● 事情はあったのだけれど,真岡市民交響楽団の定演を聴くのは,1年半ぶりになってしまった。われながら不本意だ。
東日本大震災で壊滅的な打撃を受けた真岡市民会館も復旧した。その復旧なった真岡市民会館に出向くのも,今回が初めてだ。
こけら落としは昨年7月のN響の演奏会だったのだが。
● ここでちょこっと言い訳を言わせていただくと,わが家には車が1台しかなく,その1台は奥さまがお使い遊ばされている。
わが家から真岡までは30㎞弱。近いのだ。車が使えれば。が,その車が使えないとした場合,公共交通機関利用はほぼ論外となる。
ないわけではない。ないわけではないのだけれども,公共交通機関を使うと,真岡は東京よりも遠いところになってしまう。
● ではどうするか。自転車だ。自転車で行くのにピッタリの距離なのだ。ただし,天気が良ければ。
で,この日は天気が良かったのだ。やれやれ。
● リニューアルというか,すっかり新しく建て替えられた市民会館。バリアフリー化が徹底され,音響も良くなり,トイレ等の付帯施設もレベルアップ。
椅子も長時間座っていても疲れないタイプのものになったような気がしたけれど,これは勘違いかもしれない。
特に,音響は劇的に改善された。今回は1階席で聴いたけれども,この構造なら,次は2階席で聴いてみたい。
● 開演は午後6時。すっかり暗くなってからだ。チケットは500円。当日券を購入。
曲目は次のとおり。指揮は佐藤和男さん。
エルガー 威風堂々第1番
ボロディン 中央アジアの草原にて
ディーリアス 楽園への道(歌劇「村のロメオとジュリエット」から)
シベリウス 交響曲第2番
● 緻密なアンサンブルをめざすのは,どこのオケでもやっていることだと思う。このオケもそうであることは言わずもがな伝わってくる。
問題はどこまでめざしたところに到達できたか。あるいはめざしたところには行けなかったとしても,どれだけ粘れたか。
それは演奏に現れるものだろう。というより,本番の演奏に現れるものって,ほとんどそれだけではあるまいか。
● それゆえ,巧けりゃいいでしょってものでもなく,稚拙だからまるでダメだねってものでもない。聴くべきものはそれ以外にもある。
もし技術の巧拙だけしか味わうものがないというのであれば,ステージで,つまり聴衆の目の前で,演奏する意味合いはゼロになる。
とは言わないけれども,その意味合いが相当減殺されることにはなりそうだ。
● ステージのきわに薄い幕をめぐらせて,演奏しているところを見えないようにしたら,ライヴで聴く意味の8割は失われるだろう。ステージが発している音はそのまま伝わってくるとしても。
視覚から入ってくるものが大きい。その視覚で感知できる情報の主たるものが,練習でどこまで粘ったかといった,そのあたりの履歴なのではないか。
ただし,その視覚情報は攪乱要因でもある。視覚に騙されることがある。聴く側としては,自分の視覚に騙されないようにしないとね。
● この楽団が聴衆に提供してくれるものは,その履歴の大きさだ。と,こちらは勝手に思っている。緻密なアンサンブルをめざして粘った,その粘りの長さ。
おそらく,真面目な団員が多いのだろう。緻密をめざしながら,色を付けたり艶を加えようとする跳ねっ返りはいないようだ。基本に忠実だ。
このあたりも好ましく映る。緻密から自ずと現れてくる色や艶が個性なのであって,故意に出した色や艶は下品なだけだ,という言い方でもいいかもしれない。
● 真面目な人たちの集団で,跳ねっ返りはいないようなのだけれども,ディーリアスを引っぱってくる人はいるんだな。過去にはウォーロックを演奏したこともあった。
こういうのって,ぼくが知らないだけで,知る人ぞ知るの存在なのか。そんなことはないと思うんだけどね。
● シベリウスの2番はここのところ,何度か聴く機会に恵まれた。楽譜が同じでも,できあがる音楽は同じではない。真岡には真岡のシベリウス。
しかも,平成27年12月19日の真岡のシベリウスであって,他では聴けない。そのとき,その場所に,自分を運んでくることを厭わなかった者だけが,聴くことができる。
