2018年9月30日日曜日

2018.09.29 弦楽亭室内オーケストラ第4回コンサート 第1回那須クラシック音楽祭

那須町文化センター 大ホール

● 那須でクラシック音楽祭を催行するというニュースに接したとき,凄いものだなと思った。音楽祭ではなくても,こうした催しを自分が核になって作りあげることは,ぼくには逆立ちしたってできないことだ。
 となれば,せめてお金を提供することくらいはしないとなと思って,クラウドファンディングに些少の協力をしたのだった。もちろん,できるだけ多く聴きに行こうとも思っていた

● が,問題が2つあった。ひとつは,音楽祭が実施される9月にも,他の地域では例年どおりにコンサートが開催されるということ。この期間は那須で音楽祭があるようだから自分たちの演奏会は控えておこう,とはならないのだった。
 となると,そちらに引きずられて,那須に足を向ける機会がない。

● もうひとつは,わが家から那須町まではけっこう遠いということ。
 那須には何度も行ったし,県内では唯一泊まったことのあるエリアだ(仕事絡みでは,日光や塩原,鬼怒川,馬頭にも泊まったことがあるけれど,家族で泊まったのは唯一,那須のみ)。
 ので,距離感はわかっていたはずなんだけどねぇ。このあたりをうっかりしていた感じかなぁ。どうもチグハグ。
 主催者とすれば,わずかな金額でファンディングに応じてもらうより,コンサートに足を運んでもらう方がずっとありがたいはずだと思うのだけども,1ヶ月の音楽祭の間,那須に来たのは今日1日にとどまった。

● 開演は午後3時。入場料は1,500円。チケットというのはない。500円の回数券を買って,必要枚数を支払うことになっている。
 曲目は次のとおり。指揮は今回も柴田真郁さん。初めて柴田さんの指揮に接したのは2012年の1月だった。その頃と比べると,いくぶん太られたようだ。
 モーツァルト 交響曲第41番「ジュピター」
 ブラームス交響曲第3番

● 弦楽亭室内オーケストラはプロアマ混成の楽団なのだが,こちらに迫ってくるもの,訴えてくるものが立体的だ。立体的というか,実体としてそれが存在しているという感覚になる。
 迫ってくるだの訴えてくるだのっていうのは,こちらが勝手に感じているだけのものだけどね。

● 個人の集合体であるオーケストラにもし意思があるのだとして,その意思どおりにこちらが受けとめることは,僥倖としてもまずないだろう。ぼくに限ったことではないはずだ。
 普通は段差ができる。だからこそ聴衆がいる意味があるのだと居直りたいのだけれども,面倒なのは,この段差が小さければいいとか,逆に大きい方がいいとか,一義的には決まらないことだ。
 それ以前に,おそらくだけれども,奏者側に小さくない悔いが残った場合であっても,神様の目から見るとそれで正解だったということがあるに違いないのだ。その逆も。だからこその生ものなんだろう。

● ここまで重厚な「ジュピター」を聴いたのは,たぶん初めてだ。奏者側がそうしようと思ってそうしたのか。あるいはそうではないのか。そこはわからない。わからないけれども,ぼくには重厚だと聞こえた。
 で,ぼくはそれを良しとする。ということは,自分は重厚な演奏が好きなのかと自問してみる。だったらチャイコフスキーなんかたまらないんじゃないか。ところが,それもよくわからない。好きなのかそうでもないのか。

● モーツァルトが重厚なんだから,ブラームスは言うにや及ぶ。第2楽章が終わったところで席を立った人がいた。もったいない。後半が聴きどころなんだがな。
 あ,これがライヴなんだと思わせる。厚味と深味。コンマスの位置に矢野さんが座っているのがやはり大きいのか。

● これをCDやハイレゾ音源を元に,電気的な装置で再現できるだろうか。1億円もあれば再現できるだけの環境を作れるかもしれない。防音室も含めて。
 ところが,そのたった1億の金がない。

● 那須音楽祭では,その一環としてジュニアクラシックコンクールも実施しており,その上位入賞者の披露演奏もあった。
 トップバッターは群馬県の小学6年生の中村玲偉さん(ヴァイオリン)。バッハのヴァイオリン協奏曲第2番第1楽章。このメンバーをバックに演奏できるんだから豪勢なものだ。
 結局,彼のこの演奏が最も記憶に残った。幼さ(あるいは可愛らしさ)が惹きつける要素でしょう。これから幼さを失っていくわけだから,それを埋めるだけの技術なり表現力の進歩が求められるのだろう。目指せ,第2の葉加瀬太郎。彼,体育の授業は見学してるんだろうかなぁ。

