東京文化会館 大ホール
● 7年連続7回目の拝聴。もう今年でやめようかと思ったことは以前にもあった。が,今回もこうして聴きに来た。
っていうか,チケットは7月に販売開始されるんだけれども,その発売初日に“ぴあ”で買っている。要するに,聴く気まんまんだったわけだ。
● 過去6回のうち,4回はヤフオクでチケットをゲットしている。大晦日のことなので,7月時点では行けるかどうかわからない。不確定要素が多い。ので,12月になってからヤフオクでという流れ。正規料金の倍を出してC席を買っていた。
あとの2回は正規にA席を購入した。やはり12月近くになってからのことなので,その時点ではS席とA席しか残っていないのだ。
● が,今回は発売初日にC席を買ったよ,と。行けなけりゃ行けないでいい,行きたいのならチケットは買っておけ。
4階右翼席の1列目。C席はおおよそ4階の左翼・右翼席が充てられている。ここは2列あるんだけれども,1列と2列では天国と地獄ほども違う。両方とも経験して,そう思う。
昨年は3階席の3列目だった。ここはA席になる。それをモノサシにすると4階右翼の1列目がC席なのは,すこぶるお得だ(この演奏をこの席で5千円で聴けるのは,ほとんどタダに近い)。ゆえに狙い目。ただし,発売初日の,しかも早い時間帯に売れてしまうのじゃないか。
● というわけで,ぼくのチケットは5千円。開演は午後1時。
指揮は今年も小林研一郎さん。管弦楽は「岩城宏之メモリアル・オーケストラ」。今日1日だけの臨時編成のオーケストラ。コンマスは篠崎史紀さん。この布陣は,ぼくが聴きはじめた7年前からまったく変わっていない。
● この演奏を聴く度に思う。自分はこの演奏を聴くに値する人間だろうか。この演奏を聴いていいだけの1年間を過ごしてきただろうか。
この問いにイエスと答えられたためしはない(自分だけではないと思いたい)。そんなヤツは家でCDでも聴いとけ,とわれながら思わぬでもない。のだが,年に一度の分に過ぎた贅沢を自分に許してもよかろう,と,ウダウダと考えている。
● だが,今回はどうも乗れなかった。29日,30日と都内のホテルで過ごした。自宅よりもよほど高価で寝心地のいいベッドだったにもかかわらず,どうも眠りが浅かった。少しボーッとしている。
加齢の然らしめるところかと思うけれども,この状態が4番が終わるまで続いた。ステージと自分の間に一枚の幕が下がっているような感じ。隔靴掻痒感。何度も聴いているはずなのに,初めて聴く曲のような。
4番が終わったあと45分の休憩があったのだが,それでやっと幕がはずれてくれた気がした。
● そのような状態だったのだが,1番は9つの交響曲の中で最もたおやかというか,女性的というか。ベートーヴェンって両性具有だったのかと思ったりね。
3番は葬送行進曲が染みた。自分の葬儀のとき,この楽章を流してくれるように遺言しておこうか。いや待て,自分は死んでいるんだから,聴くことはできないじゃないか。それ以前に,自分の葬儀があるかどうかもわからないではないか。孤独死になるやもしれぬじゃないか。
● 三枝成彰の今回のトークは,長調と短調について。といっても,どちらかというとベートーヴェンの以前と以後の作曲家の話の方がメインだった。
ベートーヴェン以前の作曲家は職人で,世襲される職業だった。作曲は技術だった。だから,たくさんの曲を作ることができた。
ベートーヴェン以後は,作曲は芸術になった。定型をはずして,今までになかったものを生みだすことが重視されるようになった。ベートーヴェン以後,父親も作曲家だったという作曲家はひとりもいない。聴衆も先が読めない音楽になった(われわれはCDで聴けるからその先がどうなるかを知っているけれども,当時の聴衆はそうはいかない)。それがロマン派の特徴。ま,そういう話だった。
● この演奏会では,9番を別にすれば,5番と7番が熱演になることが多い。曲の性質がそうさせるのかもしれないけれど。
で,その5番だ。45分の休憩でこちらの体調も整った。どんな演奏をしてくれるのか。
やってくれるものだ。アタッカでなだれこむ第4楽章冒頭の爆発。圧倒的な爆発なのに,音がいささかも乱れない。はぁぁぁと思うしかなかった。
● 6番は曲そのものがあまり面白くない。というと,自らの未熟を晒すようなものかもしれない。しかし,面白くない。
● このあと90分の休憩。これがまずかった。アメ横の「モツ焼き大統領」でハイボールを飲んでしまったのだ。しかも,ダブルで2杯。われながら何をしているのかと思うんだが。
ほんと,何をしているんだろう。こんなことをしてたら,このあとの7~9番は捨てたも同然ではないか。いかん,いかん。
● 会場のロビーでもワインやビールが売られている。このコンサートの聴衆は日本全国からやってくる(のだと思う)。S席は2万円なのだ。オペラほどではないにしても,会場には華がある。“そのコンサートを聴きに来ている私”を演出するのに,華やかな人たちがごった返すロビーで,ワイングラスを傾けたくなる気持ちはわからないでもない。
けれど,やめておいた方がいいと思う。ここは演奏に酔う場であって,アルコールはその妨げにしかならないだろう。
と,先の45分間の休憩のときに思ったのだよ。にもかかわらず・・・・・・よりによって「モツ焼き大統領」だよ。
● それでも,7番は何とかアルコールを退けて聴けたかもしれない。いや,ダメだったか。素晴らしい演奏だ。それはわかる。
が,わかったその先に自分がいない。ふぬけている。ダメだ,ダメだ。アルコールは全然ダメだ。
● 8番になる頃は,アルコールが暴れだした。ベートーヴェンの中でも8番は独特の味わいがあるのだ。タッタラタララァン,タララララララン,なのだ。
「モツ焼き大統領」のおかげで,それが台なしになった。しかも,言っちゃなんだけど,ここのモツ焼き,さして旨いわけでもないぞ。って,自分が悪い。何といっても,自分が悪い。
● 45分の休憩のあと,9番。合唱は例年どおり武蔵野合唱団の皆さん。ソリストも昨年と同じ。ソプラノは今年は市原愛さん,アルトは山下牧子さん,テノールは笛田博昭さん,バリトンは青戸知さん。
この時間帯に声を出すのは,なかなか大変だろうと思う。のだが,結果はそんなものを吹っ飛ばしてくれる。
オケのスタミナは何ごとか。憑かれたように,飛ばしに飛ばす。飛ばすけれども,精緻さが損なわれることはみじんもない。
クソッたれが。飲んでさえいなければ。
● いや,飲んで神経を鈍くさせたうえでの,音楽の楽しみ方もあると思うのだ。いろんな聴き方があっていいのだ。
まるでステージと対峙するような,あるいは演奏を批評しようとするかのような,ギラギラとした聴き方だけが音楽の聴き方ではないのだ。神経を研ぎ澄ませるばかりが能じゃない。少し酔ってユラユラと聴くのもありなのだ。
ただ,それをするには,ぼくはいささか以上に貧乏性のようだ。そんな聴き方は死ぬまでできないだろう。
● つかぬことを伺いたいのだが,この演奏会って練習はどうしてるんだろう。まさかGPはやらないと思うんだが,年末の忙しい時期に,練習の時間が取れるんだろうか。かといって,ぶっつけ本番でもないと思うんだけど。少なくとも合唱とは合わせなくちゃいけないだろう。
当日の午前中にすべての練習をやるんだろか。とすると,合唱団は数十分の出番のために,朝から深夜まで拘束されているのか。
● という次第だった。こうして2017年は終わったのだ。まるで今年の自分を象徴するような凡ミスを繰りだしてしまったのだった。
クラシック音楽を生で聴くのが,ささやかな趣味。今年は65回。ひと頃よりだいぶ減っているが,これでもまだ多すぎると自分では思っている。
アマオケ中心なんだけど,どうしても東京に引き寄せられる。が,来年はできるだけ地元(栃木)に沈潜したい。
聴きたい欲を100%は満たさないように自分を抑えたい。ここでも腹八分目がいい。貪ってはいけない。
約2時間のコンサートが終了した直後の満足感は,他のものでは代替できません。この世に音楽というものが存在すること。演奏の才に恵まれた人たちが,時間と費用を惜しまずに技を磨いていること。その鍛錬の成果をぼくたちの前で惜しみなく披露してくれること。そうしたことが重なって,ぼくの2時間が存在します。ありがたい世の中に生きていると痛感します。 主には,ぼくの地元である栃木県で開催される,クラシック音楽コンサートの記録になります。
2017年12月31日日曜日
2017.12.24 第35回宇高・宇女高合同演奏会(第九「合唱」演奏会)
宇都宮市文化会館 大ホール
● この演奏会を初めて聴いたのは第27回。その後,30回,32回,34回と聴いている。ほぼ1年おき。
今回は初めて2年連続で聴いたんだけど,そのことに気づいたのはつい先程だ。今回も2年ぶりだと思っていた。つまり,前回(第34回)の記憶がスッポリと抜け落ちている。何回か聴いていると,記憶が混ざってしまうのだと思う。
困ったことだけど,仕方がないんでしょうね。たぶん,こういうことって,誰にでもあるんだと思う。だから,人の記憶ってあまりあてにならない。自分の記憶を頑固に信用してはいけないってことですね。
