東京芸術劇場 コンサートホール
● 音大オーケストラ・フェスティバル2日目。上野学園と桐朋。開演は午後3時。
今回の席は少し前すぎ。管の奏者は見えない。その代わり,ヴァイオリン奏者を間近で見ることになる。上腕筋の動きまでわかる。今,息を吐いたとか吸ったとか,呼吸の具合までわかる。
● 上野学園はレスピーギ「交響詩 ローマの噴水」とプロコフィエフ「〈3つのオレンジへの恋〉による組曲」。指揮は清水醍輝さん。
清水さん,ヴァイオリンでその名のとおり輝かしい実績を残しているのだけど,最近は指揮活動に力を入れているんだろうか。
● 上野学園って,他の音大に比べると馴染みが薄い。この音大フェスに参加するようになったのも,2年前からだった。
経営問題が取りざたされることも,イメージを悪くしている。が,そういうことはそういうこと。一般報道だけでイメージを作ってしまうと,たぶん実態から離れることになるだろうし。
ステージ上の学生は,当然ながら,そういったこととは無縁でいるように思われた。
● 「3つのオレンジへの恋」を生で聴くのは初めて。CDはぼくの手元にもあったはずだが,そのCDを聴いたこともない。こういう機会に蒙を啓いてもらえるのだが,では今後,この曲を聴くことがあるかといえば,あるかもしれないし,ないかもしれない。
やっぱ,オーケストラだよなと思った。室内楽も独奏もいいんだけれども,オーケストラの華って動かしがたいよね。
● 桐朋はホルスト「惑星」。指揮は沼尻竜典さん。これだけの大編成を組みながら,一切,水準を落とさないでやりきるのは,さすが横綱の貫禄ということか。
この曲もまるごと生で聴くのは初めて。「木星」を単独で取りあげているのは何度か聴いているのだけど。
● ホルストは「占星学で説かれている惑星のイメージを音で再現してみようと考えた」とはよく言われることで,実際,そうなのだろう。
で,ナントカ占いで使われるアレでいうと,ぼくは八白土星なんですよ。土星は老年の神。ありゃりゃ。火星(戦争の神)や金星(平和の神),海王星(神秘の神)の方がよかったなぁ。
しかも,土星って「人に対して冷徹で,陰気な性格を持つとされる」らしいんですよ。当たっていないとは言わないけれど,何だかなぁ。
● ところが,実際に桐朋の演奏で土星を聴いてみると,“老年の神”っていうイメージではぜんぜんない。「惑星」全体で最も高揚するのが土星じゃないか。何だかホッとしたというか,嬉しくなったというか。
最後の海王星では,舞台の袖から女声合唱がかすかに聞こえてくる。これ,効果的ですなぁ。神秘の神という感じがする。
終演後,彼女たちがステージに登場した。この合唱団も当然自前なのだろう。何かさ,ぼくらの若い頃とは日本人の体型って様変わりしてるよね。身体が細いのに胸が大きいって,昔はなかったよ。オヤジ丸出しの言い草で申しわけないけれど。
● 桐朋の演奏は,プロオケと比しても何ら遜色ないように思われた。が,桐朋の学生といえどもプロとして立っていくのは少数なのだろう。
若い人は割を喰っているなぁと思う。なにせ空きが出ないのだ。若い才能の行き場がないのだ。
入替戦を作ったらどうかね。あるいは,プロオケには40歳定年制を義務付けるとか。そんなことは無理だから,割りを喰うことになるんだが。
約2時間のコンサートが終了した直後の満足感は,他のものでは代替できません。この世に音楽というものが存在すること。演奏の才に恵まれた人たちが,時間と費用を惜しまずに技を磨いていること。その鍛錬の成果をぼくたちの前で惜しみなく披露してくれること。そうしたことが重なって,ぼくの2時間が存在します。ありがたい世の中に生きていると痛感します。 主には,ぼくの地元である栃木県で開催される,クラシック音楽コンサートの記録になります。
2018年11月30日金曜日
2018.11.24 第9回音楽大学オーケストラ・フェスティバル 東京藝術大学・武蔵野音楽大学
ミューザ川崎 シンフォニーホール
● 死ぬ間際に,どれかひとつだけ食べられるとなったら,何を選ぶだろうか。豚肉と野菜のハウスバーモントカレーか,永谷園のお茶漬け海苔か,納豆ご飯か,子供の頃に母親が作ってくれた醤油味の焼き飯か。寿司とかラーメンにはならないような気がするが,けっこう迷って決められない。
しかし,音楽のコンサートをひとつしか聴けないとなったら何を選ぶか。これに関してはほとんど迷いがない。このコンサートにすると思う。厳密には4回あるんだけれど,まとめてひとつということで。
● 音楽を専攻する若き学生たちの,1回に込める思いの質量の絶対的な大きさが,ヒリヒリするような緊張感に満ちた演奏を生む。
通し券を買っていたこともあるんだけど,4回全部を聴くことは,ぼくのような暇人にも難しい。が,今年は,たとえ行けない回があろうとも,通し券を買ってしまおうと思う。
● 8月26日にミューザに行ったので,音大フェスの通し券を購入。1回1,000円のところ,通し券だと750円になる。が,通し券用の席はあまりいいところは用意されていないようだ。
たぶん,1回券を買った方がトータルではお得かもしれない。ということを,前にも言ったような気がする。ま,気は心というやつで,通し券を買っておこうと思ったわけだから,それでかまわないと思っているんだが。
● さて,今日はその1日目。開演は午後3時。
客席はほぼ満席。空席はそれなりに見受けられたのだが,たぶんチケットは買ったものの,都合がつかなくなった人がそれなりの数いたのだろう。その程度の空席。
