先にあって,それをどうにかして表現しよう,あるいはそこに行き着くための方便として身体を使おうというのじゃないんだろうな。それだけではパフォーマンスが痩せてしまいそうだ。
● 仮にそれらが表現のしもべだとしよう。文章は誰でも書ける。絵もそうだ。けれども,それで何事かを表現しよう,他人に伝えようとすると,とたんに問題が難しくなる。
多くを伝えるためには,それなりの技術を要する(技術だけではダメなのかもしれないけれど)。つまり,誰にもできるとは限らない。
バレエでその技術にあたるものは身体能力なんだろうか。運動神経やリズム感を含めた運動能力?
これ,誰にもあるとは限らないもんね。残念ながら,ぼくにはない。
● それを豊富に持っている人たちがさらに磨きをかけようと努力して,その結果あるいは過程を舞台で披露する。
それはいろんな意味で説得力を持つ。その「いろんな」を忍耐強くほぐしていければ,論文のひとつやふたつは書けそうだよね。
というようなことをボーッと思いながら観ていた。
● 第2部は,まず児童科Cと幼児科合同で5つのダンス。これは要するに可愛らしい子たちで,その可愛らしさがそのまま客席に伝わってくるっていう。
普通の幼稚園や保育園の学芸会とは一線も二線も画する。
● 唐突なんだけど,ぼくらの仕事っていうのは,無垢な彼女たちを守ることではないのか,と思ってしまった。
何のためにぼくらはいろんな仕事をしているのか。喰うためとか家族を養うためとか,とりあえずの目先はそういうことだとしても,畢竟,この子たちの無垢さを守っていくためではないのか。
● 何から守るのかといえば,邪悪なるもののすべてから,だ。しかるに,この世は邪悪に満ちている。というより,この世は邪悪でできている。自分もまたそっち側の人間だ。
邪悪よりも邪悪でなければ,無垢を邪悪から守ることなどできない。ん? 何を言いたいのかわからなくなってきたぞ。
● 本科生による「マリオネット」。可愛らしいのもいいんだけれども,大人(といっても中学生が多いのか)のダンスはさらにいい。それこそ身体能力が全開になる年齢だものね。
バレエの核は,人体の自然にどこまで抵抗できるかってことなんだろうか。ポワントなんて反自然の極みだよね。だけども,これがどうしようもなく美しい。痛ましいんだけど,美しい。
● あとは,「ジゼル」第1幕より“ペザント・パ・ド・トロワ”,「パリの炎」より“グラン・パ・ド・ドゥ”,「ドン・キホーテ」第3幕より“グラン・パ・ド・ドゥ”。
男女のペアあるいはトリオによる,オペラでいえばアリアにあたるのだろう,見せ場を選んで披露するタイプのステージ。
● 第3部は「眠れる森の美女」の第3幕から。児童科合同作品。もちろん,ソリストが加わる。
妖精たちがベンチに座って踊りを眺めるシーンが長く続く。ベンチに座ったきり,ずっと動かないでいる。静止の躍動感のようなものがビビッと伝わってくる。
● ダラッと座っているのではない。お姫さま座り(?)だ。背筋を伸ばして優雅に足をながす。女性が座っている姿勢の中で最も美しく見えるものだ。
これも反自然。身体が望むとおりの座り方を許したのでは,美しくなんかならない。身体が望まない姿勢に自分を固定する。
ひとつの型を長く保つのは,相当きついと思う。それを涼しげにやってのける。バレエではそれがあたりまえと言われれば,それはそうなんだろうけど。
● 第4部は,本科生による「白鳥の湖」第2幕。強力な助っ人も入って,横にも縦にも動きの大きいステージになった。華やかと言い換えてもいい。
が,第一の見どころは白鳥たちの群舞ということになる。ここはおそらく観客の意見が一致するところではないかと思う。
この場面は,自由を奪われ失意の底にあるわけなので,悲しげな踊りになる。短調的な動き。それが鍛えられた踊り手によって表現されると,何とも心地よい緊張感がステージを覆う。