● グランプリの本田歌音さん(東京音大附属高2年)のフルートはさすが。彼女が応募してくれて,コンクールの面目が立ったのではないかと思うほどだ。
 歌音という名前を付けるくらいだから,両親も演奏家で,娘も演奏家にさせようとしたわけだろうか。そうなら恵まれた環境というかサラブレッドというか。本人がそれをどう受けとめているかは別だけども。
 彼女が演奏したのは,バッハ「管弦楽組曲第2番」の2,5,6,7曲。コンクールの課題曲だったらしい。ともあれ,バッハをたくさん聴くことができた。

● 聴衆の数が多いとは言えなかったのは,会場がマイナーだったせいだろうか。
 あと,明日は台風24号が直撃するかもしれないわけでね。っていうか,台風に備えろとニュースでは言ってるもんねぇ。コンサートなんかに来てていいのかって感も,なくはなかったんだけどねぇ。

● 那須町文化センターをマイナーと言ってしまったんだけど,施設じたいは立派なものだ。もちろん,多目的ホールであるわけだが,大小のホールを備える。ホール以外の施設(会議室など)は別棟になっていて,両者を結ぶ通路部分に中央入口がある。
 人口が2万4千人の町にこれだけの施設があるとは,少し驚いた。あとは使い倒すだけか。それが難しいわけだろうが。

2018.09.24 間奏59:CDだけでは広がりを欠く

● 右はCSのクラシック音楽専用チャンネルの拡販チラシ。スカパーだと月額3,000円(+基本料金390円)。
 ま,元は取れないと思うので,導入する予定はない。ほとんど視聴しないで終わりそうだ。CDだって一生かかっても聴ききれるかどうかわかったものではないのだ。

● ただ,CDだとどうしても自分が聴きたいものしか聴かないことになりがちなので,幅が広がらない。
 その点,こういう番組を機械的(?)に見ている方が新たな発見を得やすいだろう。でも,そういうことに使うなら,NHK-FMの「クラシックカフェ」で充分だと思う。

● テレビでもクラシック音楽番組はあるけれども,ぼくは見たことがない。ウィーン・フィルのニューイヤーコンサートを一度見たことがあるだけだ。
 そのときも,番組の作り方がウザいと思ってしまって,以後,見る気にならないでいる。後にも先にもその1回だけだ。
 テレビを生活から排除してしまったってのもあるんだけど。

● ちなみにいうと,「音楽の友」も買って読んだことは一度もない。図書館でパラパラと見たことはあるけれども,図書館でも手に取らないことが多い。
 あれは業界誌だと思っているからで,そうそう業界の都合に付き合ってはいられない。

● コンサート情報や業界の動向を知りたければ,無料の「ぶらあぼ」で充分だ。じつはそれすら必要なくて,「ぶらあぼ」のTwitterをフォローしていれば足りる。ぼくはそれもやってないけど。
 そもそもが,プロの演奏家のコンサートやリサイタルにはあまり行かないしね。

● 話が逸れた。CDで聴きたいものだけを聴いていては広がりを欠くというところは自覚している。ここは修正しなくちゃなと思っている。
 やはり手軽なところで,NHK-FMか。「らじる★らじる」をスマホにインストールして,聞き逃しサービスで「クラシックカフェ」を聴くことにするか。
 とすると,スマホも音質がいいものに買い換えたくなるなぁ。

● ところが。「クラシックカフェ」は聞き逃しサービスの対象番組にはなっていないのだな。リアルタイムで聴くのは無理だよなぁ。録音というのも現実的じゃないな。
 どうしたものかな。番組表を見て,同じものをCDで聴くことにするか。

