● 開演は午後2時。入場無料。
● 曲目は次のとおり。
ヘンデル 合奏協奏曲第12番 ロ短調
ラター 弦楽のための組曲 ニ長調
モーツァルト ディヴェルティメント ニ長調
ショスタコーヴィチ 弦楽四重奏曲第8番 ハ短調
● ぼくのおめあても,最後のショスタコーヴィチ。ひじょうに気になる作曲家でありながら,実際に聴くことは少ない。実聴するのにけっこうハードルを感じさせる。
15ある弦楽四重奏曲も,そのすべてをCDで聴こうと思えば聴ける環境にある。今どきだから,CDなど持ってなくても,ネットで拾うことができるだろう。音源は無料で手に入る時代だ。
なのに,なかなか聴くことをしないでいる。
● 共産ソヴィエトに生きて,しかもスターリンと同時代。これが面倒なイメージを彼に与えてしまっている。今回のプログラム・ノートの曲目解説にも面倒なことが書いてある。
表向きには「ファシズムと戦争の犠牲者」に献呈するように見せつつ,圧政により精神的荒廃に追い込まれた自身への献呈として,1960年7月12日から14日のわずか3日間でこの曲を作曲したのである。3日間で作曲したのはそのとおりだとして,それ以外はそのとおりなのかそうではないのか,厳密には誰にもわからない。上の解説にも何かの典拠があるんだろうけど(っていうか,Wikipediaのコピペなんだけど),その典拠もたぶん想像の産物のはずだ。
● このあたりが彼の面倒なところだ。できれば,この面倒なところとはあまり関わりたくない。
で,関わらないのが正解なのだと思う。ショスタコーヴィチが置かれた環境は考えないで,音楽だけを聴いてみる。それで,どう感じるか。
気楽に構えてCDを聴けばいいのだ。ショスタコーヴィチについては,それ以外に対面の仕方がないのではないか。
● 実際のところ,ショスタコーヴィチのように生命の危機に具体的にさらされたことはないとしても,深刻な苦悩を抱えていなかった作曲家などいないに違いない。
作品を味わうのに作曲家の内面との関わりをよすがにしてしまうのは,こちら側の想像の放埒を許すことでもある。他人の内面などわかるはずがないのだから。彼本人にもわからないことのほうが多いだろう。
● そんなことを考えて,実聴するのを逡巡する。その点,ライヴだと否応なく聴かされるから,優柔不断なぼくのような者にはありがたいわけだ。
実際に聴いてみると,まず感じるのは緊迫感だった。苦しくなるほどの。というと,少し大げさかもしれない。が,息をするのが辛くなるような感じは受けた。
● 弦楽四重奏曲全般について,ぼくには苦手意識がある。ベートーヴェンであれ,チャイコフスキーであれ, ドヴォルザークであれ。
弦楽四重奏曲っていうのは,“違いのわかる男”じゃないと楽しむのは難しいのじゃないかな,っていうね。
このショスタコーヴィチの8番は,むしろ曲としてはわかりやすいように思う。情景が浮かびやすいという点で。
● 演奏する側は何度も練習したろうから,この曲はよくわかっているはず。
で,モーツァルトのディヴェルティメントを演奏しているときから,気持ちはショスタコーヴィチに行っていたってことはあるんだろうか。次はショスタコか,っていう。
いや,モーツァルトのこの曲もけっこう重く感じたものですからね。もっと軽い曲じゃなかったかなと思って。
● ラター「弦楽のための組曲」はたぶん,初めて聴く。楽しい曲だった。
● ヘンデルはバッハとの比較で語られることが多い。が,ヘンデルはヘンデルで,曲作りの職人という感じですよね。
いろいろ聞かされて予備知識ができてしまうのも考えものだ。まっさらな状態で聴きたいものだ。
0 件のコメント:
コメントを投稿