それがそのまま,客席にとっては癒しになる。癒しという言葉を使っていいと思う。
● ステージを観ながら集中ということについて考えた。男性は多面集中,並列処理ができない。複数の課業を同時に処理することが苦手だ。
一点集中しかできない。できるのは直列処理だけだ。したがって,1個ずつ片づけていかなくてはならない。ひとつやって,はい次,というやり方だ。
● ところが,女性は多面集中,複数の課業を同時に並列処理していくことができるらしいのだ。となると,集中の仕方には男女差があって,しかもその差はかなり大きいのではないかと思う。
一点に深く集中しなければならない時,そこは男性の独壇場になるのだと思っていた。
● しかし,こうしてバレエのステージを観ていると,その見方は修正される必要があると思わないわけにいかない。
ステージとはまさにそこだけに集中しなければいけないところだろう。そういう場に臨むと,多面集中がむしろ得意なのではないかと思われる女性も,一点に深く分け入っていくことができるのだ。
何だかあたりまえのことを言っているようで気が引けるんだけど,そういうことをつらつらと思いながら,会場を後にした。
那須野が原ハーモニーホール 大ホール
● 弦楽亭は「那須の木立の中の小さな音楽ホール」。那須町にある。弦楽亭室内オーケストラはその弦楽亭のオーナーたちが核になって立ちあげた,プロ・アマ混成のオーケストラ。
2年に一度,演奏会を開催しており,今回は3回目。
● 開演は午後2時。チケットは1,500円。当日券を購入。
客席にはかなり空席がある。主催者とすれば,ギッシリと満席になって欲しいところだろうけれども,ここが那須地方の難しさであるかもしれない。
一方,チラシとホームページ以外に集客活動はやっていないだろうから,それでも集まるお客さんは,しっかりとしたクラシック音楽ファンなのだろう(ぼくを除いて,と言っておいた方がいいな)。物好きと言い換えても同じことだが。
● プログラムは次のとおり。
メンデルスゾーン フィンガルの洞窟
ブロッホ コンチェルトグロッソ第2番
ボロディン 交響曲第3番
シベリウス 交響曲第7番
指揮は柴田真郁さん。コンミスは弦楽亭のオーナーのひとりでもある矢野晴子さん。
● 上記の4つの曲の中で,最も印象に残ったのは,最初に演奏された「フィンガルの洞窟」だった。この曲は吉行淳之介の短編小説のようなもの。才能だけでできている。
人為による余計な夾雑物がないから,透明度が高くなる。こういう曲は演奏を選ぶはずだ。
● この曲を生で聴くのは,今回が3回目。今まではこのような感想を持ったことはなかったと思う。選ばれた演奏で聴いた結果であるか。
そうかもしれないし,そうではないかもしれない。このあたりは,われながらよくわからない。
● ブロッホはCDを含めても聴いたことがない。今回,初めて聴く。そういう曲に出会うと,この機会にCDを揃えて聴いていこうと最近までは思っていた。勉強の機会を与えてもらったのだから,と。
が,それは半ば以上にきれい事であって,きれい事を追求しても仕方がないと居直ることにした。その機会に聴けただけで良しとする。
● ボロディンの第3番。ぼくが紹介するまでもないんだけど,作曲家の急死によって未完に終わった曲。アレクサンドル・グラズノフの補筆を得て,第1楽章と第3楽章は形になったけれども,それだけにとどまった。
オーボエが責任重大。旅先案内人の役割を果たす。イコール美味しい,ってことでもあるんだろうけど。今回のオーボエ奏者はたっぷりと美味しさを味わったのではないかと思う。
● シベリウスの7番。生で聴くのは今回が二度目に過ぎない。やはり圧倒的に2番が多いわけでね。
交響曲といっても単一楽章。しかし,交響曲に分類することに異論は出されていないらしい。