● 開演は14時。かなり混むことはわかっていたから,かなり早めに並んだ。その甲斐あって,2階右翼席に座ることができた。自分で勝手にここが自分の指定席と決めているところ。
チケットは1,000円。これまた,当日券は厳しいだろうと思って,数日前に前売券を買っておいた。
● 例年,宇女高合唱→宇高合唱→両校合唱→両校管弦楽→両校管弦楽&両校合唱&両校2学年音楽選択生,の順での演奏になる。
まずは,宇女高合唱部。「キャロルの祭典」から4曲。“入場”,“来たれ喜びよ”,“四月の朝露のごとく”,“この小さな嬰児”。「キャロルの祭典」は女声合唱の定番であるらしい。たしか昨年も。
● 初めて聴いた第27回のときは,部員が少ないのに少し驚いたものだった。が,最近は事情がだいぶ変わってきたらしい。
アンダーソン「雪だるまをつくろう」など4曲を,ミュージカル仕立てにして演奏した。それができるためには,第一に数が揃っていなければならない。
4つの曲をはめこむためのストーリーや場面設定にも無理がなく,ひょっとすると,定型があるのだろうかと思った。
● 次は,宇高音楽部合唱団。「じゆびれえしよん」から“雪景”,“独唱”,“りんごよ”。「父のゐる庭」から“紀の国”。「鴎」「斎太郎節」。
今回は少々手こずってる印象を受けたんだけどね。高音部に苦戦していたような。期して次回を待て,ということでしょう。
そのあと,両校の合同演奏があって,第1部は終了。
● 第2部は両校合同の管弦楽。かなりの人数になる。デュカスの「魔法使いの弟子」を演奏。
なぜ「魔法使いの弟子」かといえば,このあと日本青年館で「全日本高等学校オーケストラフェスタ」というのがあるらしく,宇女高オーケストラがこの曲を引っさげて参戦する。そういう事情があったようだ。
● この演奏会の白眉はもちろん,最後の「両校管弦楽&両校合唱&両校2学年音楽選択生」にある。ヘンデル「メサイア」から“ハレルヤ”,それと「第九」の第4楽章。つまり,これが第3部。
音楽選択生の中には合唱部員よりも巧い人もいるはずだ。合唱よりもバスケットがもっと好きだからバスケット部員になっているというような。あるいは,部活の意義に自分は疑問を感じるから合唱部には入らないけれども,歌わせたらかなりの腕前だ,というような。そういう人が音楽選択生の中にはいるだろう。
● 一方で,口パクの人も散見された。責めているのではない。当然,あっていい対応だ。たぶん,この演奏会への参加希望は問われずに,音楽選択生は全員参加することになっているのだろう。それなのに口パクも許さないというのでは,すでにして小さなファシズムだ。
だから,口パクはあっていいのだ。ここで良心の呵責など感じてはいけない。
● しかし,だね。明らかにわかる口パクはダメだよ。ここは演技力を見せるところだからね。(観客に)口パクと悟られないような口パクを演じて見せてくれ。
この点で言うとね,男子の宇高生より女子の宇女高生の方が,演技力は上のような気がしたね。
● 管弦楽については,宇高と宇女高の実力差が相当あるなと思っていた。正直,宇高生が可哀想に思えることもあったんだけどねぇ。
このあたりも様相が変わっているようだ。宇高管弦楽団の名簿を見ると,1年生の部員がかなりいる。技量も向上しているようだ。
「第九」は宇高生がコンマスを務めた。その彼にコンマスとして見劣りするところは,まったくなかったと思う。
● この演奏会に備えるのに与えられた時間は限られていたはずで,両校の合同練習ができたのは2回程度じゃないか。もっとも,管弦楽は,那珂川町の「第九を歌う会」(12/10)でも演奏しているので,そこで総合リハーサルは済んでいるのかもしれないけど。
“ハレルヤ”を仕上げるだけでも,けっこう大変でしょ。それに加えて「第九」だからね。
管弦楽も合唱も自前で,しかもこの水準まで持ってくることができるのは,栃木県内でもこの両校だけだろう,たぶん。たいしたもんです。
ぼく的には,「第九」よりも“ハレルヤ”の素晴らしさを称揚したい。主には合唱についてなんだけどね。
● 客席は“ほぼ”のつかない満席状態で,とにかく人圧がすごかった。これはちょっと入り過ぎだろう。人圧に押されて,居心地の悪さを感じることがある。
が,その人圧も途中から感じなくなった。高校生のパワーはかくも凄い。
● この演奏会を初めて聴いたのは第27回。その後,30回,32回,34回と聴いている。ほぼ1年おき。
今回は初めて2年連続で聴いたんだけど,そのことに気づいたのはつい先程だ。今回も2年ぶりだと思っていた。つまり,前回(第34回)の記憶がスッポリと抜け落ちている。何回か聴いていると,記憶が混ざってしまうのだと思う。
困ったことだけど,仕方がないんでしょうね。たぶん,こういうことって,誰にでもあるんだと思う。だから,人の記憶ってあまりあてにならない。自分の記憶を頑固に信用してはいけないってことですね。
● 開演は14時。かなり混むことはわかっていたから,かなり早めに並んだ。その甲斐あって,2階右翼席に座ることができた。自分で勝手にここが自分の指定席と決めているところ。
チケットは1,000円。これまた,当日券は厳しいだろうと思って,数日前に前売券を買っておいた。
● 例年,宇女高合唱→宇高合唱→両校合唱→両校管弦楽→両校管弦楽&両校合唱&両校2学年音楽選択生,の順での演奏になる。
まずは,宇女高合唱部。「キャロルの祭典」から4曲。“入場”,“来たれ喜びよ”,“四月の朝露のごとく”,“この小さな嬰児”。「キャロルの祭典」は女声合唱の定番であるらしい。たしか昨年も。
● 初めて聴いた第27回のときは,部員が少ないのに少し驚いたものだった。が,最近は事情がだいぶ変わってきたらしい。
アンダーソン「雪だるまをつくろう」など4曲を,ミュージカル仕立てにして演奏した。それができるためには,第一に数が揃っていなければならない。
4つの曲をはめこむためのストーリーや場面設定にも無理がなく,ひょっとすると,定型があるのだろうかと思った。
● 次は,宇高音楽部合唱団。「じゆびれえしよん」から“雪景”,“独唱”,“りんごよ”。「父のゐる庭」から“紀の国”。「鴎」「斎太郎節」。
今回は少々手こずってる印象を受けたんだけどね。高音部に苦戦していたような。期して次回を待て,ということでしょう。
そのあと,両校の合同演奏があって,第1部は終了。
● 第2部は両校合同の管弦楽。かなりの人数になる。デュカスの「魔法使いの弟子」を演奏。
なぜ「魔法使いの弟子」かといえば,このあと日本青年館で「全日本高等学校オーケストラフェスタ」というのがあるらしく,宇女高オーケストラがこの曲を引っさげて参戦する。そういう事情があったようだ。
● この演奏会の白眉はもちろん,最後の「両校管弦楽&両校合唱&両校2学年音楽選択生」にある。ヘンデル「メサイア」から“ハレルヤ”,それと「第九」の第4楽章。つまり,これが第3部。
音楽選択生の中には合唱部員よりも巧い人もいるはずだ。合唱よりもバスケットがもっと好きだからバスケット部員になっているというような。あるいは,部活の意義に自分は疑問を感じるから合唱部には入らないけれども,歌わせたらかなりの腕前だ,というような。そういう人が音楽選択生の中にはいるだろう。
● 一方で,口パクの人も散見された。責めているのではない。当然,あっていい対応だ。たぶん,この演奏会への参加希望は問われずに,音楽選択生は全員参加することになっているのだろう。それなのに口パクも許さないというのでは,すでにして小さなファシズムだ。
だから,口パクはあっていいのだ。ここで良心の呵責など感じてはいけない。
● しかし,だね。明らかにわかる口パクはダメだよ。ここは演技力を見せるところだからね。(観客に)口パクと悟られないような口パクを演じて見せてくれ。
この点で言うとね,男子の宇高生より女子の宇女高生の方が,演技力は上のような気がしたね。
● 管弦楽については,宇高と宇女高の実力差が相当あるなと思っていた。正直,宇高生が可哀想に思えることもあったんだけどねぇ。
このあたりも様相が変わっているようだ。宇高管弦楽団の名簿を見ると,1年生の部員がかなりいる。技量も向上しているようだ。
「第九」は宇高生がコンマスを務めた。その彼にコンマスとして見劣りするところは,まったくなかったと思う。
● この演奏会に備えるのに与えられた時間は限られていたはずで,両校の合同練習ができたのは2回程度じゃないか。もっとも,管弦楽は,那珂川町の「第九を歌う会」(12/10)でも演奏しているので,そこで総合リハーサルは済んでいるのかもしれないけど。
“ハレルヤ”を仕上げるだけでも,けっこう大変でしょ。それに加えて「第九」だからね。
管弦楽も合唱も自前で,しかもこの水準まで持ってくることができるのは,栃木県内でもこの両校だけだろう,たぶん。たいしたもんです。
ぼく的には,「第九」よりも“ハレルヤ”の素晴らしさを称揚したい。主には合唱についてなんだけどね。
● 客席は“ほぼ”のつかない満席状態で,とにかく人圧がすごかった。これはちょっと入り過ぎだろう。人圧に押されて,居心地の悪さを感じることがある。
が,その人圧も途中から感じなくなった。高校生のパワーはかくも凄い。
