2014年12月22日月曜日

2014.12.21 第32回宇高・宇女高合同演奏会(第九「合唱」演奏会)

宇都宮市文化会館 大ホール

● 2009年の第27回,2012年の第30回に続いて,三度目の拝聴になる。開演時刻,チケット料金はずっと変わらず。午後1時半開演,800円。
 開場前にお客さんが長蛇の列をつくるのも同じ。

● 構成も変わらない。宇女高合唱→宇高合唱→混声合唱と進んで,第1部が終了。第2部は両校合同の管弦楽。
 第3部が合唱と管弦楽が一堂に集っての,「ハレルヤ」と「第九」第4楽章の演奏になる。

● まず宇女高合唱部。OG会長のあいさつ文によると,県代表として関東合唱コンクールに出場したとのこと。
 「サラソラ女声合唱曲集」から“ヘブライ人の子らは”と“神をたたえよ”の2曲。清純さに心が洗われるような思いがしたというと,陳腐に過ぎてしまうだろうか。
 曲調のしからしめるところでもある。が,十代半ばの彼女たちの声質のゆえでもあるでしょう。

● 次は「Life is Beautiful!」とあるんだけれども,要は企画もの。女性の一生を主にはポピュラーソングをアレンジして表してみましたよ,という趣向。
 子どもから思春期に入って,恋愛を経て結婚。子どもが生まれて母親になって,やがて幸せに老いていく,という。

● これを聴きながら思いましたよ。女性はその大半をオバサンとして生きていかなきゃいけない。乙女でいられるのは,ほんの束の間に限られる。
 それは男も同じなんだけど,男はどうも地に足が着いているのかいないのかわからないところがあって,いい年こいて子どもっぽいふるまいをしたり,浅薄な正義感を振りかざしている輩がけっこういる。世間もそれに対して意外に寛容だ。
 ぼくもそっち側の人間であることを自覚しているんだけど,男がそんなことをしていられるのも,女性がしっかりオバサンをやってくれているからで,しょせんはその前提あっての話だ。

● ところが。地に足の着いていない男が,女性に向かってオバサンになってはいけないなどと言いだしたりするから,不毛な厄介さが生じてしまう。
 ときには,同じことを女性が言いだすという,驚天動地の事態も発生する。
 オバサンで何が悪い? オバサンあってのこの世だぞ。オバサンがしっかりしていれば,残余は無用といってもいいくらいのものだ。

● OGも入って,ブリテンの「キャロルの祭典」から,“入場”“来たれ喜びよ”“四月の朝露のごとく”“この小さな嬰児”の4曲。
 けっこう,難しい曲じゃないですか。女子大の合唱団が比較的よく演奏しているイメージがある。
 
● 次は,宇都宮高校の男声合唱。過去2回,男声合唱に圧倒される思いがしたが,今回はどうか。
 「クレーの絵本第2集」から“ケトルドラム奏者”と“黄金の魚”。谷川俊太郎さんの作詞。それと,「コルシカ島の2つの歌」。
 いや,たいしたものだと思った。ひとつには数の力。が,木偶の坊が大勢揃ってみてもしょうがないわけでね。
 自分で歌いながら,全体がどう客席に届いているか,それを把握しているんですかねぇ。それができるって相当なものだと思うんだけどね。

● OBも加わって,秋のピエロ,紀の国,斎太郎節。不動のレパートリーなんだろうか。曲じたい,評価が定まっているものだろうけれども,表現者も素晴らしい。
 空気を切り裂いて届いてくる“斎太郎節”の合いの手なんか,男声ならでは。
 ここが,この演奏会のひとつの頂点を作っていることに異議をはさむ人は,たぶんいないのじゃないかと思う。