プログラムの「曲目解説」に前嶋靖子さんが次のようにお書きになっている。
私個人としては,一番好きな交響曲は何?と訊かれると,多分,この曲を挙げるだろう。とにかく,何度聞いても,心の底が揺さぶられ,自分が大きな自然の一部になって,気が付くと,自分の精神がひとまわりもふたまわりも大きくなっているような気がする。
● そうした思いを持てる曲に巡り会えた人は幸せというべきだろう。音楽を聴くだけで精神が大きくなるなんて羨ましいね,なんぞというありがちなツッコミは無用である。
ぼくはこの曲に対して,まだそこまでの思いは持てないでいるが,その理由は意外と単純で,ちゃんと聴いていないからかもしれない。
● ただ,そんな自分にもこの1曲というのがなくはない。どれか1曲しか聴けないと言われたら,何を残すか。
ベタで恥ずかしいんだけど,モーツァルトのクラリネット協奏曲だ。クラリネット協奏曲は,モーツァルトの天才をもってしても,最晩年になるまで書けなかったはずの曲だと思う。
その所以を説明しろと言われても困るんだけど,平明でありながら深く,悲しみ色の明るさが全編を覆っている。この境地にはなかなか至れないという気がする。
● この演奏会にはアンコールはない。今回もそう。潔くていい。
栃木県総合文化センター メインホール
● 開演は午後7時。席は,SS,S,A,Bの4種。SSが1万円で,以下2千円きざみで,Bが4千円。ぼくの席は,最も安いB。プログラム冊子は別売で千円。
早い時期に買っていたので,ぼくの席の1列前はAになる。その1列前の席には誰もいない。皆さん,よくわかっていらっしゃる。
● というか,空席が目立っていた。2階席で埋まっていたのは半分までなかったのではないか。
平日(しかも月曜日)の夜となると,宇都宮ではこんなものか。いや,宇都宮に限るまい。地方都市だとたいていこんなものだろうな。
むしろ,これだけ埋まっていればたいしたものかもしれない。日本なればこそかもなぁ。
● で,空いているものだから,後半は前の席に移動しようと考えた。だけどねぇ,BのチケットでAの席に座ってしまうのはまずいだろうね。
と思い直して,自分の席に踏みとどまった。律儀なんだな,良くも悪くも。
● プログラムは次のとおり。
トゥリーナ 交響詩「幻想舞曲集」
ロドリーゴ アランフェス協奏曲
ファリャ 「三角帽子」組曲 第1番,第2番
ラヴェル ボレロ
「アランフェス」と「ボレロ」が素晴らしかった。絶品といってよかったのではなかろうか。
● 指揮者はアントニオ・メンデス。まだ若い。32歳。この楽団の常任というわけではないようだ。コンマスも若いイケメン。
男女比でいうと,圧倒的に男性が多い。管は全員が男性だった。
● スペイン国立管弦楽団といっても,グローバルといわれて久しいこの時代に,団員のすべてがスペイン人だなんてことはあり得ないはずだ。
が,ここは純潔度がけっこう高いようにも思われた。もっとも,彼の地の人たちの顔立ちはぼくにはどれも同じに見えたりするわけだが。
● スペインでは今でもシェスタの習慣があるんだろうか。あるんだろうな。宵っ張りなんだろうな。
団員たちも,まだまだ宵の口,お楽しみはこれからだぜ,という感じ。エネルギッシュという印象だね。
● アランフェス協奏曲,村治佳織さんのCDは持っている。聴いていると思う。しかし,たったの一度だけ。それも全曲通して聴いたのだったか。つまり,初めて聴くも同然。
ピアソラの「リベルタンゴ」を思いださせるところもあり,バッハの「シャコンヌ」が浮かんでくるところもあった。
スペインの庶民層でもなく,むしろ彼らから疎まれたロマというかジプシーというか,流浪の民の哀感のようなものも感じた。スペインからはじき出され,定位置を持たない流浪の民の魂を慰撫するような。