2017年12月27日水曜日
2017.12.23 宇都宮大学管弦楽団 第84回定期演奏会
栃木県総合文化センター メインホール
● 開演は午後6時。チケットは800円。ぼくは招待状で入場させてもらったんだけど。
● メインホールが満席。ほぼ空席なし。この楽団の定演でこれだけお客さんが入ったのを見るのは初めてのこと。17日の栃響「第九」でももう少し空きがあった。
何があったのだろう。演奏される曲目に奇をてらったところはないし,下手に奇をてらうと,かえってお客を遠ざける結果になるものだろう。
招待状をはじめ,集客の手を尽くした結果だろうか。地元の人たちの間にクラシック音楽熱が盛りあがっているんだろか。どうも理由がわからない。
● その曲目は次のとおり。指揮は三河正典さん。
ベートーヴェン 劇音楽「エグモント」序曲
チャイコフスキー 幻想序曲「ロメオとジュリエット」
ドヴォルザーク 交響曲第9番「新世界より」
● 大学オケでも大学に入ってから楽器を始めた人が珍しくないという話も聞くことがあるんだけど,どうなんだろうか。本当にそうなのか。
ぼくも大学では初めてのスポーツの部活をやった口なんだけど(じつは,そのことを激しく後悔している),管弦楽でも同じなのだろうか。
● 宇都宮大学管弦楽団は,栃響をはじめ県内の市民オケの人材供給源になっているやに思われる。弦の水準の高さには感嘆する場面が多い(ただし,OB・OGのアシスト効果も大きいはずだ)。
大学から始めてもここまで行けるのであれば,相当な人たちにとって福音になるだろう。
必ずもっと早く始めていればよかったと思うものだろうけれども,それは何ごとにもあてはまる。あまり深く考えてはいけない事柄に属する。考えても仕方がないことを考えないでいられる,というのは,それじたいが大変な才能だ。
● 「ロメオとジュリエット」にはチャイコフスキーのすべてがあるように思う。こうすれば聴衆に受けるとわかっているかのような,あざといくらいの起伏のつけ方と場面転換。ロシア的というには,どこかに華やぎを残す沈鬱さ。
じつは,チャイコフスキーの多くの楽曲の中で,最も数多く聴いたのはこの曲だ。短い時間でチャイコフスキーを聴いたという気分に浸れるからだ。
● ドヴォルザークの9番は先月も宇都宮短期大学管弦楽団の演奏を聴いている。どちらがどうということはない。何度聴いても,いいものはいい。
指揮の三河さん,ていねいな指揮ぶりはこの人の身上なのだろうけど(というほど,何度も彼の指揮に接しているわけではないんだが),わかりやすく指示を出して,学生たちの良さを引きだそうとしているように見えた。オケも弾きやすかったんじゃないかと思う。
● 欲をいえばキリがない。アンサンブルにはさらに洗練させる余地がある。もっとなめらかに,もっとシームレスに。少しの注意で防げる事故もあった。
しかし,演奏に力がある。感情移入しやすいというか,余計な雑念を介入させないというか。このあたりが大学オケの良さだ。存分に時間をかけることができるゆえでもあるだろう。あるいは,若さが持つ何ものかの仕業であるのだろう。
巧い演奏より力のある演奏の方が,魅力がある。聴いて良かったと思うのは,圧倒的に後者の方だ。
● アンコールのくるみ割り“花のワルツ”まで含めて,その力が持続した。このあたりがこれだけの聴衆を集めた理由なのだろうか。
と,まとめると大団円になって都合がいいんだけど,そうではないだろうなぁ。何か他の理由があるんだろうな。あるいは,たまたまだったのかなぁ。
● 開演は午後6時。チケットは800円。ぼくは招待状で入場させてもらったんだけど。
● メインホールが満席。ほぼ空席なし。この楽団の定演でこれだけお客さんが入ったのを見るのは初めてのこと。17日の栃響「第九」でももう少し空きがあった。
何があったのだろう。演奏される曲目に奇をてらったところはないし,下手に奇をてらうと,かえってお客を遠ざける結果になるものだろう。
招待状をはじめ,集客の手を尽くした結果だろうか。地元の人たちの間にクラシック音楽熱が盛りあがっているんだろか。どうも理由がわからない。
● その曲目は次のとおり。指揮は三河正典さん。
ベートーヴェン 劇音楽「エグモント」序曲
チャイコフスキー 幻想序曲「ロメオとジュリエット」
ドヴォルザーク 交響曲第9番「新世界より」
● 大学オケでも大学に入ってから楽器を始めた人が珍しくないという話も聞くことがあるんだけど,どうなんだろうか。本当にそうなのか。
ぼくも大学では初めてのスポーツの部活をやった口なんだけど(じつは,そのことを激しく後悔している),管弦楽でも同じなのだろうか。
● 宇都宮大学管弦楽団は,栃響をはじめ県内の市民オケの人材供給源になっているやに思われる。弦の水準の高さには感嘆する場面が多い(ただし,OB・OGのアシスト効果も大きいはずだ)。
大学から始めてもここまで行けるのであれば,相当な人たちにとって福音になるだろう。
必ずもっと早く始めていればよかったと思うものだろうけれども,それは何ごとにもあてはまる。あまり深く考えてはいけない事柄に属する。考えても仕方がないことを考えないでいられる,というのは,それじたいが大変な才能だ。
● 「ロメオとジュリエット」にはチャイコフスキーのすべてがあるように思う。こうすれば聴衆に受けるとわかっているかのような,あざといくらいの起伏のつけ方と場面転換。ロシア的というには,どこかに華やぎを残す沈鬱さ。
じつは,チャイコフスキーの多くの楽曲の中で,最も数多く聴いたのはこの曲だ。短い時間でチャイコフスキーを聴いたという気分に浸れるからだ。
● ドヴォルザークの9番は先月も宇都宮短期大学管弦楽団の演奏を聴いている。どちらがどうということはない。何度聴いても,いいものはいい。
指揮の三河さん,ていねいな指揮ぶりはこの人の身上なのだろうけど(というほど,何度も彼の指揮に接しているわけではないんだが),わかりやすく指示を出して,学生たちの良さを引きだそうとしているように見えた。オケも弾きやすかったんじゃないかと思う。
● 欲をいえばキリがない。アンサンブルにはさらに洗練させる余地がある。もっとなめらかに,もっとシームレスに。少しの注意で防げる事故もあった。
しかし,演奏に力がある。感情移入しやすいというか,余計な雑念を介入させないというか。このあたりが大学オケの良さだ。存分に時間をかけることができるゆえでもあるだろう。あるいは,若さが持つ何ものかの仕業であるのだろう。
巧い演奏より力のある演奏の方が,魅力がある。聴いて良かったと思うのは,圧倒的に後者の方だ。
● アンコールのくるみ割り“花のワルツ”まで含めて,その力が持続した。このあたりがこれだけの聴衆を集めた理由なのだろうか。
と,まとめると大団円になって都合がいいんだけど,そうではないだろうなぁ。何か他の理由があるんだろうな。あるいは,たまたまだったのかなぁ。
2017年12月26日火曜日
2017.12.21 ジャン=フィリップ・メルカールト オルガン・リサイタル
那須野が原ハーモニーホール 大ホール
● 今日はダブルヘッダー。18:30から那須野が原ハーモニーホールで「ジャン=フィリップ・メルカールト オルガン・リサイタル」。チケットは1,000円。
● このオルガン・リサイタルも今回で4回目になる。以前は「田園」や「幻想交響曲」といった管弦楽曲をオルガンにアレンジして演奏していた。
でも,わざわざ編曲してオルガンで聴くよりも,そういう曲は管弦楽で聴けばいいのでね。「田園」や「幻想交響曲」がどんなオルガン曲になるのか,という楽しみはあるわけだけれど。
● 今回は,それぞれ曲調の違うオルガン曲を4つ。
バッハ 前奏曲とフーガ ハ長調
フランク 前奏曲,フーガと変奏曲
ヴィエルヌ オルガン交響曲第2番より“スケルツォ”
デュプレ 古いノエルによる変奏曲
● オルガンってこういう音も出せるのか,オルガンにこういう使い方もあるのか,という初歩的な発見あり。
雨も降らせられるし,風も起こせる。エマージェンシーも表現できるし,春の川のせせらぎや,市場に人が集まっている様子も作りだすことができる。
たとえば,最後の「古いノエルによる変奏曲」。ノエルというのはクリスマス・ソングという意味らしいのだが,ファンタジーに満ちている。東京ディズニーランドを連想してしまった。
● オルガンっていうと,神に捧げる音を出すための楽器というイメージがあるんだけども,いくらでも俗世を表現することができるんだな。
と思いながら,このホールの専属オルガニストである,ベルギー生まれの37歳の若者(ぼくから見れば,ね)の背中を見つめていた。
● ところで。那須野が原ハーモニーホールの冬のイルミネーションは有名だ(有名なんでしょ?)。じっくり見れたのは,今回が初めてだ。
たんに光っているだけではなくて,音も付いている。ぼくが眺めていたときには,エルガー「愛のあいさつ」が流れていた。
少ないながらも,食べものの屋台も出ていた。ちょっとしたお祭り気分も味わえる。
● 今日はダブルヘッダー。18:30から那須野が原ハーモニーホールで「ジャン=フィリップ・メルカールト オルガン・リサイタル」。チケットは1,000円。