2018年9月26日水曜日

2018.09.23 那須フィルハーモニー管弦楽団 名曲コンサート

那須野が原ハーモニーホール 大ホール

● 3月の定演は聴けなかったので,1年ぶりの那須フィル。ハーモニーホールに来るのも久しぶりな感じ。開演は午後2時。チケットは500円。当日券を買って入場。

● 那須フィルは,市民オケの中では,たぶん全国でもトップクラスの恵まれた環境にある。田中祐子さんを音楽監督に迎えて,パートごとにトレーナーが付き,その費用はホール側が負担してくれるのだ。チケットも自分たちでモギらなくていい。ホールスタッフがやってくれる(この演奏会はホール側の主催行事になっている)。
 しかも,練習でもこのハーモニーホールを使えるらしいのだ。他の市民オケからすれば垂涎の的ではあるまいか。

● が,それを手放しで喜んでいいのかどうかはまた別の問題であって,行政がどこまで関わるのがいいのか,関わらないのがいいのか。
 金は出すが口は出さないというのはあり得ない(金は出さないくせに口だけ出す,ってのはありそうだけどね)。けっこう,微妙な問題がありそうな気はする。しかし,ホール側が那須フィルを大切なものとして捉えていることは間違いないように映る。

● 曲目は次のとおり。指揮は那須フィルの顔として定着して久しい田中祐子さん。
 ベルリオーズ 序曲「ローマの謝肉祭」
 メンデルスゾーン 交響曲第4番イ長調「イタリア」より第1楽章
 ロッシーニ 歌劇「セビリアの理髪師」より 序曲
 ロッシーニ 歌劇「セビリアの理髪師」より「今の歌声は」
 ヴェルディ 歌劇「運命の力」より 序曲
 レスピーギ 交響詩「ローマの松」
 今回はイタリアでまとめたようだ。ちなみに,アンコール曲もイタリアの作曲家,マスカーニの歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ」間奏曲。

● ぼくが初めてこの楽団の演奏を聴いたのは,2010年9月のこの名曲コンサートだった。そのときの記憶は今となっては朧なんだけども,これほどの演奏をしていたんだっけなぁと思わぬでもない。
 団員の入れ替わりはあるようだけど,着実に進歩していると思える。

● 最も印象に残ったのは,ロッシーニ「セビリアの理髪師」序曲。次が,ヴェルディ「運命の力」序曲。「今の歌声は」では,アリアの部分を岩下美香さんのマリンバで。
 けれども,上手いなと思ったのは,メンデルスゾーンのイタリア。少し弾けたようなイタリアの明るさ,開放感を感じることができた。

● と,上から目線で気楽に語っているけれども,団員たちはこの活動を続けるために,捨てているものがたくさんあるはずなのだ。家族サービスを捨てている人もいるだろうし,昇進や昇給を捨てている人もいるかもしれない。ひょっとしてひょっとすると,恋人を捨てた人もいるかも(いないか)。
 プログラム冊子の館長あいさつで,「仕事を持ちながら参加している人も多く,常日頃熱心に取り組んでいる姿は感動的でもあります」と語っているけれども,決してリップサービスではあるまいと思う。
 そのおかげで,地元でこうして生の管弦楽を聴けるわけだ。彼ら彼女らが捨てたものを,巡りめぐってぼくらが受け取っているという言い方もできるだろう。

● 同じ館長あいさつに,「(アンケート結果から)入場者を見ますと,関東1都6県のほか,福島県や遠く熊本県からも来場されています」とあるんだけど,これは正直,言われないとわからないことだ。
 福島県はわかるんだよね。ここから百歩ほど北に歩けば福島県だから。熊本っていうのは何だろうね。わざわざそのために熊本から(たぶん,飛行機と新幹線を乗り継いで)那須まで来たってのは,いくら何でもないだろうからなぁ。栃木以外の関東からってのも意外だもん。

● 田中さんの指揮を見にきているんだろうか。たしかにね,地元で彼女の指揮ぶりを見れるぼくらはラッキーだ。
 その田中さん,音楽監督の契約期間は3年だったと記憶する。が,すでに4年目に入っている。ホール側が七重の膝を八重に折ってお願いしたんだろうかな。

● すっかり那須フィルの広告塔。彼女の魅力は指揮にとどまらない。指揮もできるピン芸人というかね。つかみが上手だよね。間もいいし。落語のCDを聴いてたりするんだろうか。頭の回転もいいんでしょ。でなきゃ,指揮者は務まらない。
 指揮以外でも身体のキレがいいから,鍛錬もしてるんだろうな。ナマるという言葉は彼女の辞書にはないようだ。