けれども,そういうアンタッチャブルを含めてスペインなのだろなと思って,聴いていた。
● ところが,プログラムノートによれば,「この協奏曲は特にカルロス4世やフェルナンド7世の時代と憂愁に満ちた画家フランシスコ・ホセ・デ・ゴヤの時代の回想であり,貴族性と民衆性とが融け合っていた18世紀スペイン宮廷を映し出したものである」とロドリーゴ自身が述べているというではないか。
貴族性と民衆性とが融け合っていたなどというのは,後世が勝手に作った幻想であろうけれども,宮廷を映したものだったのか。何なんだ,オレの感想は。
● 宮廷だろうと庶民だろうと流浪の民だろうと,“憂愁”はどんな世界にもあるはずだ。
宮廷というところは,暇人が陰謀を楽しむために存在していたようなもの。憂愁のほかに,嫉妬や羨望や得意や悋気など,何でもありの世界だったはず。これは庶民の世界も流浪の民の世界も同じこと。
大げさに言えば,だからこそ音楽は普遍性を持つのだ。正確に言うと,持ち得る可能性があるのだ。
● ギターはパブロ・ヴィレガス。彼も若い人。イケメンでもある。羨ましいや。
ギターに関しては神の手でしょうね。よくわからないけどね。「アランフェス」を生で聴けるとは思っていなかった。思っていなかっただけに,ここまでの演奏を聴かせてもらえると,感激ものだ。
彼のアンコールは,フランシスコ・タレガの「グラン・ホタ」。
● 出番を待つ間,ステージで腕組みをしている奏者がいた。腕組みをしてるのは初めて見るぞ。指揮者は気にならないのかね。最初はひとりだった。クラリネット奏者。
ところが,「ボレロ」になると,いるわいるわ,トロンボーン奏者など3人。クラリネット君と合わせると4人が腕組み派だ。
しかし,まぁ,出番が来ると完璧にこなす。やるときゃやるんだぜ,坊や,よく見ときなよ。
● その「ボレロ」。この楽団がなぜフランス人が作曲した曲を演奏するのかといえば,「ボレロとはスペイン舞踏の一種」だから。
ラヴェルのこの曲は,同じ旋律を延々と繰り返し,それが次第に大きくなっていく。その音的世界の拡張が聴衆をも呑みこむ。そして,この世界にたったひとつある音の世界,つまり世界のすべて,になる。
● それがもたらす陶酔感。自分の身体が元の原子に分解されて,宇宙に溶け込んでいくような感じ。宇宙と自分との一体感。
いや,自分などというものは存在せず,宇宙の一部になった自分がかすかに自分であることを保っている。そんな感じ。
ひょっとして,天国ってこんなところなのか。もしそうなら,早く天国に行きたい。天国で,宇宙の一部になったかすかな自分を感じていたい。
● アンコールは「カルメン」からいくつかを抜粋というかアレンジしたもの。「闘牛士」や「アラゴネーズ」が入っていたように思うけど(組曲ではなく,オペラの前奏曲だったか)。
以上。堪能できた演奏だった。このうえは,スペインの空気の中でこの楽団の演奏を聴いてみたい。どんなふうに自分に届いてくるのか,確かめてみたい。
● スペインといえば,音楽より美術で有名だ。エル・グレコ,ゴヤ,ピカソ,サルバドール・ダリ,ジョアン・ミロ。古いのから新しいのまで枚挙に暇がない。
かつては無敵艦隊を擁して世界に覇を唱えた。
文化でも政治でも建築でも分厚い歴史の層が幾重にもできているに違いない。誇り高い民族でもあるのだろう。誇り高いというのは,ときに厄介なものでもあるとしても。
そのスペインにぼくはまだ行ったことがないんですよ。今日の演奏を聴いて,スペインを訪ねる理由がいくつかできたような気もする。
栃木県総合文化センター メインホール
● だいぶ前にチケットを買っておいた。行かなきゃもったいないというケチ根性。席はS(4,000円)とA(3,000円)の2種。安い方のA席を買っていた。
2階席でピットがよく見えた。収容人員が1,600人程度のホールだから,ぼくの席からでもそんなにステージが遠いというわけでもない(早い時期に買ったから,Aの中ではかなりいい席を取れてはいた)。