● このオルガン・リサイタルも今回で4回目になる。以前は「田園」や「幻想交響曲」といった管弦楽曲をオルガンにアレンジして演奏していた。
でも,わざわざ編曲してオルガンで聴くよりも,そういう曲は管弦楽で聴けばいいのでね。「田園」や「幻想交響曲」がどんなオルガン曲になるのか,という楽しみはあるわけだけれど。
● 今回は,それぞれ曲調の違うオルガン曲を4つ。
バッハ 前奏曲とフーガ ハ長調
フランク 前奏曲,フーガと変奏曲
ヴィエルヌ オルガン交響曲第2番より“スケルツォ”
デュプレ 古いノエルによる変奏曲
雨も降らせられるし,風も起こせる。エマージェンシーも表現できるし,春の川のせせらぎや,市場に人が集まっている様子も作りだすことができる。
たとえば,最後の「古いノエルによる変奏曲」。ノエルというのはクリスマス・ソングという意味らしいのだが,ファンタジーに満ちている。東京ディズニーランドを連想してしまった。
と思いながら,このホールの専属オルガニストである,ベルギー生まれの37歳の若者(ぼくから見れば,ね)の背中を見つめていた。
● ところで。那須野が原ハーモニーホールの冬のイルミネーションは有名だ(有名なんでしょ?)。じっくり見れたのは,今回が初めてだ。
たんに光っているだけではなくて,音も付いている。ぼくが眺めていたときには,エルガー「愛のあいさつ」が流れていた。
2017.12.21 山本楓 オーボエ・リサイタル
栃木県総合文化センター サブホール
● 山本楓さんのオーボエリサイタル。チケットは1,000円。11:30からの1時間。
彼女のオーボエを初めて聴いたのは,2013年のコンセール・マロニエ。そのとき,山本さんは2位だったんだけどね,ぼくの審査(?)によれば,彼女が1位だったんだよなぁ。
まぁ,あの松山冴花さんもこのコンクールの弦楽部門では2位だったんだからね。コンクールの結果っていうのは,そもそもがあまり気にする必要のないものなのかもしれないんだけどね。
● 山本さん,地元の出身。地元の普通高校から藝大に進み,現在はイギリスに留学中。それでもオーボエで名をなすのはなかなか容易なことではないのだろう。
茨の道に進めるのは選ばれた人たちだけだ。けれども,選ばれることが本人にとって幸せなのかそうではないのか。それは誰にもわからない。もちろん,本人にも。
● 曲目は次のとおり。
アグレル ブルース-D.Dのために
サン=サーンス オーボエとピアノのソナタ
ロベルト・シューマン 夕べの歌
クララ・シューマン ヴァイオリンとピアノのための3つのロマンス
● 初めて聴く曲ばかりだ。サン=サーンスのオーボエソナタは,その世界では知らない人のいない名曲だというんだけど,ぼくは知らなかった。
ぼく程度のクラシックファンが垣間見るのは,クラシック音楽という宇宙のほんの一部にすぎない。それでいいと居直っているけれど,多少は揺さぶってみたい気持ちもある。
● そのためには,自分の意思で選曲して聴くのではなく,ランダムに流れてくるのを受動的に聴くシステムを作るといい。ラジオやテレビの音楽番組を聴くのはいい方法かも。
スカパーには音楽専門チャンネルもある。が,CS放送というのはそれ自体がすでに終わってしまっている情報伝達型式でしょ。NHK-FMの利用が現実的でしょうか。“らじるらじる”をスマホにインストールして,「聴き逃しサービス」を利用してみるか。録音もできるとさらに便利なのだが(→できるらしい)。
スマホなら海外の音楽専門番組も聴ける。が,あまり一挙に高度化(?)してしまうと続かないからね。
● 特に印象に残ったのはシューマン「夕べの歌」。「子供のための12の連弾曲」の中の最後の曲。つまり,元々はピアノ曲。それをヨアヒムがオーボエ(orヴァイオリン,フルート)&ピアノ曲に編曲したもの。
この曲を含めてシューマンをまとめて聴いてみようか。ライブで聴いたのは,交響曲の1番と3番,ピアノ曲のいくつかにとどまっている。
こういうことも,生演奏に接すると,その都度思うことだ。バロックの演奏を聴けば,バッハ以外にも聴かなきゃと思うし,ジャスを聴けばジャズも聴かないとなぁと思う。
で,これまた実行するのは難しい。たんに聴くというそれだけのことが,実際にはなかなかできないんだよね。
● 演奏家は演奏しているときだけ演奏家なのだね。そうじゃないときは,ただの人っていうか普通の人なんだ。
何をあたりまえのことを,と言われそうだけれど,山本さんのMCを聞いているときに,ハッとする思いでそう思った。ぼく的にはひとつ発見したような気分なんですけどね。
● 以下はまったくの余談。このリサイタルとは何の関係もない。
サブホールながらほぼ満席。平日の昼間にこんなところに来れるなんて,世の中に暇人は多いのだな,と自分を棚にあげて思った。日本もまんざら捨てたもんじゃない。
もっとも,こういう感興に浸りたければ,平日昼間にパチンコ店に行ってみればもっと強烈に味わうことができる。
● あるいは,平日開催の競輪もね。お客離れが言われて久しいけれども,それでもまだまだ爺さんたちが蝟集しているでしょ。
公営賭博の功罪に深く思いを致しつつ,日本も捨てたものじゃないと思うのは(思えないかもしれないが),なかなかに趣のある時間の過ごし方かもしれんね。
● ちなみに,賭博の9割以上を公営賭博が占める。自治体が一生懸命に推進している。あるいは,衰退を食い止めようとしている。
でもって,残り1割未満の賭博に対しては,刑罰(賭博罪)をもって臨む。強盗犯人がスリやカッパライを取り締まっているようなものだ。
屁理屈はいくらでも立てられるけれども,現状を直視するなら,関係法令を整備したうえで(つまり,暴力団の資金源になるのを防がなければいけない),賭博罪は廃止すべきだと思う。
● 山本楓さんのオーボエリサイタル。チケットは1,000円。11:30からの1時間。
彼女のオーボエを初めて聴いたのは,2013年のコンセール・マロニエ。そのとき,山本さんは2位だったんだけどね,ぼくの審査(?)によれば,彼女が1位だったんだよなぁ。
まぁ,あの松山冴花さんもこのコンクールの弦楽部門では2位だったんだからね。コンクールの結果っていうのは,そもそもがあまり気にする必要のないものなのかもしれないんだけどね。
● 山本さん,地元の出身。地元の普通高校から藝大に進み,現在はイギリスに留学中。それでもオーボエで名をなすのはなかなか容易なことではないのだろう。
茨の道に進めるのは選ばれた人たちだけだ。けれども,選ばれることが本人にとって幸せなのかそうではないのか。それは誰にもわからない。もちろん,本人にも。
● 曲目は次のとおり。
アグレル ブルース-D.Dのために
サン=サーンス オーボエとピアノのソナタ
ロベルト・シューマン 夕べの歌
クララ・シューマン ヴァイオリンとピアノのための3つのロマンス
● 初めて聴く曲ばかりだ。サン=サーンスのオーボエソナタは,その世界では知らない人のいない名曲だというんだけど,ぼくは知らなかった。
ぼく程度のクラシックファンが垣間見るのは,クラシック音楽という宇宙のほんの一部にすぎない。それでいいと居直っているけれど,多少は揺さぶってみたい気持ちもある。
● そのためには,自分の意思で選曲して聴くのではなく,ランダムに流れてくるのを受動的に聴くシステムを作るといい。ラジオやテレビの音楽番組を聴くのはいい方法かも。
スカパーには音楽専門チャンネルもある。が,CS放送というのはそれ自体がすでに終わってしまっている情報伝達型式でしょ。NHK-FMの利用が現実的でしょうか。“らじるらじる”をスマホにインストールして,「聴き逃しサービス」を利用してみるか。録音もできるとさらに便利なのだが(→できるらしい)。
スマホなら海外の音楽専門番組も聴ける。が,あまり一挙に高度化(?)してしまうと続かないからね。
● 特に印象に残ったのはシューマン「夕べの歌」。「子供のための12の連弾曲」の中の最後の曲。つまり,元々はピアノ曲。それをヨアヒムがオーボエ(orヴァイオリン,フルート)&ピアノ曲に編曲したもの。
この曲を含めてシューマンをまとめて聴いてみようか。ライブで聴いたのは,交響曲の1番と3番,ピアノ曲のいくつかにとどまっている。
こういうことも,生演奏に接すると,その都度思うことだ。バロックの演奏を聴けば,バッハ以外にも聴かなきゃと思うし,ジャスを聴けばジャズも聴かないとなぁと思う。
で,これまた実行するのは難しい。たんに聴くというそれだけのことが,実際にはなかなかできないんだよね。
● 演奏家は演奏しているときだけ演奏家なのだね。そうじゃないときは,ただの人っていうか普通の人なんだ。
何をあたりまえのことを,と言われそうだけれど,山本さんのMCを聞いているときに,ハッとする思いでそう思った。ぼく的にはひとつ発見したような気分なんですけどね。
● 以下はまったくの余談。このリサイタルとは何の関係もない。
サブホールながらほぼ満席。平日の昼間にこんなところに来れるなんて,世の中に暇人は多いのだな,と自分を棚にあげて思った。日本もまんざら捨てたもんじゃない。
もっとも,こういう感興に浸りたければ,平日昼間にパチンコ店に行ってみればもっと強烈に味わうことができる。