このフェスティバルは,首都圏の音大生が渾身をこめて演奏するし,わが国を代表する錚々たる指揮者が指揮をするし,会場はミューザと芸劇だ。演奏,指揮,会場と3拍子揃っているわけで,それでいてチケットはたったの1,000円なのだ。
とりあえずチケットは買っておくかという人がいて当然。万難を排して都合をつける価値がある演奏会だと思うのだが。
● ぼくの席は,ステージの(客席中央から見て)左側。1st.Vnの奏者の背中を見る感じのところ。指揮者の表情や動きはよく見える。
こういう席も悪くはない。というか,こういう席があるホールはそんなに多くない。ミューザの他にはサントリーホールくらいしか知らない。“みなとみらい”もそうだったか。
● 藝大はバルトーク「管弦楽のための協奏曲」。指揮は梅田俊明さん。
迫真の演奏というか。この曲はわりと演奏される機会が多いが,これほど真に迫った(という言い方は変か)演奏を過去に聴いたことがあったろうかと,記憶をまさぐってみた。うぅん,あったかもしれないのだが,記憶にはひっかかってこない。
● 何なんだろうかなぁ,空気をパリーンと凍らせるようなというか,呼吸をするのも許さないというかなぁ,そういう緊張がステージから発し,あっという間にホール全体を覆ってしまう。
音楽の楽しみ方って,揺り椅子でくつろぎながらというものではないんだよねぇ。いや,そういうのもあるんだろうけど,それだけじゃない。
そんな聴き方をしたんじゃ,こちらが呑まれてしまう。客席でこちらも演奏に対峙するというか,迎え撃たないと,“楽しむ”こともできない。
でもって,そういう聴き方を強いられることにも,ある種の快感がたしかに存在するのだと思わされる。
● 武蔵野音楽大学は「第九」を持ってきた。指揮は北原幸男さん。ソリストも当然,自前。合唱団も同じだろう。
難しさに満ちていると思われる緩徐楽章も,さすがは音大と思わせる仕上がり。こういうふうにやればいいのか。って,頭ではわかっても実際にやれるかというとね。
● おばちゃん(おじちゃん)とお婆ちゃん(お爺ちゃん)がいない合唱団は,それだけでとてもいい。何もしないで立っているうちから,見た目の美しさが違う。ということを,お爺ちゃんのぼくが言ってはいけないのだが。
「第九」を聴くのは今年2度目なんだけど,こういうのを聴くと,今年は「第九」はもういいかなぁと思ってしまう。満たされた。「第九」のシーズンはこれからなんだけど,今年はもういいか,と。
● ところで。北原さんは暗譜で振っていた。「第九」ではそれが普通なんだろうか。って,そんなことはないと思うんだけど。
とまれ。1日目から美味しかったよ。大満足で,千里の彼方にある自宅を目指したんでした。
● 死ぬ間際に,どれかひとつだけ食べられるとなったら,何を選ぶだろうか。豚肉と野菜のハウスバーモントカレーか,永谷園のお茶漬け海苔か,納豆ご飯か,子供の頃に母親が作ってくれた醤油味の焼き飯か。寿司とかラーメンにはならないような気がするが,けっこう迷って決められない。
しかし,音楽のコンサートをひとつしか聴けないとなったら何を選ぶか。これに関してはほとんど迷いがない。このコンサートにすると思う。厳密には4回あるんだけれど,まとめてひとつということで。
● 音楽を専攻する若き学生たちの,1回に込める思いの質量の絶対的な大きさが,ヒリヒリするような緊張感に満ちた演奏を生む。
通し券を買っていたこともあるんだけど,4回全部を聴くことは,ぼくのような暇人にも難しい。が,今年は,たとえ行けない回があろうとも,通し券を買ってしまおうと思う。
● 8月26日にミューザに行ったので,音大フェスの通し券を購入。1回1,000円のところ,通し券だと750円になる。が,通し券用の席はあまりいいところは用意されていないようだ。
たぶん,1回券を買った方がトータルではお得かもしれない。ということを,前にも言ったような気がする。ま,気は心というやつで,通し券を買っておこうと思ったわけだから,それでかまわないと思っているんだが。
● さて,今日はその1日目。開演は午後3時。
客席はほぼ満席。空席はそれなりに見受けられたのだが,たぶんチケットは買ったものの,都合がつかなくなった人がそれなりの数いたのだろう。その程度の空席。
このフェスティバルは,首都圏の音大生が渾身をこめて演奏するし,わが国を代表する錚々たる指揮者が指揮をするし,会場はミューザと芸劇だ。演奏,指揮,会場と3拍子揃っているわけで,それでいてチケットはたったの1,000円なのだ。
とりあえずチケットは買っておくかという人がいて当然。万難を排して都合をつける価値がある演奏会だと思うのだが。
● ぼくの席は,ステージの(客席中央から見て)左側。1st.Vnの奏者の背中を見る感じのところ。指揮者の表情や動きはよく見える。
こういう席も悪くはない。というか,こういう席があるホールはそんなに多くない。ミューザの他にはサントリーホールくらいしか知らない。“みなとみらい”もそうだったか。
● 藝大はバルトーク「管弦楽のための協奏曲」。指揮は梅田俊明さん。
迫真の演奏というか。この曲はわりと演奏される機会が多いが,これほど真に迫った(という言い方は変か)演奏を過去に聴いたことがあったろうかと,記憶をまさぐってみた。うぅん,あったかもしれないのだが,記憶にはひっかかってこない。
● 何なんだろうかなぁ,空気をパリーンと凍らせるようなというか,呼吸をするのも許さないというかなぁ,そういう緊張がステージから発し,あっという間にホール全体を覆ってしまう。
音楽の楽しみ方って,揺り椅子でくつろぎながらというものではないんだよねぇ。いや,そういうのもあるんだろうけど,それだけじゃない。