● 開演は午後2時。管弦楽は栃木県交響楽団で,指揮は荻町修さん。演出を担当したのは宮本哲朗さん。
蝶々夫人に篠崎加奈子さん。ピンカートンが田口昌範さん。シャープレスを石野健二さんが,スズキを柳田明美さんが演じた。わりと大事な役どころのゴローは岩瀬進さん。
皆さん,栃木県の出身者あるいは在住者。
● 「蝶々夫人」の生の舞台はこれまでに少なくとも二度は観ている。ただ,演奏会形式だったりハイライト形式だったりした。ので,完全版を観るのは今回が初めてだ。
劇中の蝶々さんは15歳。が,それを劇の中で自身が語るシーンは,今回初めて観るものだ。
● この劇では,蝶々さんが悲劇のヒロインで,ピンカートンが悪役というか女の敵といった役回りになるんだろうけれども,実際には蝶々さんも困った人だよね。女としてあまりに未熟っていうかさ。
どこが未熟かっていうと,3歳の息子の前で,あられもなく女に戻ってしまうところ。自分の母親が女に戻るのを見るのは,子ども心にも嫌なものだろうよ。男の子は,特に。
極めつけは,その子どもの前で自害すること。子どもにしたらさ,母親に目の前で自殺されて,あげくに別の女性(母親を死に至らしめた父親の妻)に引き取られて異国で育てられるわけでね。これでグレるなって言うのは,言う方に無理があるよ。
● 息子にそこまでの重荷を背負わせて,自分は名誉に殉ずる? サイテーじゃん(シャープレスとケイトに子どもを預けるように説得(強制)された,というわけではあるんだけどさ)。
ここを何とか緩和するのが,蝶々さんが死ぬ時点でまだ18歳だということだ。18歳なんだから,多少のことは大目に見てよね,っていうね。
● 純粋とか純愛とかっていう,純の付くものは,愚かの別名であることがほとんどだ(本当はすべてだと言いたいんだけど)。
宗教でいうと原理主義。考えるという面倒な作業をとことん省略すると,原理主義に行き着くはずだ。原理主義を信奉すれば,何も考えなくてすむ。逆にいえば,考えなくてすませたければ,原理主義を信奉すればいい。
● 純粋なんていうのもそうだろう。競馬馬のようにブリンカーをかけられて,視野が一点に限定されている状態を純粋というのだ。
一点しか見えてないんだから,それに向かって突き進めるわけだ。勢いもでる。はた迷惑な勢いだけど。
● ことほどさように,「蝶々夫人」に限ったことではないんだけれども,オペラのストーリーや人物設定は,現実離れしたものになっている。
その現実離れしたストーリーや登場人物にリアリティーを与えなければならない。リアリティーを与えて,観衆を舞台に没入させなければならない。
● リアリティーを与える技法として,オペラでは歌を使う。この技法もまた現実離れしている。そういうコミュニケーションのあり方は,ぼくらの現実世界には1ミリもないからだ。
あまりに荒唐無稽なストーリーや人物にリアリティーを与えるには,その技法もまた現実離れしたものにならざるを得ないのかもしれない。
虚構にリアリティーの息吹を与えるのに,歌という虚構をもってする。歌という表現技法が,独自の虚構世界を作りだすのに与って力あることは,間違いないように思われる。
● 技法が歌であるとすれば,歌に説得力がなければならない。歌に説得力があるとはどういうことか。ごくザックリといえば,上手いってことだよね。
上手いだけでは足りないのかもしれないけれど,上手くないんじゃリアリティーが立ちあがってこない。
● 今回の「蝶々夫人」はどうだったかといえば,揺るぎない真実性が舞台上にずっと存在していたと思う。
主役の蝶々さんを演じた篠崎さんの功績に帰して差し支えないだろう。第2幕の前半は,蝶々さんのアリアだけで,劇を支えているといってもいいくらいだ。これがこけてしまったら,劇も舞台も面目を失ってしまう。彼女は見事に支えきった。