● 次は3月に定演。ブラームスの4番。となれば,聴かずばなるまい。

2018年9月18日火曜日

2018.09.17 栃木県交響楽団特別演奏会

栃木県総合文化センター メインホール

● “コンセール・マロニエ21”の優勝者をソリストに迎えて開催する,栃響の演奏会。開演は午後2時。チケットは1,000円。
 当日券もあったようだけど,このチケットは前もって買っておくのが吉。この演奏会の価値はお客さんはみな知っている。

● 今回の主役はピアノの田母神夕南さん。曲目は次のとおり。指揮は荻町修さん。
 ボロディン 歌劇「イーゴリ公」より ダッタン人の踊り
 チャイコフスキー ピアノ協奏曲第1番 変ロ短調
 チャイコフスキー バレエ「くるみ割り人形」組曲

● で,いきなり結論。今年ぼくが聴いたコンサートの中で,今回が最も出色。その理由は,第一に田母神さんの渾身のピアノにある。全力投球の私を見て,という。名花,咲く,の趣あり。鬼気迫るという形容の仕方でいいのではないかと思う。
 が,それだけでこういう演奏会になるかというと,たぶん,それだけではこうはならない。

● 栃響が彼女を包むわけだが,その包み方がひじょうにいい。企んだことではない。包み方を意図したわけではなく,あくまで結果としてそうなったということなのだが。
 栃響の団員が彼女を好ましく思っているとかいないとか,そういうことではない。そういうこととは別のもの。
 栃響が田母神さんのピアノに見事に応接した,ということとも違う。さすがは栃響で,余裕すら漂わせていたと思うのだけど,そういうこととは微妙に違う。

● 客席も与って力あったかもしれない。要は,“場”がうまい具合にできあがっていた。
 その“場”に乗って,田母神さんが存分に実力を示して,存在感を全開にした。それを栃響(と指揮者の荻町さん)がスッと受けとめて,細かくバックアップ。
 さらにそれを客席が許容するというか,押しあげるというか。そういう三重構造がサッサッサとできあがった。ソリストと管弦楽と客席のひじょうに好ましい関係が具現された。

● それを作る核になったものが何かといえば,“田母神さんの渾身のピアノ”であることは確かだから,その功績をしいて特定の誰かに帰せしめるとすれば,田母神さんということになる。
 田母神さんはこれから,あまたの会場であまたのオーケストラと共演するはずだけれども,今日のこの演奏会は,彼女の記憶に長く残るのではないかと愚察する。また,そうなってくれればいい。

● その田母神さんのアンコールはショパン「練習曲」の第1曲。お土産までもらってありがとう,という感じね。

● このピアノ協奏曲に登場していた,栃響のフルート。新顔かな。ぼくが気づかないだけで,前からいたのかもしれないけど。
 出番が多いからいきおい目立つことになるんだけども,彼女のフルートに瞠目。若い力が入ったのだなと思った。
 あと,「ダッタン人の踊り」のクラリネットにも。

● 休憩時にこんな話をしているお客さんがいた。
 わずか2時間のために,店を閉めるってリスクだよね。
 でも,1回だけのことだから。
 そうだね。1日の売上げだけだもんね。

 いやいやいや,あんまり良くないかもよ。店を閉めるってよくよくのことでしょ。
 1回だけのことっていうんだから,田母神さんの知り合いだろうか。店を閉めてわざわざ宇都宮までやって来た,と。
 こんなお客さんも来てたよ,ってことね。

2018.09.16 鹿沼フィルハーモニー管弦楽団 第34回定期演奏会

鹿沼市民文化センター 大ホール

● 開演は午後2時。チケットは1,000円。当日券を買って入場。

● 曲目は次のとおり。指揮は神永秀明さん。
 ブラームス 悲劇的序曲
 モーツァルト 交響曲第29番 イ長調
 ブラームス 交響曲第4番 ホ短調

● ひとりの作曲家を除いてそれ以外の楽曲はすべてこの世から抹殺する,と神様がおっしゃったら,誰を残してほしいか(素人が考えそうなことでごめんなさい)。
 ぼくはずっとベートーヴェンだと思っていた。間違ってもブルックナーやマーラーではない。
 ベートーヴェンの交響曲を聴ければ渇はほぼ癒されるし,弦楽四重奏曲を聴ければ音楽の底の深さを感じるに充分。そもそも,ピアノ協奏曲,ピアノソナタ,ヴァイオリンソナタなど,ベートーヴェンは巨大といってもいい作品群を残していて,全部聴くだけでも大変でしょ。