そんな聴き方をしたんじゃ,こちらが呑まれてしまう。客席でこちらも演奏に対峙するというか,迎え撃たないと,“楽しむ”こともできない。
でもって,そういう聴き方を強いられることにも,ある種の快感がたしかに存在するのだと思わされる。
● 武蔵野音楽大学は「第九」を持ってきた。指揮は北原幸男さん。ソリストも当然,自前。合唱団も同じだろう。
難しさに満ちていると思われる緩徐楽章も,さすがは音大と思わせる仕上がり。こういうふうにやればいいのか。って,頭ではわかっても実際にやれるかというとね。
● おばちゃん(おじちゃん)とお婆ちゃん(お爺ちゃん)がいない合唱団は,それだけでとてもいい。何もしないで立っているうちから,見た目の美しさが違う。ということを,お爺ちゃんのぼくが言ってはいけないのだが。
「第九」を聴くのは今年2度目なんだけど,こういうのを聴くと,今年は「第九」はもういいかなぁと思ってしまう。満たされた。「第九」のシーズンはこれからなんだけど,今年はもういいか,と。
● ところで。北原さんは暗譜で振っていた。「第九」ではそれが普通なんだろうか。って,そんなことはないと思うんだけど。
とまれ。1日目から美味しかったよ。大満足で,千里の彼方にある自宅を目指したんでした。
2018.11.23 宇都宮高等学校創立140周年記念演奏会
栃木県教育会館 大ホール
● この演奏会を知ったのは,今月の3日。東京フィルハーモニー交響楽団の演奏会が宇都宮市文化会館であって,そこにチラシが置かれていた。速攻で行くことに決め,その場でチケット(1,000円)を買った。
東武から西へはしばらく行っていない(JR駅から東武駅の間が宇都宮だと思っている)。そっち方面に用があるわけではもちろんないんだけど,久方ぶりに“そっち方面”の空気を吸ってみるか。
● 開演は午後2時。それなりに空席はあったのだが,当日券は取り扱っていないようだった。
第1部が合唱。第2部が管弦楽。いずれも宇都宮高校の音楽部OBによるもの。曲目は次のとおり。
木下牧子 鷗
伊勢正三 なごり雪
清水 脩 男声合唱組曲「月光とピエロ」
ベートーヴェン エグモント序曲
ベートーヴェン 交響曲第7番 イ長調
指揮は藍原寛治さん(合唱)と水越久夫さん(管弦楽)。2人ともOBであるのは言うまでもない。
● 合唱で聴きごたえがあったのはどうしたって「月光とピエロ」。中でも「秋のピエロ」。合唱ってぼくはあまり聴いたことがないんだけど,「月光とピエロ」は男声合唱の決定版だと,勝手に思っている。男声でしかこれは表現できないという意味で。
堀口大學の詞が染みてくる。ピエロに人生の悲しみを投影する。ピエロってたしかにそういう存在だ。道化が自ずと表出するものの中にそれがある。笑いの創出者が持つ,どうしようもないやるせなさのようなもの。
● さて,と。ぼくはベートーヴェンの7番を聴きに来た。“のだめ”効果があってか,ひと頃はだいぶ演奏されていた。が,最近は聴く機会が減ったような気がする。“のだめ”に関係なく,これは素晴らしい曲だから,これからもしばしば聴く機会には恵まれることは間違いないんだけど。
あと,コンサートで演奏される曲目って,わりと偏る傾向があるような。チャイコフスキーの5番が続いたり,ブラームスの4番が続いたり,ドヴォルザークの8番が続いたり。そういうことがけっこうある。
● ベートーヴェンの曲って,曲中のエレメントの数はそんなに多くはないように思える。その多くはない要素を使って,これほど巨大な建築物を構築できるのはなにゆえかと思うことがある。
その解答らしき話も聞いたことがある。フレーズの繰り返し,オフビート,っていう。たしかにそうなんだけど,どうもそれらは本質ではないように思われる。フレーズの繰り返しとオフビートだけでベートーヴェンの交響曲を作れるかという話だ。
● というわけで,不思議は残る。が,解けるはずのない不思議にかかずらっていても仕方がない。まずは曲を聴かないとね。
宇都宮高校は男子校なんだけども,各パートに女性がいた。栃響の定演で見かける顔が多かった。OBにも栃響の団員が何人かいるようだ。その栃響団員のOBがコンマスやパートの首席を務めていたし,助っ人陣も協力だった。
だからと言ってしまってはいけないのかもしれないが,最後まで安定感は崩れず。無難というか破綻がなかったというか。7番を聴いたなという気分になった。
● でも,この種の演奏会っていうのは,破綻があった方がむしろ面白かったりしない? しないか。ちょっとそうした面白さを期待してもいたんだが。
合唱にはそれがあったから,むしろ合唱の方が印象に残ってしまった感じなんだよなぁ。
● 観客の多くもOBとその家族なのだろう。が,高齢者が多かったようだ。
働き盛りのOBはなかなかね。今日も仕事だったかもしれないし,休日はゆっくり休みたいだろうし,家族のリクエストでどこかに行楽に出かけたかもしれないし。
同窓会とはそもそもそういうもの。同窓生の多くには関心を持たれないものだ。それでこれだけ客席が埋まったんだから,大したものだ。宇都宮高校の吸引力か。
● ともあれ,いきおい,高齢者が多くなる。ぼくもその一員に足を突っこみつつあるわけだけれども,彼らから感じたのは寂しさだった。高齢者は寂しかりけり。
その寂しさを安易に散らそうとしないで,寂しさの内に踏みとどまれるかどうか。もうすぐ同じ境遇に入る自分に言い聞かせるのはそこのところかなぁと思って,会場をあとにした。