● 「ある晴れた日に」は,この歌劇で最大の聴かせどころだろう。これを聴きにきたのだというお客さんだっていたかもしれない。
篠崎さんは,気負わず,しかし情感をこめて,このアリアを客席に差しだした。想像で申しあげるのだが,ここで泣いた人が最低でも50人はいたのじゃないか。
● さらに「かわいい坊や」で,“私のもとに天国から降りてきたおまえ”と子どもに語りかけるところ。
脚本が蝶々さんに目いっぱいの気配りをしている。それを受けて,18歳の蝶々さんが子どもへの細やかな情愛を表現する。
さらに,篠崎さんがそれを受けて,表現を具体化していく。この子を残して自分は死ぬと決めた母の覚悟,武家の娘の矜恃のようなもの,ピンカートンへの思い,捨てられた自分を持てあます自分。
それだけではないのかもしれないけれども,万感をこめた“おまえ”という呼びかけ。
● 篠崎さんにしても,スズキを演じた柳田さんにしても,歌だけではなくて所作が美しい。
着物を着ると,ひとりでにこうした所作ができるものなんだろうか。日本人なんだからあたりまえでしょ,ってものでもないよねぇ。
日本舞踊とかも習っているんだろうか。この世界ではそうするのが普通になってたりするのかね。それとも,演出者の細かい指導が入るのかねぇ。(→“とちぎテレビ”で放送している「光れ!とちぎの楽士団」をネットで見て,疑問氷解。先生に来てもらって,そちら方面の練習もするんだね)
● 4年前にこの会場で「椿姫」を聴いて以来,いくつかのオペラ視聴体験を経てきた。DVDもいくつか手元に溜まってきた(なかなか聴けないでいるんだけど)。多少はオペラの何たるかをわかってきたかなぁ。
そんなものはわかっても仕方がないのかもしれないけどね。知らない方がいいくらいなものかもしれない。が,(視聴)経験を重ねるうちに,嫌でも知ってしまうものだ。
● 問題は,ひとつひとつの作品を上手に,というか深く,聴けるようになってきているかということだ。オペラについて多く知るようになったからといって,深く聴けるようになるわけではない。
もっといえば,オペラだけを聴いていたのでは,オペラを深く聴けるようにはならないだろう。生活全般がかかわってくるのだろう。ていねいに生きること(松浦弥太郎)が必要なのかもね。
人生で遭遇することになる様々な出会いと別れ,喜びや悲しみ。それらをひとつひとつキチンと味わっていく努力と姿勢が,深く聴ける力を作っていくのだろう。
栃木県総合文化センター メインホール
● 前回,第100回のアニバーサリー定演があって,今回は101回目の演奏会。開演は午後2時。チケットは1,200円(前売券)。
しかし,内容的には今回のほうがとんがっている。伊福部昭特集だ。
● 北海道の釧路に生まれた伊福部が戦後,東京に出る途中,よんどころない事情で日光市久次良に居住した。日光に住んだのは1年足らずではなかったか。
ではあっても,これは栃木県にはラッキーなことだった。こうして,日光ゆかりと称して,記念演奏会を催行できるのだからね。
● プログラムは次のとおり。指揮は伊福部さんの教え子でもある今井聡さんと,栃響の荻町修さん。
管絃楽の為の音詩「寒帯林」
舞踊音楽「プロメテの火」-第3景「火の歓喜」
SF交響ファンタジー第1番
ピアノとオーケストラのためのリトミカ・オスティナータ
● プログラム冊子と一緒に配られた「栃響だより」に,今井さんが「伊福部昭先生との思い出」と題するエッセイ(?)を寄せている。こうした具体的なエピソードを語ってもらうと取っつきやすくなるし,伊福部昭という人物が身近に感じられる。開演前に面白く読ませていただいた。
ただし,具体的なエピソードをいくら重ねたところで,それだけでは焦点が合わない写真のようなものになってしまうのだろう。