● が,最近,ブラームスかなと思うようになってて。ブラームス,素晴らしい。
 ブラームスの良さを知るのに,ずいぶんと時間を要してしまった。っていうか,最初はベートーヴェンの亜流としか思っていなかったというのが正直なところで。
 ブラームスの独自性というのか,これがブラームスだっていうのを感じられるようになるのに,これほどの時間を要するバカも世の中にそんなにいないと思う。

● ブラームスの人がらとか生い立ちとかクララ・シューマンとのあれやこれやは,基本,どうでもいい。作者と作品は別だ。
 ぼくらが問題にできるのは作品だけだ。作品との絡みで作者の性格や作曲当時の生活状況を問題にすることは,“解釈”するうえで必要なのかもしれないけれども,それもほどほどにしておけと思っている。
 作品と作者の絡みって,後付けで関連付けられるほど単純ではなかろうし,後付けでわかりやすく説明されている“関連”はだいたい間違っていると,ぼく一個は考えている。

● 中でも4番が好きだ。最初の踏みだしでガッと捕まれて,終局まで離してもらえない。いろんな所に連れていかれる。目まぐるしく風景が変わるかと思えば,天国なのかここはと思わせる数分間がある。
 振幅はそれほどに大きくないと思うんだけれども,その限られた幅の中に,この世の良きものがすべて詰まっている。

● CDはカルロス・クライバー&ウィーン・フィルのものをもっぱら聴いている。カラヤンも手元にあったと思うが,まず聴くことがない。
 なぜかといえば,最初に聴いたのがクライバーだったからで,カラヤンを最初に聴いていれば,カラヤンを聴き続けたに違いない。同じ曲を複数の演奏で聴き比べてみるってことを,ぼくはあまりしない(バッハのゴルトベルク変奏曲はいくつか聴き比べて,グレン・グールドに落ち着いた。これがほぼ唯一の例外)。
 ま,その程度の聴き手でしかないわけだ(“名盤”探しに血道をあげてるヤツはバカだと思ってるんだけど,本当は)。

● そのブラームスの4番を聴けるというので,鹿沼まで出かけていったわけ。じつは,第1楽章だけは7月の「オーケストラフェスティバル in 鹿沼」で聴いている。
 それで気がすんでるといえば,すんでるんだけどね。

● 弦を中心にエキストラが多いようだ。それなしではおそらく成立しない。地方の市民オケはだいたいそういうもの? お互いに融通しあって存続しているってことなんだろうかなぁ。
 団員の入れ替わりもけっこう頻繁のように見受けられた。10年間メンバー不動というんじゃ,半ば腐るだろう。新陳代謝はどんな組織でも必要だ。必要なんだけれども,あまり短期間で交替されるのは辛い。

● なかなか運営基盤が安定しないという苦しい事情が垣間見れた。いや,実際はそうでもないのかもしれないけれども,そういうふうに見えてしまった。
 良くも悪くも,コンミスの存在感が大きいようだ。というか,コンミスでもっているような。

● ここがじつは不思議でね。鹿沼西中,東中という,県内で2つしかない管弦楽部を持つ中学校を抱えていて,県内で6つしかない管弦楽部を持つ高校を抱えていて,ジュニアオケもたぶん県内随一の水準なのに,何でこうなっちゃうのっていう。
 鹿沼市外に出て行ってしまうんだろうなぁ。近くならいいんだけど,遠くに行っちゃう人が多いんだろうかなぁ。この動きは止めようがないものな。
 でも,そういういうことって,さほどに問題じゃない? ひとつの作品を作りあげていく喜びっていうのは,少人数でもその大小に影響はないのかもしれない。

● 問題はもうひとつあって,作品は発表して初めて完成品になる。グレン・グールドは録音を作品として発表したけれども,普通は聴衆に聴いてもらうという発表の仕方をする。
 その聴衆もやや少なめ。招待状をバンバン配るとか,知り合いに声をかけて引っ張り込むのは,あまり上等な動員の仕方ではない。営業ではなく品質で客を呼ぶ。そのためにはまず運営基盤の安定が必要。
 って,これらはやはり,地方の市民オケに共通の問題ですかねぇ。問題は見えるけど,解決策は見えない。
 うぅ~む。ぼくにできることは,とにかくできるだけ足を運ぶってことなんだけど。