● この演奏会を知ったのは,今月の3日。東京フィルハーモニー交響楽団の演奏会が宇都宮市文化会館であって,そこにチラシが置かれていた。速攻で行くことに決め,その場でチケット(1,000円)を買った。
東武から西へはしばらく行っていない(JR駅から東武駅の間が宇都宮だと思っている)。そっち方面に用があるわけではもちろんないんだけど,久方ぶりに“そっち方面”の空気を吸ってみるか。
● 開演は午後2時。それなりに空席はあったのだが,当日券は取り扱っていないようだった。
第1部が合唱。第2部が管弦楽。いずれも宇都宮高校の音楽部OBによるもの。曲目は次のとおり。
木下牧子 鷗
伊勢正三 なごり雪
清水 脩 男声合唱組曲「月光とピエロ」
ベートーヴェン エグモント序曲
ベートーヴェン 交響曲第7番 イ長調
指揮は藍原寛治さん(合唱)と水越久夫さん(管弦楽)。2人ともOBであるのは言うまでもない。
● 合唱で聴きごたえがあったのはどうしたって「月光とピエロ」。中でも「秋のピエロ」。合唱ってぼくはあまり聴いたことがないんだけど,「月光とピエロ」は男声合唱の決定版だと,勝手に思っている。男声でしかこれは表現できないという意味で。
堀口大學の詞が染みてくる。ピエロに人生の悲しみを投影する。ピエロってたしかにそういう存在だ。道化が自ずと表出するものの中にそれがある。笑いの創出者が持つ,どうしようもないやるせなさのようなもの。
● さて,と。ぼくはベートーヴェンの7番を聴きに来た。“のだめ”効果があってか,ひと頃はだいぶ演奏されていた。が,最近は聴く機会が減ったような気がする。“のだめ”に関係なく,これは素晴らしい曲だから,これからもしばしば聴く機会には恵まれることは間違いないんだけど。
あと,コンサートで演奏される曲目って,わりと偏る傾向があるような。チャイコフスキーの5番が続いたり,ブラームスの4番が続いたり,ドヴォルザークの8番が続いたり。そういうことがけっこうある。
● ベートーヴェンの曲って,曲中のエレメントの数はそんなに多くはないように思える。その多くはない要素を使って,これほど巨大な建築物を構築できるのはなにゆえかと思うことがある。
その解答らしき話も聞いたことがある。フレーズの繰り返し,オフビート,っていう。たしかにそうなんだけど,どうもそれらは本質ではないように思われる。フレーズの繰り返しとオフビートだけでベートーヴェンの交響曲を作れるかという話だ。
● というわけで,不思議は残る。が,解けるはずのない不思議にかかずらっていても仕方がない。まずは曲を聴かないとね。
宇都宮高校は男子校なんだけども,各パートに女性がいた。栃響の定演で見かける顔が多かった。OBにも栃響の団員が何人かいるようだ。その栃響団員のOBがコンマスやパートの首席を務めていたし,助っ人陣も協力だった。
だからと言ってしまってはいけないのかもしれないが,最後まで安定感は崩れず。無難というか破綻がなかったというか。7番を聴いたなという気分になった。
● でも,この種の演奏会っていうのは,破綻があった方がむしろ面白かったりしない? しないか。ちょっとそうした面白さを期待してもいたんだが。
合唱にはそれがあったから,むしろ合唱の方が印象に残ってしまった感じなんだよなぁ。
● 観客の多くもOBとその家族なのだろう。が,高齢者が多かったようだ。
働き盛りのOBはなかなかね。今日も仕事だったかもしれないし,休日はゆっくり休みたいだろうし,家族のリクエストでどこかに行楽に出かけたかもしれないし。
同窓会とはそもそもそういうもの。同窓生の多くには関心を持たれないものだ。それでこれだけ客席が埋まったんだから,大したものだ。宇都宮高校の吸引力か。
その寂しさを安易に散らそうとしないで,寂しさの内に踏みとどまれるかどうか。もうすぐ同じ境遇に入る自分に言い聞かせるのはそこのところかなぁと思って,会場をあとにした。
2018.11.22 ITALIAN VIOLIN GARDEN スペシャルコンサート
三井住友銀行東館 ライジング・スクエア1階 アース・ガーデン
● 代々木にあるカポラレ&オチャンド弦楽器専門店が主催する「イタリアン・ヴァイオリン展」が,三井住友銀行東館のアース・ガーデンで開催されている(11/21~23)。ストラディバリをはじめ,ガルネリやガダニーニなどがガラスケースに入って並べられている。
それに合わせて成田達輝さんの演奏会が組み込まれた。当初は21日だけの予定だったらしいのだが,22日も追加公演が行われることになった。その追加公演の方に行ってみることにした。
● このコンサートはTwitterで知った。東京大学フォイヤーヴェルク管弦楽団のツイートで。成田さんは,この楽団のトレーナーを務めているらしい。
ともあれ。そのツイートからリンクを辿って,予約申込みをしたというわけだった。
● 開演は午後6時半。入場無料。
会場は大手町の中心部にある。永代通りと日比谷通りが交差する角。その繁華な道路とはガラス(かなり分厚いガラスだが)で仕切られているだけだ。出入口からはコンサートを聴きに来たのではない人も出入りする。時間が時間ゆえ,あまり多くはないのだが。
要するに,ロビーコンサート的なものだ。っていうか,ロビーコンサートそのものだ。
● 演奏したのはヴィヴァルディ「四季」。奏者と客席の距離が近い。加えて,今回はすごい。何がすごいかというと,楽器がすごい。
主催者によると,成田さんと成田さん率いる合奏団が使用した楽器は次のようなもの。
Antonio Stradivari 1711 “Tartini”
Antonio Stradivari 1716 “Nachez”