● さらに,小林淳さんと永瀬博彦さんのプレトークも。いくつかの話題が出ていたけれども,最も印象に残ったのは,今日のソリストである山田令子さんの話。
山田さんはピアノ科なので,作曲科の教授である伊福部さんのゼミを取ることはできない。そこで自ら動いて話をつけ,ゼミへの参加を認めてもらったという話。
そこを山田さんご自身が語っているのがこちら。そこからひとつだけ引用しておこう。
先生の言葉で印象的なのは「本当に良い味噌はミソ臭くない」 芸術ぶっているものは本当の芸術じゃないって事なんですよね。ゼミの時のメモを今でも見るのですが,とても役に立ちます。その時紹介された本なども今だに読みかえしています。
● 語るも愚かではあるけれども,伊福部についてぼくが知るところは,皆無に近い。過去に彼の曲を生で聴いたことは,あるにはあったと思うんだけど,記憶からは脱落している。ので,本格的に聴くのはこの演奏会をもって嚆矢とする。
で,感想。すごい作曲家だと思った。力がこもっている。吹っ飛ばされる思いがした。ギュッと圧縮された高密度。圧倒的な作品の力。
興奮冷めやらぬままに言うと,あのマーラーを凌ぐのじゃないかと感じる瞬間もあった。
● その作品を支える栃響の演奏もまた同じ。作品は演奏によって表現されるわけだから,作品と演奏は切り分けることができない。
最近はやりの地産地消を支える哲学に身土不二の考え方があると思う。同じように,作品と演奏は不二であって,作品あっての演奏であり,演奏あっての作品だ。
栃響の演奏には鬼気迫るものがあった。作品が栃響をインスパイアしたところもあったろう。作品と演奏が幸せな関係を取り結べた。そう思わせる演奏だったと,ぼくには思われた。
● 中でも,最後の「リトミカ・オスティナータ」が圧巻の迫力。あまり適切なたとえではないと思うが,指揮官が「押しだせーっ!」と号令すると,隊列を乱さず前へ前へと進む重騎兵隊を想像させるような演奏。
荻町さんも渾身の指揮。
● ただ,やはりここは山田令子さんのピアノの貢献が大きかった。奏法のダイナミックさも絵として強烈な印象を残したけれど,乾坤一擲,この演奏に賭けてきたという気迫。
多くの指揮者や演奏家と同じように,彼女も陽性の人のようだ。東京音大で伊福部さんのゼミに参加できたのも,彼女の行動力に由来するものだろう(思慮深さゆえではないと思う。思慮深さはこういうとき,抑制的に作用することになるだろうから)。ではその行動力はどこに淵源するかといえば,陽なる性格ではないか。
● こういう演奏を聴けば,よし伊福部昭をCDで聴きこんでみようと思う。ぼくが持っているCDはわずかだけれども,こういうご時世だ,まとめて入手するのはさほどに難事ではないだろう。
今回の栃響の演奏も録音していたようだ。あとでCDになるんだろうか。そうならば,そのCDは必ず買う。
● が,4曲ともそうだけれど,生とCDとではだいぶ落差ができそうだな。録音でこの空気の振動をどこまでとらえることができるんだろうか。できるのか,今の技術なら。むしろ,ぼくの再生環境が問題か。
CDを聴いて,今回の臨場感を脳内で再生できるかといえば,まるで自信はないけどね。
● 足利カンマーオーケスターという,アマチュアなのかプロなのかよくわからないんだけれども,気になる楽団が足利にできて数年が経つ。
今年は7月1日に演奏会がある。7回目になるらしい。
● 平日の19時開演。行けなくはないと思う。が,わが家から電車で行くと,その日のうちに家に戻ることができなくなる。つまり,宇都宮から北に行く電車(つまり,黒磯行き)の最終に間に合わない。足利はけっこう遠いのだ。
宇都宮まで自転車で行けば問題は解決するんだけどね。
● 足利からは,東武特急で浅草まで1時間だと聞く。両毛線と宇都宮線を乗り継いで宇都宮まで出ようと思ったら,1時間ではとてもすむまい。