● あるいは,平日開催の競輪もね。お客離れが言われて久しいけれども,それでもまだまだ爺さんたちが蝟集しているでしょ。
公営賭博の功罪に深く思いを致しつつ,日本も捨てたものじゃないと思うのは(思えないかもしれないが),なかなかに趣のある時間の過ごし方かもしれんね。
● ちなみに,賭博の9割以上を公営賭博が占める。自治体が一生懸命に推進している。あるいは,衰退を食い止めようとしている。
でもって,残り1割未満の賭博に対しては,刑罰(賭博罪)をもって臨む。強盗犯人がスリやカッパライを取り締まっているようなものだ。
屁理屈はいくらでも立てられるけれども,現状を直視するなら,関係法令を整備したうえで(つまり,暴力団の資金源になるのを防がなければいけない),賭博罪は廃止すべきだと思う。
2017年12月20日水曜日
2017.12.17 第10回栃木県楽友協会「第九」演奏会
栃木県総合文化センター メインホール
● この「第九」演奏会も10回目になるのか。「第九」は12月の風物詩になって久しい。冬の季語として歳時記に載ってもいいのじゃないかと思うほどだ(ひょっとして載っているのか)。
ぼくは10回の全部を聴いているわけではないのだけれども,それでも,ま,かなりの回数は聴いている。地元の「第九」だからね。
開演は午後2時。チケットは1,500円。この金額もずっと変わらない。
● 10回目の今回は,ソリスト陣が豪華。コンセール・マロニエ声楽部門の優勝者を揃えた。ソプラノが石原妙子さん,アルトが秋本悠希さん,テノールに田口昌範さん(田口さんだけはコンセール・マロニエとは無関係),バリトンに高橋洋介さん。清新な実力者が並んだって感じでしょ。
指揮は栃響の荻町修さん。管弦楽は栃木県楽友協会管弦楽団というレッテルの栃響。恒例の対抗配置。
● 演奏するのはもちろん「第九」。露払いにヨハン・シュトラウス2世のワルツ「南国のバラ」。
「南国のバラ」は初めて聴いた。CDではたぶん聴いているはずだけど,印象は他の曲に紛れてしまっている。たしかに聴いたという記憶すら残っていない。
でも,こうして聴いてみると佳品だなと思う。聴くときの環境にもよりますね。だから,環境を整えることは大事なんだけど,わかっていてもこの点に関して,ぼくはほとんど無頓着だ。
● 「第九」は第1楽章がすべてだと思っている。冒頭,ホルンが宇宙の開闢を告げる。物理法則を無視して,無から有が生じる瞬間だ。ここでゾクッとするのだ。演奏のスタートのその際に,“ゾクッ”が付いてくる。
ここでのホルンはほんとに重要だ。全身全霊をこの一瞬に注いで,宇宙開闢を告げてほしい。あくまで静かに,だ。神の代役なのだぞ。神は大声を出さないものだ。
● 生まれたばかりの宇宙に弦が綾を付けていく。ここから宇宙はどう変成していくのか。第1楽章全体がその答えだ。うねって,跳ねて,伸縮を繰り返して,宇宙は形を整えていく。このようにして宇宙は成ったのだ。
しかし,第1楽章の最後は閉じない。開かれたままだ。宇宙は成ったのではあるけれども,完成はしない。永遠の未完なのだ。それが宇宙というものだ。
● というわけで,第1楽章が終わった時点で,こちらはグッタリと疲れてしまう。もう帰ってもいいかと思う。
もちろん,席に着いたまま第2楽章を待つわけだけどね。宇宙開闢の物語は第2楽章には持ちこまないことにしたい。
● 「第九」の第2楽章は激しい。ティンパニ協奏曲とはよく言ったものだと思うが,ではこの楽章の主役はティンパニかといえば,どうもそうではない。というか,主役なんていない。
弦にも管にも,作曲家は全速前進を命じている。オーケストラに息をつく暇などない。いや,息はつけるけれども,気を抜いていい時間など,コンマ5秒もないだろう。
● そして,激しさから一転して,まどろむような緩徐楽章。Wikipediaは「神秘的な安らぎに満ちた緩徐楽章である」と解説している。
このまどろみを演出するために,奏者はまどろむわけにはいかない。感覚をいよいよ研ぎ澄ませて,ヴァイオリン奏者は左手の指を忙しく動かすのだ。
● しかし,このたゆたうような心地よさは何ごとか。竜宮城で鯛や鮃の舞い踊りを鑑賞していた浦島太郎も,こんな気分を味わっていたのだろうか。
ひょっとしたら,この世で一番のリゾートは,ホールで「第九」の第3楽章を聴くことかもしれない。いかんせん,リゾートというには,時間が短すぎるわけだが。かといって,長く聴いていられるかとなると,それはそれで難しいだろうから,やはりリゾートにはならないか。
● 第4楽章。普通に考えれば,ここが「第九」の「第九」たる所以。
が,この曲はあくまで管弦楽曲であって,合唱も独唱もパートの一部に過ぎない。「第九」から声楽を取り除いてしまっても,依然として「第九」であり続けると思う。
そこがたとえばマーラーの2番「復活」との違いだ。「復活」から声楽を除いてしまえば,「復活」はもはや「復活」ではなくなってしまう。
いや,だからといって,何か言いたいことがあるわけではないんですけどね。
● あの有名な旋律をコントラバスとチェロが奏で,それをヴィオラが受ける。あそこまで美しくヴィオラが鳴る局面を,ぼくは他に知らない。
さらにヴァイオリンが受ける。このところで,うっかりすると泣きそうになる。
● バリトンの高橋さんが先陣を切る。歌い手に不足はないはずだ。
が,その高橋さんをもってしても,あの地を這うような,地中からわいてくるような,重々しさを表現するのは,なかなかに難しいようだ。
● どうしたってソプラノが美味しいところを持っていってしまうかなぁ。
● この「第九」演奏会も10回目になるのか。「第九」は12月の風物詩になって久しい。冬の季語として歳時記に載ってもいいのじゃないかと思うほどだ(ひょっとして載っているのか)。
ぼくは10回の全部を聴いているわけではないのだけれども,それでも,ま,かなりの回数は聴いている。地元の「第九」だからね。
開演は午後2時。チケットは1,500円。この金額もずっと変わらない。
● 10回目の今回は,ソリスト陣が豪華。コンセール・マロニエ声楽部門の優勝者を揃えた。ソプラノが石原妙子さん,アルトが秋本悠希さん,テノールに田口昌範さん(田口さんだけはコンセール・マロニエとは無関係),バリトンに高橋洋介さん。清新な実力者が並んだって感じでしょ。
指揮は栃響の荻町修さん。管弦楽は栃木県楽友協会管弦楽団というレッテルの栃響。恒例の対抗配置。
● 演奏するのはもちろん「第九」。露払いにヨハン・シュトラウス2世のワルツ「南国のバラ」。
「南国のバラ」は初めて聴いた。CDではたぶん聴いているはずだけど,印象は他の曲に紛れてしまっている。たしかに聴いたという記憶すら残っていない。
でも,こうして聴いてみると佳品だなと思う。聴くときの環境にもよりますね。だから,環境を整えることは大事なんだけど,わかっていてもこの点に関して,ぼくはほとんど無頓着だ。
● 「第九」は第1楽章がすべてだと思っている。冒頭,ホルンが宇宙の開闢を告げる。物理法則を無視して,無から有が生じる瞬間だ。ここでゾクッとするのだ。演奏のスタートのその際に,“ゾクッ”が付いてくる。
ここでのホルンはほんとに重要だ。全身全霊をこの一瞬に注いで,宇宙開闢を告げてほしい。あくまで静かに,だ。神の代役なのだぞ。神は大声を出さないものだ。
● 生まれたばかりの宇宙に弦が綾を付けていく。ここから宇宙はどう変成していくのか。第1楽章全体がその答えだ。うねって,跳ねて,伸縮を繰り返して,宇宙は形を整えていく。このようにして宇宙は成ったのだ。
しかし,第1楽章の最後は閉じない。開かれたままだ。宇宙は成ったのではあるけれども,完成はしない。永遠の未完なのだ。それが宇宙というものだ。
● というわけで,第1楽章が終わった時点で,こちらはグッタリと疲れてしまう。もう帰ってもいいかと思う。
もちろん,席に着いたまま第2楽章を待つわけだけどね。宇宙開闢の物語は第2楽章には持ちこまないことにしたい。
● 「第九」の第2楽章は激しい。ティンパニ協奏曲とはよく言ったものだと思うが,ではこの楽章の主役はティンパニかといえば,どうもそうではない。というか,主役なんていない。
弦にも管にも,作曲家は全速前進を命じている。オーケストラに息をつく暇などない。いや,息はつけるけれども,気を抜いていい時間など,コンマ5秒もないだろう。
● そして,激しさから一転して,まどろむような緩徐楽章。Wikipediaは「神秘的な安らぎに満ちた緩徐楽章である」と解説している。
このまどろみを演出するために,奏者はまどろむわけにはいかない。感覚をいよいよ研ぎ澄ませて,ヴァイオリン奏者は左手の指を忙しく動かすのだ。
● しかし,このたゆたうような心地よさは何ごとか。竜宮城で鯛や鮃の舞い踊りを鑑賞していた浦島太郎も,こんな気分を味わっていたのだろうか。
ひょっとしたら,この世で一番のリゾートは,ホールで「第九」の第3楽章を聴くことかもしれない。いかんせん,リゾートというには,時間が短すぎるわけだが。かといって,長く聴いていられるかとなると,それはそれで難しいだろうから,やはりリゾートにはならないか。