Antonio Stradivari 1667 “Jenkins”
Guarneri del Gesu c.1730
Andrea Guarneri 1638
Antonio Stradivari 1699(Cello)
総額で65億円になるらしい。何だ,ハシタ金じゃん,と思いたいわけなのだが,思えるわけもない。65億円という金額には,1万円の札束が6,500束集まった額という以上のイメージは持ちにくい。
● 「名器の生音を是非ご体感ください」と言うのだけれど,いかな名器といえども,自分で音を発するわけではない。誰かが奏でる必要がある。たとえばそれがぼくだったりすれば,名器もクソもないという話になる。
名器は名手が奏でてこそ。問題はここからだ。名手が奏でるのであれば,特段ここまでの名器である必要もない。必要ないというのは,ぼくにとっては,ということね。ヤマハのYVN500S,いやもっと安い20万円か30万円の楽器であっても,ぼくの耳で音色の違いを聴き分けることはできない。
● おそらく,ぼくだけではないと思うんだよねぇ。名手の演奏で,その名手が使っている楽器が何かを目隠しして当てるなんてことは,当の名手でも無理なんじゃないか(いや,本人ならさすがに気がつくか)。
では,名器とは何かという話になる。ひとつだけハッキリしていることは,時の流れという篩にかけられて,ずっと生き残ってきた楽器だということだ。しかし,これでは何も言っていないに等しい。
● ヴィヴァルディ「四季」は大人しい曲だと思っていた。メロディーもたおやかだし,どちらかといえば女性的な曲だな,と。
成田さんが演奏する「四季」はそうじゃなかった。グングン踏み込んでいく。ヴィヴァルディがロックになることを知った。いやはやすごいものだと思って,CD(イ・ムジチ)を聴き直してみたら,CDもロックだった。
そっか,ヴィヴァルディはロックだったんだ。長らく気づかずに来た。今回のコンサートの収穫はこれ。
● 終演後,成田さんがあらためていくつかの楽器で同じ旋律を演奏してみせた。やはり,違いはわからない。記憶の保持時間が短くて,4つめの楽器で聴くときには1つめの音色を忘れているということもある。
言葉でも説明するんだけれども,まったく知らないものについては,どう説明されてもわからない。わかったふりをして聞いていたけどね。
● ガラス越しにこれらの名器を美術品,工芸品として鑑賞できる。さすがに時間が心配でゆっくりはできなかったけれども,たとえゆっくり見たにしても,ぼくには豚に真珠であったに違いない。
● 代々木にあるカポラレ&オチャンド弦楽器専門店が主催する「イタリアン・ヴァイオリン展」が,三井住友銀行東館のアース・ガーデンで開催されている(11/21~23)。ストラディバリをはじめ,ガルネリやガダニーニなどがガラスケースに入って並べられている。
それに合わせて成田達輝さんの演奏会が組み込まれた。当初は21日だけの予定だったらしいのだが,22日も追加公演が行われることになった。その追加公演の方に行ってみることにした。
● このコンサートはTwitterで知った。東京大学フォイヤーヴェルク管弦楽団のツイートで。成田さんは,この楽団のトレーナーを務めているらしい。
ともあれ。そのツイートからリンクを辿って,予約申込みをしたというわけだった。
● 開演は午後6時半。入場無料。
会場は大手町の中心部にある。永代通りと日比谷通りが交差する角。その繁華な道路とはガラス(かなり分厚いガラスだが)で仕切られているだけだ。出入口からはコンサートを聴きに来たのではない人も出入りする。時間が時間ゆえ,あまり多くはないのだが。
要するに,ロビーコンサート的なものだ。っていうか,ロビーコンサートそのものだ。
● 演奏したのはヴィヴァルディ「四季」。奏者と客席の距離が近い。加えて,今回はすごい。何がすごいかというと,楽器がすごい。
主催者によると,成田さんと成田さん率いる合奏団が使用した楽器は次のようなもの。
Antonio Stradivari 1711 “Tartini”
Antonio Stradivari 1716 “Nachez”
Antonio Stradivari 1667 “Jenkins”
Guarneri del Gesu c.1730
Andrea Guarneri 1638
Antonio Stradivari 1699(Cello)
総額で65億円になるらしい。何だ,ハシタ金じゃん,と思いたいわけなのだが,思えるわけもない。65億円という金額には,1万円の札束が6,500束集まった額という以上のイメージは持ちにくい。
三井住友銀行東館 |
名器は名手が奏でてこそ。問題はここからだ。名手が奏でるのであれば,特段ここまでの名器である必要もない。必要ないというのは,ぼくにとっては,ということね。ヤマハのYVN500S,いやもっと安い20万円か30万円の楽器であっても,ぼくの耳で音色の違いを聴き分けることはできない。
● おそらく,ぼくだけではないと思うんだよねぇ。名手の演奏で,その名手が使っている楽器が何かを目隠しして当てるなんてことは,当の名手でも無理なんじゃないか(いや,本人ならさすがに気がつくか)。
では,名器とは何かという話になる。ひとつだけハッキリしていることは,時の流れという篩にかけられて,ずっと生き残ってきた楽器だということだ。しかし,これでは何も言っていないに等しい。
● ヴィヴァルディ「四季」は大人しい曲だと思っていた。メロディーもたおやかだし,どちらかといえば女性的な曲だな,と。
