2019年3月5日火曜日

2019.03.03 オーケストラ・ダスビダーニャ 第26回定期演奏会

東京芸術劇場 コンサートホール

● オーケストラ・ダスビダーニャの名前は知っていた。何せ,Wikipediaにも載っているのだ(書いてるのは,たぶん,中の人だと思うのだが)。「旧ソ連の作曲家ドミートリイ・ショスタコーヴィチの曲を演奏することを目的に結成された。ショスタコーヴィチの曲を演奏することを目的に結成された専門オーケストラは他にLondon_Shostakovich_Orchestraが存在するが,アマチュア団体としては世界唯一であり,演奏曲目数もダスビダーニャのほうが多い」。
 ロシア音楽に特化して演奏している団体はいくつかあるけれども,ショスタコーヴィチに特化しているのは,Wikipediaの説明を信用するなら,世界に2つしかなく,そのひとつが日本にあるということになる。

● が,聴くのは今回が初めて。人と人との出逢いもそうだけれども,オーケストラとの出逢いにおいても,出逢うべき時期というのがあるのだろう。
 ぼくにとっては,この楽団と出逢うべき時期は今だったのだということ。これより早ければ早すぎたのだし,遅ければ遅すぎたのだ。
 そういう偶然の計らいをぼくはわりと信頼している。開演3秒後に,なんでもっと早くに聴いてなかったのかと思わぬでもなかったが,いやこのタイミングでよかったのだと思い直した。

● 開演は午後2時。チケットは2,000円。早めに会場に着いて,当日券を購入。2階中央の3列目というかなりいい席が空いていた。
 曲目は次のとおり。指揮は長田雅人さん。
 映画音楽《マクシム三部作》組曲
 交響曲第2番「十月革命に捧ぐ」
 交響曲第6番
 長田さんはこの楽団の結成以来の常任指揮者であるらしい。ショスタコーヴィチの楽曲を最も数多く指揮した指揮者ということになるのかもしれない。

● いずれも,この楽団の演奏を聴くのでなければ,めったに聴く機会のないものだ。特に《マクシム三部作》はこの楽団が再度取りあげるのでもない限り,この先も聴けることはないだろう。
 で,これが度肝を抜くものだった。中江早希さんが客席からステージに上がって,短く歌って,パントマイムを繰り広げて去るという演出は,当然,この楽団の創案だろうけれども,じつに効果的。
 中江さんの演技上手(?)もさることながら,効果あらしめる場をこの楽団の演奏が作れていたということだ。この演奏あればこそ,中江さんが際立つ。

● ショスタコーヴィチについて語れるほど,ぼくは彼の楽曲を聴いたわけではない。したがって,素人の無責任な推測になるのだが,ショスタコーヴィチの才能は,交響曲や弦楽四重奏曲よりも,むしろ映画音楽の方に奔放に発揮されているのかもしれない。本道よりも脇道の方が,ショスタコーヴィチらしさに満ちているというか。
 チャイコフスキーだって交響曲よりもバレエ音楽の方に彼の真骨頂が見られると思われるし,ブラームスにしたって,さて4つの交響曲に彼を閉じ込めていいのか,という疑問もある。

● 第2番には合唱が入る。“オーケストラと歌うロシア合唱団”と“東京トリニティコール”という団体が担った。マーラーもびっくりという珍妙な楽器(?)も使われている。
 単一楽章のこの曲を交響曲といっていいのかどうかは,交響曲の定義による。で,交響曲といって何ら差し支えない。
 ぼくとしては《マクシム三部作》で抜かれた度肝を取り戻す前にこの曲を聴いてしまったものだから,正直,よく憶えていないというか,わりと印象がぼんやりしている。申しわけない。

● 休憩をはさんで,第6番。3楽章からなる。たしかに,???という印象を残す曲だと思った。
 が,そういうことよりも,この楽団の演奏が素晴らしい。ステージから発散されるエネルギーが並ではない。その演奏に圧倒されて,演奏を聴いて曲を聴いていなかった可能性がある。
 この楽団の力量については,これ以上はひと言も語る必要がない。聴けばわかる。

● 演奏は録音されていた。それも,せっかくだから録っておきましょというのではなく,カチッと録音している。
 次の演奏会で販売されるのだろう。つまり,今回も過去の演奏を録音したCDが販売されていた。3,500円という強気の値付けも,この楽団なら許されるかもしれない。実際,購入している人がけっこういた。
 ぼくも14番の録音を探した。ショスタコーヴィチ(交響曲)のCDはひととおり手元にはあるんだけど,14番の音質に少し不満があった。が,14番だけはないのだった。この曲だけはまだ演奏していないらしい。

● プログラム冊子もB5版で本文38ページという読みごたえがあるもの。同人誌の趣がある。
 曲目解説が複数載っている。頭のいい勉強家が何人もいるらしい。ひょっとして,東大オケのOB・OGもいるんだろうかと勘ぐったほどだ。
 が,巻末の“ダスビの日記帳”という,コラムというのか雑文というのか,そういうものを集めた数ページがあって,これが面白い。文才豊かな人もいるわけだ。

● この中で特に目を惹いたのが2つ。ひとつは指揮者の長田さんが書いた「奇妙であると謂う感触」というタイトルの,これは何というんだろうか,掌編小説のようでもあり,脳内妄想をそのまま文字化したようでもあり。
 舞台は学生運動華やかなりし頃の東京だろうが,別に東京でなくてもいい。不思議なテイストだ。音楽にたとえれば,ドビュッシーの小品の中にこんなテイストのものがあったような。

● もうひとつは,団員の1人が自身のウツ体験を綴ったもの。こういう体験を経験していない人に伝えようとすると,どうしてもくどくなる。言葉が過剰になる。そこを免れているだけでも大したものだ。
 彼は優秀で責任感旺盛なビジネスマンだったようだ。その優秀さが自分に牙を向けてしまったという側面があるかもしれない。
 仕事やお金は命を賭すほどのものではない。それは絶対にそうなのだが,命を賭していると見えるようにふるまっているヤツが幅を利かすという厄介な状況はある。

● ショスタコーヴィチというと「二重言語」や「純音楽を装った交響曲に隠されているメッセージ」の問題がどうしたって出てきてしまう。これをどう取り扱うか。ぼくの目下のスタンスは,あまり深入りするな,というものだ。
 『ショスタコーヴィチの証言』についていえば,ヴォルコフは余計なことをしてくれたと思っている。第5番の解釈で“反体制の暗号が散りばめられている”などと講釈されると,少しくウンザリする。大昔にあった,万葉集を古朝鮮語で読むというのを思いだしてしまう。

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