● 第4楽章。普通に考えれば,ここが「第九」の「第九」たる所以。
が,この曲はあくまで管弦楽曲であって,合唱も独唱もパートの一部に過ぎない。「第九」から声楽を取り除いてしまっても,依然として「第九」であり続けると思う。
そこがたとえばマーラーの2番「復活」との違いだ。「復活」から声楽を除いてしまえば,「復活」はもはや「復活」ではなくなってしまう。
いや,だからといって,何か言いたいことがあるわけではないんですけどね。
● あの有名な旋律をコントラバスとチェロが奏で,それをヴィオラが受ける。あそこまで美しくヴィオラが鳴る局面を,ぼくは他に知らない。
さらにヴァイオリンが受ける。このところで,うっかりすると泣きそうになる。
● バリトンの高橋さんが先陣を切る。歌い手に不足はないはずだ。
が,その高橋さんをもってしても,あの地を這うような,地中からわいてくるような,重々しさを表現するのは,なかなかに難しいようだ。
● どうしたってソプラノが美味しいところを持っていってしまうかなぁ。
石原さんのソプラノを聴くのはこれが三度目になる。彼女が優勝したコンセール・マロニエと,東京アマデウス管弦楽団がコンサート形式で「カルメン」をやったときに,ミカエラ役で出ていたのを聴く機会があった。
● ここで大きく脱線。
その「カルメン」のときのエピソードといいますかね,終演後,観客の誰かが石原さんのミカエラを評して言った言葉が忘れられない。その人は・・・・・・「巨乳のミカエラ」と言ったのだ。
待て待て,誰かじゃなくて,それはおまえが言ったのだろう,と穿った見方をする人がいるかもしれない。鋭い洞察ではあるけれども,残念ながらそうではない。誰かが言ったのを聞いたのだ。ちなみに,そのときの会場はミューザ川崎だった。
● ソプラノに比べると,アルトは地味目で損(?)だ。が,秋本さん,とんでもない色気をまとっているように見えた。何かあったんだろうか。
彼女の声を聴くのは,これが5回目になるはずだ。印象に残っているのは4年前の藝祭。シュニトケ「オラトリオ長崎」でソリストを務めていた。
それから,栃響特別演奏会での「ふるさと」も。アカペラだったんだよな。
● ベートーヴェンが第九交響曲を残してくれた恩寵というものを思ってみる。この曲がある世界とない世界。
栃響の演奏も見事なもの。多少の事故がなくはなかったけれども,問題とするに足りない。たいしたものだよ。栃木県に栃響があることの恩寵も思ってみるべきだよね。
大晦日にもう一度,第九の全楽章を聴く機会がある。当面,それを糧にして生きていくことができる(大げさに言えばね)。
● ここで大きく脱線。
その「カルメン」のときのエピソードといいますかね,終演後,観客の誰かが石原さんのミカエラを評して言った言葉が忘れられない。その人は・・・・・・「巨乳のミカエラ」と言ったのだ。
待て待て,誰かじゃなくて,それはおまえが言ったのだろう,と穿った見方をする人がいるかもしれない。鋭い洞察ではあるけれども,残念ながらそうではない。誰かが言ったのを聞いたのだ。ちなみに,そのときの会場はミューザ川崎だった。
● ソプラノに比べると,アルトは地味目で損(?)だ。が,秋本さん,とんでもない色気をまとっているように見えた。何かあったんだろうか。
彼女の声を聴くのは,これが5回目になるはずだ。印象に残っているのは4年前の藝祭。シュニトケ「オラトリオ長崎」でソリストを務めていた。
それから,栃響特別演奏会での「ふるさと」も。アカペラだったんだよな。
● ベートーヴェンが第九交響曲を残してくれた恩寵というものを思ってみる。この曲がある世界とない世界。
栃響の演奏も見事なもの。多少の事故がなくはなかったけれども,問題とするに足りない。たいしたものだよ。栃木県に栃響があることの恩寵も思ってみるべきだよね。
大晦日にもう一度,第九の全楽章を聴く機会がある。当面,それを糧にして生きていくことができる(大げさに言えばね)。
2017.12.16 Christmas Night-Jazz and Gospel
高根沢町 ちょっ蔵ホール
● 宝積寺駅東口のちょっ蔵ホールに初めて入った。東口ができる前は,大谷石の米倉があった。米倉をそっくり残したわけではないけれども,大谷石を残してホールに改造した。かの隈研吾さんの設計。
普段は,バンド好きの若者がここで練習している。高根沢町で若者がたむろしているほとんど唯一のスポットがここだ。
18時からジャズとゴスペルのコンサートがあったので行ってみた。わが家から徒歩13分。
● まずはジャズ。演奏するのは「SPEED STAR」というバンド。サックスとトランペット,ベース,ドラムス,キーボードの男性5人組。好きでやっている人たちだね。
● ジャズって輪郭がわからない。Wikipediaを読んでもよくわからない。クラシックなら,訳のわからない現代クラシックも含めて,ある程度の輪郭はつかめる(つもり)。
知識から入るのはよろしくない,まず聴いてみろ,ってことだよね。で,何度か聴いてはみてるんだけども,ジャズはとりとめがないという印象。
初期のメランコリックなメロディーのジャズとラテンジャズとの間に,何か共通点があるんだろうか。今日聴いたのは,ボーカル抜きのロックのようにも思えた。
● 以前,山下洋輔さんがどんな音楽でもジャズになると言ったのを聞いたことがある。たとえばバッハはジャズとの相性がいいと,実演してみせてくれた。そのときはなるほどと思ったんだけど・・・・・・
あまり聴いていないからだと思うんだけど,初めて聴いたときに染みてくるものがなければ,次に聴くこともないわけでね。
初期のジャズからCDを聴き始めてみようかと思わないでもないんだけど,クラシックだけでも聴ききれないのに,ジャズまで手を伸ばすことがなかなかできないまま,5年,10年と歳だけ取ってしまった。
● 疑問に思ったことがもうひとつあった。聴衆に手拍子を求めるんだよねぇ。これって何なんだ?
かなり昔,ジャズの演奏中に手拍子ってのはあり得なかったんじゃないか。ジャズと手拍子って水と油じゃなかったか。いつからこういうことになったんだろう。演奏される曲調が変わってきたってことなんだろうか。
皆さん,ノってください,楽しんでください,というわけなのだろうけど,大きなお世話だ。ノルときには言われなくても自然にノル。
● 後半はゴスペル。演奏したのは「Free Souls」。オヤジと7人の熟女たち。と,チャカしては申しわけないな。好きでやっていることがよく伝わってきた。熱っぽさがある。
そういうものを持てていること自体,羨ましい。幸せの半分は手にしているようなものだ(ただし,半分だけだ)。
● ゴスペルって初期ジャズの声楽版? ぼく的にはかなりジャズを感じた。ぼくのジャズ観がかなり古いのだろうな。
演奏の中に入っていくのに,困難は感じなかった。演奏する側も自分を乗せやすいだろう。ゴスペルが日本に入ってきてからだいぶ経つけれど,これを聴きたいという潜在需要はけっこうあるのじゃないかと思った。
● と,勝手なことを言ってきたけれど,“踊る阿呆”と“見る阿呆”を比べれば,常に必ず,“踊る阿呆”が上位だ。
踊ってみなければ気づけない諸々があるのだ。見ているだけでは盲点がそちこちにできるだろう。聴く側は,そこだけは心得ておかなければならない。
● 宝積寺駅東口のちょっ蔵ホールに初めて入った。東口ができる前は,大谷石の米倉があった。米倉をそっくり残したわけではないけれども,大谷石を残してホールに改造した。かの隈研吾さんの設計。
普段は,バンド好きの若者がここで練習している。高根沢町で若者がたむろしているほとんど唯一のスポットがここだ。
18時からジャズとゴスペルのコンサートがあったので行ってみた。わが家から徒歩13分。
● まずはジャズ。演奏するのは「SPEED STAR」というバンド。サックスとトランペット,ベース,ドラムス,キーボードの男性5人組。好きでやっている人たちだね。
● ジャズって輪郭がわからない。Wikipediaを読んでもよくわからない。クラシックなら,訳のわからない現代クラシックも含めて,ある程度の輪郭はつかめる(つもり)。
知識から入るのはよろしくない,まず聴いてみろ,ってことだよね。で,何度か聴いてはみてるんだけども,ジャズはとりとめがないという印象。
初期のメランコリックなメロディーのジャズとラテンジャズとの間に,何か共通点があるんだろうか。今日聴いたのは,ボーカル抜きのロックのようにも思えた。
● 以前,山下洋輔さんがどんな音楽でもジャズになると言ったのを聞いたことがある。たとえばバッハはジャズとの相性がいいと,実演してみせてくれた。そのときはなるほどと思ったんだけど・・・・・・
あまり聴いていないからだと思うんだけど,初めて聴いたときに染みてくるものがなければ,次に聴くこともないわけでね。
初期のジャズからCDを聴き始めてみようかと思わないでもないんだけど,クラシックだけでも聴ききれないのに,ジャズまで手を伸ばすことがなかなかできないまま,5年,10年と歳だけ取ってしまった。
● 疑問に思ったことがもうひとつあった。聴衆に手拍子を求めるんだよねぇ。これって何なんだ?