● OBはネクタイを締めてスーツで登場。OBになって間もない人も,そうでない人もいた。
 まったく脈絡がないんだけど,その様子を見て頭に浮かんだことがあった。男性が最もモテる日はいつかというテーマだ。
 ぼく自身の体験を申しあげれば,大学4年生のとき。就職が決まったあとの,ゼミの追い出しコンパ。一次会が終わって,二次会。その店のオネーチャンにやたらにモテた。
 スーツを着ていった。大学生から社会人になろうとしている男性の,でもまだ学生の側にいる時分。その学生が社会人の恰好をしている。そのあわいの風情。これではないかね,諸君。
 しかし,社会人の側に入ってしまうと,そのあわいは消えてしまう。
 
● 管弦楽のみでの演奏は,シベリウスの「カレリア」組曲。
 高校に入ってから楽器を始めた人も多いだろう。小さい頃から習っていた人もいるようだ。管楽器にしても,中学校の吹奏楽部でみっちり練習してきた人もいるだろうし,まったく初めてという人もいそうだ。
 各パートとも,個々の技量にだいぶ差がある。それで当然。けれども,難しさもそこにあるんでしょうね。

● それと,もう一点。管弦楽に関してははっきりと女子が優位。両校の演奏をそれぞれ単独で聴いたら,かなりの力量の差を感じるはずだ。つまり,宇女高が巧い。コマもそろっている。
 コンミスなんか手練れの印象だ。姿も美しい。フルート,オーボエも女子奏者がリード。トランペットをはじめ,総じて,金管の水準はかなりのものじゃなかったかと思うんだけど,双肩の役割を果たしたのはやはり女子奏者。
 これはもう仕方がないなぁ。良し悪しは別として,育ってきた環境が違うもんなぁ。つまり,歌舞音曲は女のもの,っていう感覚がまだかなりあるものね,この国には(この国以外にもありそうだが)。

● 「ハレルヤ」からは宇高生がコンマスを務めたんだけど,彼,だいぶとまどっただろう。えっ,なんでオレなの? ってなもんだったかも。
 自分より巧いメンバーを従えて,彼らの演奏を背中で感じながら必要な指示を体で発するなんて,どうやったらできるんだ?
 ここはもう,その経験じたいを楽しんでしまうしかない。言うほど簡単なことではないはずだけど。

● しかし。この年代の若者のノビシロはすごい。昨日の彼は明日の彼ではない。中高年はそれを畏れなければならない。
 同時に思った。あまり小器用に巧くならないでほしい。

● 「ハレルヤ」以降は,合唱団も入る。音楽選択の2年生が加わる大合唱団だ。「第九」も第4楽章しかやらないわけだから,主役は合唱団であって,それ以外ではありえない。
 生徒の中には,なんでこんなのに狩りだされなくちゃなんないんだよ,迷惑なんだよ,と思っている子もいるかもしれない。それが自然だし,もっというとそれが健全でもある。

● けれども,これだけの数の高校生が繰りだす合唱は,上手下手を超えて,文字どおりに他を圧する迫力があった。何人も抗する能わず。管弦楽もソリストも観客も。
 「なんでこんなのに狩りだされなくちゃなんないんだよ」と思っている音楽選択生はひょっとしたらいなかったのかも,と思わせるだけの圧を最後まで切らせることはなかった。

● 合唱も管弦楽も,高校の部活だ。高校生は忙しい。スケジュールはタイトなはずだ。
 その部活でここまでのバリエーションをこの水準で客席に提示できることじたい,彼ら彼女らの能力の高さをうかがわせるに充分。 

● 合唱に限らず,管弦楽も含めて,あんまり頭を使って聴いてはいけないものだろうと思う。それが過ぎると,自分を評論家か審判者の位置においてしまうことになる。審判者とはつまり神でもある。自分を神に祭りあげて恥じないのであれば,とっとと人間であることをやめてしまった方がいい。
 と思っているんだけど,ところどころ頭デッカチの聴き方をしてしまっている。聴き手として未熟。そこがぼくの反省課題だ。

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