成田さんが演奏する「四季」はそうじゃなかった。グングン踏み込んでいく。ヴィヴァルディがロックになることを知った。いやはやすごいものだと思って,CD(イ・ムジチ)を聴き直してみたら,CDもロックだった。
そっか,ヴィヴァルディはロックだったんだ。長らく気づかずに来た。今回のコンサートの収穫はこれ。
● 終演後,成田さんがあらためていくつかの楽器で同じ旋律を演奏してみせた。やはり,違いはわからない。記憶の保持時間が短くて,4つめの楽器で聴くときには1つめの音色を忘れているということもある。
言葉でも説明するんだけれども,まったく知らないものについては,どう説明されてもわからない。わかったふりをして聞いていたけどね。
● ガラス越しにこれらの名器を美術品,工芸品として鑑賞できる。さすがに時間が心配でゆっくりはできなかったけれども,たとえゆっくり見たにしても,ぼくには豚に真珠であったに違いない。
2018年11月19日月曜日
2018.11.18 第20回 鹿沼市民歌の集い
鹿沼市民文化センター 大ホール
● この催事を知ったのは9月16日の鹿沼フィルハーモニー管弦楽団の定演を聴きに行ったとき。「第九」の全楽章を演奏するらしい。ソプラノは鹿沼出身の大貫裕子さん。
入場無料だが整理券が必要。ということは,かなりの聴衆が集まるのだろう。鹿沼市民の鹿沼市民による鹿沼市民のための催事なのだろう。
となれば,部外者は遠慮しておくのが吉だろう。整理券を取るために鹿沼まで往復するのも億劫だ。
● と思って静観するつもりだったんだけど,惹かれるものがあった。惹かれるものがあるのであれば,そこに素直になった方がいいだろう。
というわけで,某日,整理券を取りに鹿沼に行ってきた。鹿沼市立図書館でもらってきましたよ。もちろん,1枚だけね。
● わざわざ取りに行かなくても,当日も整理券を配布しているのではないかとも思った。のだけど,これは事前に取っておいて正解だった。
当日,整理券を配布している様子はなかったし,会場はほぼ満席だった。空いている席もなくはなかったけれども,整理券は取ったものの都合で来れなくなった人がいるのだなと思う程度の空席しかなかった。
● 開演は午後1時半。内容は2部構成で,「第九」は第2部。大貫裕子さんのソプラノで「第九」を聴けますよ,と。しかも,無料でね。鹿沼市民でもないのに申しわけない。
聴衆のごく一部に,どうしようもないのがいた。が,部外者の自分がそれに対してどうこう言う筋合いはない。筋合いがないというか,その資格がない。そのまま受けとめておく。
● 管弦楽のメンバーの多くはジュニアオケの団員かと思われる。鹿沼西中と東中に管弦楽部があることの効用は絶大で,それなしにこの「第九」は成立しない。
加えて,高校生や中学生が「第九」を演奏することにも少し驚く。少ししか驚かないのは,ジュニアの定演でこれまで演奏してきた曲目を知っているからだ。マーラーやブルックナーをやってのけるのだから,「第九」をやっても不思議はない。
● 緊張感がピンと張りつめた見事な「第九」だった。中でも第2楽章の木管(特にフルート)の歯切れの良さと,緩徐楽章のヴィオラの艶っぽさ。
第4楽章の,あの有名な旋律をチェロ・コントラバス→ヴィオラ→ヴァイオリンと受け渡し,最後は管弦楽全体で歌いあげるところが,この曲の第一のハイライトかと思うんだけど,そこもスムーズ。
中小の事故はあった。が,それなしに「第九」を渡りきったアマチュアオーケストラの演奏をまだ聴いたことがない。仕方がない。いや,本当にこれは仕方がないのだと思う。
● 指揮者からすると,「第九」で最も表現に気を遣うのは緩徐楽章ではないかと思っている。ちょっと気を抜くと散らかりやすい。散漫になる。
木管が歌わなければ話にならないのだが,かといって響かせすぎは致命傷だ。どこまでの音量にとどめおくか。あまたの先例が録音されてはいるものの,現場では悩むことになるのではないか。
奏者も何度も「第九」を経験しているわけではない。初めての人もいるだろう。加減の仕方を経験的にわかっているわけではないだろう。
● つまり,ですね。ん???と思ったところもあって,それは緩徐楽章に集中していた。聞こえすぎもあったし,逆にちょっと萎縮しちゃったかなと思うところもあって。
“緩徐”の演奏はそもそもが難しいのだろうけど。ぼくには聞こえすぎでも,いやあれくらいがちょうどいいと思う人もいるだろうし。考えだすとキリがない。
● その指揮は益子和巳さん。東中オーケストラ部の顧問の先生。最も異論の出ない人選だと思うのだが,この人,教師としての仕事の他に,ジュニアオケの指導やこうした催事にもかりだされて,尋常ならざる活躍ぶり。
たぶん,大学で指揮法を習ったわけではないと思う。自己流で身につけたものだろう。暗譜で振っていた。ぼく一個は暗譜がいいとも思わないのだが,うぅん,尋常ならざる精進ぶりだな。おろらく,本人はそうは思っていないと思うんだが。
● ソリストと合唱団は第4楽章の前に登壇。最初からいるのが一番いい。のだが,それはなかなか。第3楽章の前に入るパターンが多いんだろうか。
第3楽章から第4楽章へは間をおかず,アタッカ気味に入ってもらうのが,自分としては好みだ。対照の妙というか,唐突な変化というか,何が起きたのだという驚きというか,そういうものを味わいたい。だから,第3楽章の前には登壇していてもらいたいのだけど。
● ともあれ,第4楽章。管弦楽の舞踊を経て,バリトンが一段落してから,ソリスト4人が立って,“さて,アテナイ人諸君,君たちが私の告発者たちによって・・・・・・”と語りかけるところ(→ 嘘)で,少し涙腺が緩む。