かなり昔,ジャズの演奏中に手拍子ってのはあり得なかったんじゃないか。ジャズと手拍子って水と油じゃなかったか。いつからこういうことになったんだろう。演奏される曲調が変わってきたってことなんだろうか。
皆さん,ノってください,楽しんでください,というわけなのだろうけど,大きなお世話だ。ノルときには言われなくても自然にノル。
● 後半はゴスペル。演奏したのは「Free Souls」。オヤジと7人の熟女たち。と,チャカしては申しわけないな。好きでやっていることがよく伝わってきた。熱っぽさがある。
そういうものを持てていること自体,羨ましい。幸せの半分は手にしているようなものだ(ただし,半分だけだ)。
● ゴスペルって初期ジャズの声楽版? ぼく的にはかなりジャズを感じた。ぼくのジャズ観がかなり古いのだろうな。
演奏の中に入っていくのに,困難は感じなかった。演奏する側も自分を乗せやすいだろう。ゴスペルが日本に入ってきてからだいぶ経つけれど,これを聴きたいという潜在需要はけっこうあるのじゃないかと思った。
● と,勝手なことを言ってきたけれど,“踊る阿呆”と“見る阿呆”を比べれば,常に必ず,“踊る阿呆”が上位だ。
踊ってみなければ気づけない諸々があるのだ。見ているだけでは盲点がそちこちにできるだろう。聴く側は,そこだけは心得ておかなければならない。
2017年12月12日火曜日
2017.12.10 モーツァルト合奏団 第19回定期演奏会
那須野が原ハーモニーホール 大ホール
● 小春日和の那須野が原ハーモニーホール。14時からモーツァルト合奏団の定期演奏会。入場無料。
● 曲目は次のとおり。
フォルクマン 弦楽セレナーデ第2番 ヘ長調
ヘンデル 合奏協奏曲 ト長調
モーツァルト 弦楽四重奏曲第8番 ヘ長調
メンデルスゾーン 弦楽のための交響曲第9番 ハ長調
● メンバーは那須フィルと重複している人がけっこういる。これは仕方がないところでしょうね。那須に限らず,普通にあることだし。
やけに上手い人もいる。ひょっとしてプロですか,と訊きたくなるような人が。
● 最初に聴いたフォルクマンの弦楽セレナーデがぼく的には収穫で,CDを探してみようと思う。
パンフレットの解説によれば,ドイツロマン派に属する作曲家。シューマンやブラームスなどのビッグネームの陰に入ってしまっている。ぼくも今日まで知らずにいた。
● 音楽史の時代区分はあまり気にしなくていいと思っている。時代を超えるのが天才というものだろうし,たとえば「第九」を聴くのに,ベートーヴェンが古典派からロマン派に移る時代の作曲家であり,ロマン派への道を拓いた功労者である,というようなことを知っている必要はほぼない。
が,この演奏を聴くと,なるほどフォルクマンはロマン派だなと思ったりする。
● ところが,これはダメなんだよね。ロマン派だと知って聴くからそう聞こえるだけなのかもしれないんですよ。
血液型占いと一緒だ。予め血液型を承知したうえで占い欄を見るから,当たっていると思うだけのこと。先に占い欄を読んで,どの血液型のものか当てろと言われると,なかなか難しい。実際には万人にあてはまるようなことしか書かれていないんだから。
● 弦楽のための交響曲はメンデルスゾーン14歳の作品。音楽に関しては,天才に大器晩成なし,ってことでしょうね。
天才とはこういうものかという見本のようなもの。自分と天才の間に架かる橋はないなぁと思うね。あるわけないやね。
● モーツァルトは弦楽四重奏曲は当然,弦楽合奏版。そこにたしかにモーツァルトがいる。ステージにモーツァルトが立ち現れる。
そう思わせるのは,曲と演奏の合作によるわけだけれども,そこにたしかにいると感じさせる作曲家は,モーツァルトをもって第一とする。
● このやり方でベートーヴェンの弦楽四重奏曲を演奏してくれないだろうか。1回に2曲演奏するとしても,終わるのに8年かかる。年に2回ずつやってもらうと4年で終わるんだが。
無理でしょうね,無理だよねぇ。
● 毎年,大晦日に上野の東京文化会館(の小ホール)で6曲くらいずつやっている。それを聴けばいいんだけど,同じ時間帯に大ホールでは「全九」をやっているのでね,どうしてもそちらに流れてしまうんだよねぇ。
ベートーヴェンの弦楽四重奏曲をチクルスでやってくれるとこ,ないかなぁ。CDでは聴くんだけど,ぼくの耳では隔靴掻痒なんだよね。CD→生,じゃなくて,まず生で聴いて,そのあとCDで聴くというのがいいなぁ。
● 終演後,入口を出たところでポスターを眺めていたら,ぼくと同年齢くらいの女性に声をかけられた。すごかったですねぇ,と。最後のメンデルスゾーンのことでしょうね。
でも,今年は人数が少なかったですね,いろいろ難しいんでしょうか,とも仰った。団体で活動するんだから,それはたしかにいろいろとね。
● ぼくは団体行動やグループ活動からは遠ざかっていたいと考えていて,ずっとそうしてきた。団体やグループは面倒くさい。友人とふたりというのはすでにして団体であるわけで,それすら忌避したいと思うところがある。
ので,団体で活動している人たちはそれだけで大したものだと思うんだけど,アンサンブルが決まったときの快感は,そうした面倒くささを引き受けさせるだけのインセンティブになるんでしょうね。
● 昨夜は10時間も布団の中にいたのに,鋭い睡魔がやってきたのなぜなのだ。寝すぎると昼間も眠たくなるのか。
これがじつは,メンデルスゾーンのときにやってきたのだ。ついに睡魔には勝てなかった。申しわけないことだった。
● 小春日和の那須野が原ハーモニーホール。14時からモーツァルト合奏団の定期演奏会。入場無料。
● 曲目は次のとおり。
フォルクマン 弦楽セレナーデ第2番 ヘ長調
ヘンデル 合奏協奏曲 ト長調
モーツァルト 弦楽四重奏曲第8番 ヘ長調
メンデルスゾーン 弦楽のための交響曲第9番 ハ長調
● メンバーは那須フィルと重複している人がけっこういる。これは仕方がないところでしょうね。那須に限らず,普通にあることだし。
やけに上手い人もいる。ひょっとしてプロですか,と訊きたくなるような人が。
● 最初に聴いたフォルクマンの弦楽セレナーデがぼく的には収穫で,CDを探してみようと思う。
パンフレットの解説によれば,ドイツロマン派に属する作曲家。シューマンやブラームスなどのビッグネームの陰に入ってしまっている。ぼくも今日まで知らずにいた。
● 音楽史の時代区分はあまり気にしなくていいと思っている。時代を超えるのが天才というものだろうし,たとえば「第九」を聴くのに,ベートーヴェンが古典派からロマン派に移る時代の作曲家であり,ロマン派への道を拓いた功労者である,というようなことを知っている必要はほぼない。
が,この演奏を聴くと,なるほどフォルクマンはロマン派だなと思ったりする。
● ところが,これはダメなんだよね。ロマン派だと知って聴くからそう聞こえるだけなのかもしれないんですよ。
血液型占いと一緒だ。予め血液型を承知したうえで占い欄を見るから,当たっていると思うだけのこと。先に占い欄を読んで,どの血液型のものか当てろと言われると,なかなか難しい。実際には万人にあてはまるようなことしか書かれていないんだから。
● 弦楽のための交響曲はメンデルスゾーン14歳の作品。音楽に関しては,天才に大器晩成なし,ってことでしょうね。
天才とはこういうものかという見本のようなもの。自分と天才の間に架かる橋はないなぁと思うね。あるわけないやね。
● モーツァルトは弦楽四重奏曲は当然,弦楽合奏版。そこにたしかにモーツァルトがいる。ステージにモーツァルトが立ち現れる。
そう思わせるのは,曲と演奏の合作によるわけだけれども,そこにたしかにいると感じさせる作曲家は,モーツァルトをもって第一とする。
● このやり方でベートーヴェンの弦楽四重奏曲を演奏してくれないだろうか。1回に2曲演奏するとしても,終わるのに8年かかる。年に2回ずつやってもらうと4年で終わるんだが。
無理でしょうね,無理だよねぇ。
● 毎年,大晦日に上野の東京文化会館(の小ホール)で6曲くらいずつやっている。それを聴けばいいんだけど,同じ時間帯に大ホールでは「全九」をやっているのでね,どうしてもそちらに流れてしまうんだよねぇ。