2018年9月10日月曜日

2018.09.09 東京大学歌劇団 第49回公演 ヨハン・シュトラウスⅡ「こうもり」

三鷹市公会堂 光のホール

● 開演は午後3時。入場無料(カンパ制)。

● 面白かったね。まずは脚本と演出に拍手を送りたい。
 その演出を担当した南あかねさんが,プログラム冊子の“プログラムノート”で,どこに注目したか,どこに手をかけたか,どこはあえて放置したか,ということを述べているんだけれども,作る側はここまで自覚的なのかと思った。
 この解釈と姿勢に同感する人も,同感しない人もいるだろう。正解はない。っていうか,正解を持ってしまっているような劇は浅薄ですぐに見棄てられてしまう。

● 歌ではなく台詞でつなぐところが多いので,脚本が大事。作家(?)の腕の見せどころ。歌なしでいくわけだから,演者の演技も問われる。表情や仕草が大事になる。
 しかし,どうもそれ以上に声がものを言うようだ。となれば,台詞も歌の範疇というか,そもそもキャストの得意とするところというか,台詞について違和感を覚えた箇所はなかった。

● その脚本も,たぶん,あまり悩まないでササッとできあがったのではないだろうか。そんな感じがする。なぜそう思ったかというと,全体として台詞に勢いがあったからだ。
 あまり悩んでしまうと,つまり時間をかけてしまうと,その勢いを殺してしまうことがある。時間をかければいいものができるというわけではない。

● 際立っていたのはアデーレの造形ではないかと思う。「極端なほど子供にしてしまう」という。これ,演者が門上莉子さんだからそうしてみようと思ったのか,そうしてみることに決めたから門上さんをアデーレ役にもってきたのか。
 何か失礼なことを言ってる? そうではなくて,門上さんが演出にほぼ完璧に応えていたと思えたので。地でやっているのかと思えるほどに完璧。
 もっとも,こうした子供役の演技と蓮っ葉な女役の演技は,わりとやりやすいのだろうとは思う。これをやって絵にならない女優はまずいない。しかし,だから簡単だということではない。“やりやすい”と“簡単”は別のもの。

● オルロフスキーを演じた根岸優至さんがやはり目立ったよね。カウンターテナー。もう,わけがわからない。何,これ,っていう。わかりやすい異能。及川音楽事務所所属って,もうプロなんですか。
 アルフレードの伊藤悠貴さんも存在感を発揮。何で存在感を放っていたかといえば,やはり声だ。“乾杯の歌”を軽く歌いだしたところなど,ゾクッと来たよ。

● この歌劇団の公演は毎回楽しませてもらっているんだけれども(だから,今回も出かけたわけだ),今回,特に感じたのは,彼ら彼女らのキャパの大きさだ。
 東大生といっても,おそらく階層があるよね。彼ら彼女らは,上の方の階層に属するんじゃないかな。勉強ができる云々ではなくて,地頭がかなりいいんだろうと思う。回転が速いというか排気量が大きいというか。
 すでにOB・OGになっている人もいる。仕事をしているわけだ。その本業が楽にできるものとは思えない。並みの人だと根をあげそうだ。それをこなしながら,表現者としてもここまでできちゃうってのはねぇ。ぼくからするとルール違反じゃないのかと言いたくなる。

● 比較対象がぼくだというのが問題だけれども,こうまで性能が違うと,彼ら彼女らとぼくとでは,見えている風景がまるで違うはずだ。
 まして,類は友を呼ぶで,それぞれの水準に応じた世界ができるとすれば,そもそも住んでる世界が違うという様相を呈することになるだろう。

● ので,たとえば“プログラムノート”にしても,書き手の南さんが想定した内容でぼくに伝わっているかどうか,けっこう以上に心もとない。書き手の責任か読み手の責任かという話ではなくて,同じ日本語が同じ意味では伝わらないということが起こるのじゃないかと思う。
 ところが,そうした隔絶した違いがあるにもかかわらず,音楽や歌は両者に橋を架けることができるんだよねぇ。刺さる場所が,そうした性能差の出る部位じゃないってことでしょうねぇ。