「第九」が日本において年末の風物詩になった由縁はぼくの知るところではないし,「第九」も数ある管弦楽曲のひとつに過ぎないと思おうとするんだけど,やはり「第九」は特別なのかもしれない。どんな由縁であるにせよ,毎年,年末になると日本のソチコチで演奏されるのは,「第九」だからこそ,か。
● ソリスト陣は大貫さんのほか,城守香(アルト),安藤純(テノール),坂寄和臣(バリトン)の4人。今回のこの催しは市制70周年記念という冠がつく。それゆえの豪華布陣だったかもしれない。
その豪華布陣で客席も盛りあがった。半日つぶして整理券を取りに行ってよかった。
● この催事を知ったのは9月16日の鹿沼フィルハーモニー管弦楽団の定演を聴きに行ったとき。「第九」の全楽章を演奏するらしい。ソプラノは鹿沼出身の大貫裕子さん。
入場無料だが整理券が必要。ということは,かなりの聴衆が集まるのだろう。鹿沼市民の鹿沼市民による鹿沼市民のための催事なのだろう。
となれば,部外者は遠慮しておくのが吉だろう。整理券を取るために鹿沼まで往復するのも億劫だ。
● と思って静観するつもりだったんだけど,惹かれるものがあった。惹かれるものがあるのであれば,そこに素直になった方がいいだろう。
というわけで,某日,整理券を取りに鹿沼に行ってきた。鹿沼市立図書館でもらってきましたよ。もちろん,1枚だけね。
● わざわざ取りに行かなくても,当日も整理券を配布しているのではないかとも思った。のだけど,これは事前に取っておいて正解だった。
当日,整理券を配布している様子はなかったし,会場はほぼ満席だった。空いている席もなくはなかったけれども,整理券は取ったものの都合で来れなくなった人がいるのだなと思う程度の空席しかなかった。
● 開演は午後1時半。内容は2部構成で,「第九」は第2部。大貫裕子さんのソプラノで「第九」を聴けますよ,と。しかも,無料でね。鹿沼市民でもないのに申しわけない。
聴衆のごく一部に,どうしようもないのがいた。が,部外者の自分がそれに対してどうこう言う筋合いはない。筋合いがないというか,その資格がない。そのまま受けとめておく。
● 管弦楽のメンバーの多くはジュニアオケの団員かと思われる。鹿沼西中と東中に管弦楽部があることの効用は絶大で,それなしにこの「第九」は成立しない。
加えて,高校生や中学生が「第九」を演奏することにも少し驚く。少ししか驚かないのは,ジュニアの定演でこれまで演奏してきた曲目を知っているからだ。マーラーやブルックナーをやってのけるのだから,「第九」をやっても不思議はない。
● 緊張感がピンと張りつめた見事な「第九」だった。中でも第2楽章の木管(特にフルート)の歯切れの良さと,緩徐楽章のヴィオラの艶っぽさ。
第4楽章の,あの有名な旋律をチェロ・コントラバス→ヴィオラ→ヴァイオリンと受け渡し,最後は管弦楽全体で歌いあげるところが,この曲の第一のハイライトかと思うんだけど,そこもスムーズ。
中小の事故はあった。が,それなしに「第九」を渡りきったアマチュアオーケストラの演奏をまだ聴いたことがない。仕方がない。いや,本当にこれは仕方がないのだと思う。
● 指揮者からすると,「第九」で最も表現に気を遣うのは緩徐楽章ではないかと思っている。ちょっと気を抜くと散らかりやすい。散漫になる。
木管が歌わなければ話にならないのだが,かといって響かせすぎは致命傷だ。どこまでの音量にとどめおくか。あまたの先例が録音されてはいるものの,現場では悩むことになるのではないか。
奏者も何度も「第九」を経験しているわけではない。初めての人もいるだろう。加減の仕方を経験的にわかっているわけではないだろう。
● つまり,ですね。ん???と思ったところもあって,それは緩徐楽章に集中していた。聞こえすぎもあったし,逆にちょっと萎縮しちゃったかなと思うところもあって。
“緩徐”の演奏はそもそもが難しいのだろうけど。ぼくには聞こえすぎでも,いやあれくらいがちょうどいいと思う人もいるだろうし。考えだすとキリがない。
● その指揮は益子和巳さん。東中オーケストラ部の顧問の先生。最も異論の出ない人選だと思うのだが,この人,教師としての仕事の他に,ジュニアオケの指導やこうした催事にもかりだされて,尋常ならざる活躍ぶり。
たぶん,大学で指揮法を習ったわけではないと思う。自己流で身につけたものだろう。暗譜で振っていた。ぼく一個は暗譜がいいとも思わないのだが,うぅん,尋常ならざる精進ぶりだな。おろらく,本人はそうは思っていないと思うんだが。
● ソリストと合唱団は第4楽章の前に登壇。最初からいるのが一番いい。のだが,それはなかなか。第3楽章の前に入るパターンが多いんだろうか。
第3楽章から第4楽章へは間をおかず,アタッカ気味に入ってもらうのが,自分としては好みだ。対照の妙というか,唐突な変化というか,何が起きたのだという驚きというか,そういうものを味わいたい。だから,第3楽章の前には登壇していてもらいたいのだけど。
● ともあれ,第4楽章。管弦楽の舞踊を経て,バリトンが一段落してから,ソリスト4人が立って,“さて,アテナイ人諸君,君たちが私の告発者たちによって・・・・・・”と語りかけるところ(→ 嘘)で,少し涙腺が緩む。
「第九」が日本において年末の風物詩になった由縁はぼくの知るところではないし,「第九」も数ある管弦楽曲のひとつに過ぎないと思おうとするんだけど,やはり「第九」は特別なのかもしれない。どんな由縁であるにせよ,毎年,年末になると日本のソチコチで演奏されるのは,「第九」だからこそ,か。