● ではどうするか。自転車だ。自転車で行くのにピッタリの距離なのだ。ただし,天気が良ければ。
で,この日は天気が良かったのだ。やれやれ。
● リニューアルというか,すっかり新しく建て替えられた市民会館。バリアフリー化が徹底され,音響も良くなり,トイレ等の付帯施設もレベルアップ。
椅子も長時間座っていても疲れないタイプのものになったような気がしたけれど,これは勘違いかもしれない。
特に,音響は劇的に改善された。今回は1階席で聴いたけれども,この構造なら,次は2階席で聴いてみたい。
● 開演は午後6時。すっかり暗くなってからだ。チケットは500円。当日券を購入。
曲目は次のとおり。指揮は佐藤和男さん。
エルガー 威風堂々第1番
ボロディン 中央アジアの草原にて
ディーリアス 楽園への道(歌劇「村のロメオとジュリエット」から)
シベリウス 交響曲第2番
● 緻密なアンサンブルをめざすのは,どこのオケでもやっていることだと思う。このオケもそうであることは言わずもがな伝わってくる。
問題はどこまでめざしたところに到達できたか。あるいはめざしたところには行けなかったとしても,どれだけ粘れたか。
それは演奏に現れるものだろう。というより,本番の演奏に現れるものって,ほとんどそれだけではあるまいか。
● それゆえ,巧けりゃいいでしょってものでもなく,稚拙だからまるでダメだねってものでもない。聴くべきものはそれ以外にもある。
もし技術の巧拙だけしか味わうものがないというのであれば,ステージで,つまり聴衆の目の前で,演奏する意味合いはゼロになる。
とは言わないけれども,その意味合いが相当減殺されることにはなりそうだ。
● ステージのきわに薄い幕をめぐらせて,演奏しているところを見えないようにしたら,ライヴで聴く意味の8割は失われるだろう。ステージが発している音はそのまま伝わってくるとしても。
視覚から入ってくるものが大きい。その視覚で感知できる情報の主たるものが,練習でどこまで粘ったかといった,そのあたりの履歴なのではないか。
ただし,その視覚情報は攪乱要因でもある。視覚に騙されることがある。聴く側としては,自分の視覚に騙されないようにしないとね。
● この楽団が聴衆に提供してくれるものは,その履歴の大きさだ。と,こちらは勝手に思っている。緻密なアンサンブルをめざして粘った,その粘りの長さ。
おそらく,真面目な団員が多いのだろう。緻密をめざしながら,色を付けたり艶を加えようとする跳ねっ返りはいないようだ。基本に忠実だ。
このあたりも好ましく映る。緻密から自ずと現れてくる色や艶が個性なのであって,故意に出した色や艶は下品なだけだ,という言い方でもいいかもしれない。
● 真面目な人たちの集団で,跳ねっ返りはいないようなのだけれども,ディーリアスを引っぱってくる人はいるんだな。過去にはウォーロックを演奏したこともあった。
こういうのって,ぼくが知らないだけで,知る人ぞ知るの存在なのか。そんなことはないと思うんだけどね。
● シベリウスの2番はここのところ,何度か聴く機会に恵まれた。楽譜が同じでも,できあがる音楽は同じではない。真岡には真岡のシベリウス。
しかも,平成27年12月19日の真岡のシベリウスであって,他では聴けない。そのとき,その場所に,自分を運んでくることを厭わなかった者だけが,聴くことができる。
真岡市民交響楽団の団員です。いつも温かいお言葉、ありがとうございます。私たちは、どのように聴いてくださったか、こちらのHPでのお言葉を真摯に受け止めています。今回もありがとうございました。今後とも、よろしくお願いいたします。
返信削除こちらこそ,お読みいただいてありがとうございます。
削除私がここに書かせていただいたことが,しかし,どこまで正鵠を得ているのか。
千人近くいた聴衆の中のたったひとりの意見に過ぎません。
書いておきながら何なのですが,私の見方にあまり縛られないようにしていただければ,と思うのです。
縛られてはいないはずだと,そこは安心もしているのですが。