2018.09.01 オーケストラハモン 第39回定期演奏会

東京芸術劇場 コンサートホール

● “青春18きっぷ”で池袋にやってきた。池袋で降りるのは何だか久しぶりの感じ。っていうか,できるだけ降りないようにしてますからね。新宿と渋谷と池袋では。
 何せ,人が多すぎるし,駅の構内が複雑すぎて迷うのが常だから。ボーッとしていることが許されない感じね。

● オーケストラハモンの演奏を聴くのは,今回が初めて。開演は午後2時。チケットはS,A,Bの3種。B席が残っていたので,それを買って入場。
 曲目は次のとおり。指揮は冨平恭平さん。
 ウェーベルン 夏風の中で
 マーラー 交響曲第6番 イ短調

● 「夏風の中で」は1週間前に聴いたばかりだ。あるね,こういうこと。生で聴く機会はさほどに多い曲ではないのに,短期間に続けて聴くことになるってこと。
 調べてみたら(調べるってほどじゃないんだけど),この曲のCD,ぼくは持っていなかった。ので,手当てした。実際にCDを聴くかどうかはわからない。わからないけれども,聴きたくなったら速攻で聴けるようにしておこうと思った。ネットで聴けるはずだけれど。

● マーラーの6番を「悲劇的」と呼ぶことにはまったく同意できない。むしろ,アジテートするっていうか,気持ちを高ぶらせるところがあると思う。ぼくの聴き方が浅いんだろうか。
 浅いついでに,マーラーは管楽器の奏者を立たせたり,上を向かせたりするんだけど,これって何か意味があるんだろか。音の聴こえ方が違ってくるとは思えない。
 見た目に変化をつけたいということだろうか。オーケストラは聴くだけのものじゃない,と。
 でもさ,これがあるんだったら,“のだめカンタービレ”のチェロの回し弾きだってあっていいんじゃないかと思ってしまうんだよねぇ。技術的に可能かどうかは別にしてね。

● 毎度思うことだけれども,東京のアマチュアオーケストラの層の厚さに驚く。地方とは隔絶している。これほどのアマオケがどれほど存在するのか。それこそ,雲霞のごとく東京に蝟集しているんだろうか。ちょっと呆然とする。
 これほどの演奏のマーラーを千円で聴けることの不思議さ。妙な気分だ。

● 東京集中はね,オーケストラに限らないわけでね。あらゆるものが東京に集中している。人口集中が根底にあるわけだけれども,ぼく一個は一極集中を人為的にどうにかしようとすることには反対だ。
 集中するには集中するなりの理由があるのだ。そこをそのままにして東京圏に人を入れないようにするのは,江戸時代の人返し令と同じだ。基本的人権の侵害だ。
 東京が元気でいることは日本の生命線だ。地方がダメになっても,東京が元気なら日本はどうにかなる。が,その逆はあり得ない。

● 首都機能移転はとうに忘れ去られたトピックだけれど,もともと無理だったのだ。国会議員は東京と選挙区を参勤交代すればいいのだし,官僚は霞ヶ関にいればいいのだ。東京を離れて,どうやって政策を立案するというのだ?
 個人もしかりだ。ビッグになりたいのなら,東京に出るしかない。インターネットがあるんだからどこにいても同じだ,というわけにはいかない。情報も東京に集中している。

● というわけで(どういうわけだ?),演奏のレベルは高い。どのパートがということではない。どのパートもレベルが高い。
 そこをあえて言うと,要の位置にいたオーボエの女子奏者を第一にあげたい。ぼくの席からだと顔かたちは見えないのだけど,絵になる奏者だ。何ていうんだろ,演じるべきところできちんと演じていたという印象だ。

● プログラム冊子の“代表挨拶”も面白かった。就職氷河期に大学を卒業した悲哀を,上司からもらった名刺入れを素材に語っているのだが,わずか40数年しか生きていなくても,人に歴史あり。そういう上司に出会えたことは,本人が思っている以上に幸運なことであったに違いない。
 そうした悲哀は誰もが持っているんだろうな。順風満帆な人生なんて,どこにもないだろう。人生は苦と喝破した釈迦は正しい。それでも笑って生きているのが人間でね。愛おしいものだよね,人間って。