つまり,足利からは宇都宮よりも東京が近いのだ。いわんや,前橋はもっと近い。
● ということになれば,足利は栃木でも群馬でもなく,どこにも属さない独立不羈の「足利市」であるという趣をたたえることになるか。
左の新聞記事は5月23日の下野新聞のもの。この記事の中で,佐渡さんは「この町には学びたいという文化が残っている」と言っている。本当にそうなのだすれば,それは足利が栃木と群馬の境界線上に位置することと無関係ではないだろう。
● ともあれ。足利カンマーオーケスター,一度は聴いてみたいと思っている。チケットも2,000円とかなり手頃。足利までの電車賃が2,600円かかるんだけど。
那須野が原ハーモニーホール 交流ホール
● 過去には山下洋輔さんや小林研一郎さんを迎えて,華やかにやっていた。前回から自分たちだけの演奏会になった。今回もそうだ。
開演は午後2時。入場無料。
● 場所は交流ホール。パイプ椅子を並べて席を作る。こぢんまりとした感じ。ということはつまり,奏者と聴き手との間の距離が短くなる。
一体感が生まれやすい。聴き手が自分も参加しているという実感を得やすくなる。
● プログラムは次のとおり。
テレマン リラ組曲
ヴィヴァルディ 合奏協奏曲「四季」より「春」
ヘンデル 合奏協奏曲集6の7
モーツァルト 交響曲第25番より第1楽章
ピアソラ エスクアロ(鮫) オブリビオン(忘却) リベルタンゴ
前半はバロックで,後半はモーツァルトをはさんでピアソラというくっきりした対比。
● 音楽監督を務めている白井英治さんの解説によれば,テレマンは3,000ほどの曲を作ったらしい。この時期の作曲家はみな多作だ。
その代わり,現在まで残っている曲は多くはない。価値がないから残らなかったというのではなく,散逸しやすかったのだろう。バッハのマタイ受難曲だって,初演のあと,メンデルスゾーンが再発見するまでは埋もれてしまっていたわけだから。
● ともかく。リラ組曲を聴きましたよ,と。バロックを本腰入れて聴かないといけないなぁと思うことになる。ライヴを聴くたびに思うことだ。
が,おそらく,バロックだけをずっと聴き続けるのは,ちょっとした苦行になってしまいそうだ。バロックも聴くというふうでいい。ポートフォリオの中にバロックも組み込むように。
● リラ組曲はCDを持っていたかどうか。以前はCDを持っていない曲をライヴで聴くと,すぐさまCDを探して手に入れてきたものだが(そうでもなかったか),最近はどうも弛んでいる。
CDを聴く時間も以前よりだいぶ減ってしまっているし。
● 奏者との距離がこれくらい近いと,そうしたことも含めて,いろんなことを次から次へと考える。刺激が大きくなるからだろう。
これくらいの演奏会っていいなぁ。大ホールで聴くのもそれはそれでいいんだけど。
● ピアソラから感じるものは,生きることの哀しみのようなもの。
タンゴの踊りは相当にセクシーで,けっこう際どい動きもあるよね。それも生きるって哀しいねっていうのがあって,束の間,それを下敷きにしてカーニバルに興じるっていう,そういう機序なのかなと思ってみたりする(たぶん,違うと思うんだけどね)。
● ただ,その哀しみを強調するんじゃなくて,いったんぐっと抑えて,さらっと差しだしたという感じ。抑制を利かせているのがピアソラの身上のように思う。
であるから,長く残るのだろう。ピアソラも本腰入れて聴かなきゃなと思って,会場を後にした。
● ところで,白井さんの解説によると,譜面を見るとウワッと思うほど難しいのに,聴いているとそうは聞こえないのが「エスクアロ(鮫)」だ。
なるほど,そういうことはしばしばあるに違いない。要するに,ファインプレーはわかりにくい。ファインプレーをファインプレーとわかる人は,聴き手として相当なレベルのはずだ。