● ソリスト陣は大貫さんのほか,城守香(アルト),安藤純(テノール),坂寄和臣(バリトン)の4人。今回のこの催しは市制70周年記念という冠がつく。それゆえの豪華布陣だったかもしれない。
その豪華布陣で客席も盛りあがった。半日つぶして整理券を取りに行ってよかった。
2018年11月12日月曜日
2018.11.03 東京フィルハーモニー交響楽団演奏会「ブラームスはお好き?」Vol.2
宇都宮市文化会館 大ホール
● 地元出身の大井剛史さんが東京フィルハーモニー交響楽団を指揮して行う,ブラームス・チクルス(ではない)のこれが2回目。全4回の予定。年に1回だから,あと2年。
開演は午後6時。ぼくのチケットはB席で2,000円。このホールでぼくが好んで座る席がこうした指定席のコンサートではB席になることを以前に知って,オッと思った。今回は2階の左翼席なんだけれども,オーケストラの全体が見えて,ぼくはわりと好きなのだ。特に,管楽器の奏者がまるごと見えるのは,何気に嬉しいのだ。
● 曲目は次のとおり。
ハンガリー舞曲第3番
ピアノ協奏曲第2番 変ロ長調
交響曲第2番 ニ長調
● ピアノ協奏曲のソリストは横山幸雄さん。彼の特徴は,タメを作らないでサッと演奏に入るところ。ピアノの前に着座するやいなや,鍵盤に指をおろす。電光石火。もちろん,独奏曲での話。協奏曲では待ち時間ができるのは当然ね。
舞台袖にいる間にガッとテンションを高めているんでしょうね。着座してから間をおいてしまうと,せっかく高めたテンションが下がってしまうのかもしれない。
だから,彼に付いていくためには,こちらも予めテンションを高めておかなければならない。聴く体勢を整えておくこと。
● オール・ブラームスでオーケストラは東京フィルハーモニー交響楽団なんだから,ぼくに何の文句もあろうはずがない。2,000円でこれが聴けることをしみじみありがたいと思うだけだ。
団員の平均年齢がだいぶ若いように思う。新陳代謝が正常なのだろうか。あるいは,過剰なんだろうか。
● 大井さんの端正な指揮がオーケストラを導いていく。指揮者を大きくカラヤンタイプとバーンスタインタイプに分けるとすれば(無茶な分け方だが),彼は明らかにカラヤンタイプ。
動きに過剰感がないのはとてもいいと思う。指揮者はパフォーマーでもあるとは思うんだけど,パフォーマンスが前面に出てしまうのは,パフォーマーとしてもいかがなものか。指揮者は自らの意図をオーケストラに伝えればいいのだ。伝わればそれでいい。
● ところがね,今日は雑念が尽きることなく湧いてきて。これまでの失敗や,人には言えない恥ずかしすぎる振舞が,次から次へと。
“ギャッと叫んでロクロ首”的な衝動にひたすら耐えていた。ので,終演後はいったい自分は何を聴いたのかという感じで。妙に疲れてしまって。
こんなこともあるんだな。いや,こんなのは初めてなんだけど,いったい何がどうなったんだろうかなぁ。
● 地元出身の大井剛史さんが東京フィルハーモニー交響楽団を指揮して行う,ブラームス・チクルス(ではない)のこれが2回目。全4回の予定。年に1回だから,あと2年。
開演は午後6時。ぼくのチケットはB席で2,000円。このホールでぼくが好んで座る席がこうした指定席のコンサートではB席になることを以前に知って,オッと思った。今回は2階の左翼席なんだけれども,オーケストラの全体が見えて,ぼくはわりと好きなのだ。特に,管楽器の奏者がまるごと見えるのは,何気に嬉しいのだ。
● 曲目は次のとおり。
ハンガリー舞曲第3番
ピアノ協奏曲第2番 変ロ長調
交響曲第2番 ニ長調
● ピアノ協奏曲のソリストは横山幸雄さん。彼の特徴は,タメを作らないでサッと演奏に入るところ。ピアノの前に着座するやいなや,鍵盤に指をおろす。電光石火。もちろん,独奏曲での話。協奏曲では待ち時間ができるのは当然ね。
舞台袖にいる間にガッとテンションを高めているんでしょうね。着座してから間をおいてしまうと,せっかく高めたテンションが下がってしまうのかもしれない。
だから,彼に付いていくためには,こちらも予めテンションを高めておかなければならない。聴く体勢を整えておくこと。
● オール・ブラームスでオーケストラは東京フィルハーモニー交響楽団なんだから,ぼくに何の文句もあろうはずがない。2,000円でこれが聴けることをしみじみありがたいと思うだけだ。
団員の平均年齢がだいぶ若いように思う。新陳代謝が正常なのだろうか。あるいは,過剰なんだろうか。
● 大井さんの端正な指揮がオーケストラを導いていく。指揮者を大きくカラヤンタイプとバーンスタインタイプに分けるとすれば(無茶な分け方だが),彼は明らかにカラヤンタイプ。
動きに過剰感がないのはとてもいいと思う。指揮者はパフォーマーでもあるとは思うんだけど,パフォーマンスが前面に出てしまうのは,パフォーマーとしてもいかがなものか。指揮者は自らの意図をオーケストラに伝えればいいのだ。伝わればそれでいい。
● ところがね,今日は雑念が尽きることなく湧いてきて。これまでの失敗や,人には言えない恥ずかしすぎる振舞が,次から次へと。
“ギャッと叫んでロクロ首”的な衝動にひたすら耐えていた。ので,終演後はいったい自分は何を聴いたのかという感じで。妙に疲れてしまって。
こんなこともあるんだな。いや,こんなのは初めてなんだけど,いったい何がどうなったんだろうかなぁ。
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