ベートーヴェンの弦楽四重奏曲をチクルスでやってくれるとこ,ないかなぁ。CDでは聴くんだけど,ぼくの耳では隔靴掻痒なんだよね。CD→生,じゃなくて,まず生で聴いて,そのあとCDで聴くというのがいいなぁ。
小春日和の那須野が原ハーモニーホール |
でも,今年は人数が少なかったですね,いろいろ難しいんでしょうか,とも仰った。団体で活動するんだから,それはたしかにいろいろとね。
● ぼくは団体行動やグループ活動からは遠ざかっていたいと考えていて,ずっとそうしてきた。団体やグループは面倒くさい。友人とふたりというのはすでにして団体であるわけで,それすら忌避したいと思うところがある。
ので,団体で活動している人たちはそれだけで大したものだと思うんだけど,アンサンブルが決まったときの快感は,そうした面倒くささを引き受けさせるだけのインセンティブになるんでしょうね。
● 昨夜は10時間も布団の中にいたのに,鋭い睡魔がやってきたのなぜなのだ。寝すぎると昼間も眠たくなるのか。
これがじつは,メンデルスゾーンのときにやってきたのだ。ついに睡魔には勝てなかった。申しわけないことだった。
2017年12月11日月曜日
2017.12.07 宇都宮短期大学-まちなかクリスマス・コンサート
宇都宮共和大学 エントランスホール
● 18時開演(入場無料)なんだけど,その30分前に「Mix bell」というボーカルユニットが登場するというのでね,それに間に合うように行ったんですけど。
その「Mix bell」っていうのがちょっと不思議でね。っていうか,よくわからなくてね。
知ってる人にはお馴染みなんだろうけど,最初,宇短大と附属高校の学生なんだろうと思ったんですよ。あどけなさを残した子もいるしね。
それにしては堂に入りすぎてるなぁと思ってね。
● 宇短大とは何の関係もなかったんですね。とちぎTVや栃木放送でレギュラー番組を持ってるらしい。学校に通いながら活動している子もいるんでしょ。頑張ってますなぁ。
かわいらしい女子4人組のユニット。これからたぶん,何度か目(耳)にする機会がありそうだ。
● お子さんもOK,ケータイの電源切らなくよし,飲み食い禁止もなし(主催者がお菓子を配っていたくらいだ。さすがにビールを飲みながら聴くのはダメだろうけど)。堅いことはなしのアットホームなミニ演奏会。音楽の楽しみ方としては,こちらの方が正統かもしれないね。
このコンサートは宇短大の広報行事でもあるんだろうけど,音楽科の強みってあるね。わかりやすくアピールできる。
● 演奏したのは宇短大音楽科の2年生と教員。プログラムは次のとおり。
トランペット独奏(トランペット 福田みなみ ピアノ伴奏 小倉賛子)
バーナード ウィンター・ワンダーランド
フルート独奏(フルート 小牧茄央里 ピアノ伴奏 香川瑞葉)
ハーライン 星に願いを
坂本龍一 戦場のメリークリスマス
ピアノ独奏(小倉賛子)
シューマン 主題と5つの変奏曲
マリンバ独奏(古川黎菜)
安倍圭子 愛の喜びのモノローグ
イギリス民謡 We wish you a merry Christmas
ソプラノ独唱(ソプラノ 鎌田亮子 ピアノ伴奏 益子徹)
ヴァヴィロフ カッチーニのアヴェマリア
バッハ/グノー アヴェマリア
アダン さやかに星はきらめき
● 知名度があるというか,たいていの人はどこかで聴いたことがある曲の中にあって,シューマン「主題と5つの変奏曲」だけが例外。
シューマンの遺作と言われているものですね。凄まじいまでの精神の強靱さ。このあと,シューマンは晩年の悲劇に墜ちていくことになるんだけど,梅毒が嵩じた結果だとすると,その梅毒はクララには感染しなかったんだろうかとも思うんだよね。
● 最後のソプラノとピアノ伴奏は教員によるもの。鎌田亮子さんの“アヴェマリア”はさすがと言いますか,ソプラノって感じがしたと言いますか,柔らかい響きで陶然となっちゃいましたよ。
● 終演後,ホットワインとソフトドリンクがふるまわれた。さすがに,そこは遠慮して帰宅の途についた。ぼくはこの大学の卒業生でもないし,これからこの大学や附属高校に入るかもしれない子どもがいるわけでもないので。
それ以上に性格でしょうね。ここは甘えた方がいいのかもしれないんだよね。けど,大学のスタッフと喋ることが何もない。この催しについて気の利いたことを話し言葉にできればいいんだけど,そういうのが苦手でね。ぼくはサロンの人ではないのだろうなぁ。
● 18時開演(入場無料)なんだけど,その30分前に「Mix bell」というボーカルユニットが登場するというのでね,それに間に合うように行ったんですけど。
その「Mix bell」っていうのがちょっと不思議でね。っていうか,よくわからなくてね。
知ってる人にはお馴染みなんだろうけど,最初,宇短大と附属高校の学生なんだろうと思ったんですよ。あどけなさを残した子もいるしね。
それにしては堂に入りすぎてるなぁと思ってね。
● 宇短大とは何の関係もなかったんですね。とちぎTVや栃木放送でレギュラー番組を持ってるらしい。学校に通いながら活動している子もいるんでしょ。頑張ってますなぁ。
かわいらしい女子4人組のユニット。これからたぶん,何度か目(耳)にする機会がありそうだ。
● お子さんもOK,ケータイの電源切らなくよし,飲み食い禁止もなし(主催者がお菓子を配っていたくらいだ。さすがにビールを飲みながら聴くのはダメだろうけど)。堅いことはなしのアットホームなミニ演奏会。音楽の楽しみ方としては,こちらの方が正統かもしれないね。
このコンサートは宇短大の広報行事でもあるんだろうけど,音楽科の強みってあるね。わかりやすくアピールできる。
● 演奏したのは宇短大音楽科の2年生と教員。プログラムは次のとおり。
トランペット独奏(トランペット 福田みなみ ピアノ伴奏 小倉賛子)
バーナード ウィンター・ワンダーランド
フルート独奏(フルート 小牧茄央里 ピアノ伴奏 香川瑞葉)
ハーライン 星に願いを
坂本龍一 戦場のメリークリスマス
ピアノ独奏(小倉賛子)
シューマン 主題と5つの変奏曲
マリンバ独奏(古川黎菜)
安倍圭子 愛の喜びのモノローグ
イギリス民謡 We wish you a merry Christmas
ソプラノ独唱(ソプラノ 鎌田亮子 ピアノ伴奏 益子徹)
ヴァヴィロフ カッチーニのアヴェマリア
バッハ/グノー アヴェマリア
アダン さやかに星はきらめき
● 知名度があるというか,たいていの人はどこかで聴いたことがある曲の中にあって,シューマン「主題と5つの変奏曲」だけが例外。
シューマンの遺作と言われているものですね。凄まじいまでの精神の強靱さ。このあと,シューマンは晩年の悲劇に墜ちていくことになるんだけど,梅毒が嵩じた結果だとすると,その梅毒はクララには感染しなかったんだろうかとも思うんだよね。
● 最後のソプラノとピアノ伴奏は教員によるもの。鎌田亮子さんの“アヴェマリア”はさすがと言いますか,ソプラノって感じがしたと言いますか,柔らかい響きで陶然となっちゃいましたよ。
● 終演後,ホットワインとソフトドリンクがふるまわれた。さすがに,そこは遠慮して帰宅の途についた。ぼくはこの大学の卒業生でもないし,これからこの大学や附属高校に入るかもしれない子どもがいるわけでもないので。
それ以上に性格でしょうね。ここは甘えた方がいいのかもしれないんだよね。けど,大学のスタッフと喋ることが何もない。この催しについて気の利いたことを話し言葉にできればいいんだけど,そういうのが苦手でね。ぼくはサロンの人ではないのだろうなぁ。
2017年12月5日火曜日
2017.12.03 真岡市民交響楽団 第56回定期演奏会
真岡市民会館 大ホール
● 開演は午後2時。今までは夜の開催が多かったように記憶しているのだが,今回は昼間。チケットは500円。当日券を購入した。
● 今回は1階右翼席に座ってみた。大ホールの8割は埋まっていたろうか。1階席はほぼ満席。真岡のような地方都市でも,こうしたオーケストラの演奏会にこれだけのお客が入る。
入場料がワンコインとしても,これってすごいことなんじゃなかろうか(招待客がけっこういるんだろうか)。真岡だけが特別のはずはないから,日本全国,どこでもそうなのだろう。日本以外にこういう国ってあるんだろうか。
● 曲目は次のとおり。指揮は佐藤和男さん。
ウェーバー オベロン序曲
シューマン チェロ協奏曲
ブラームス 交響曲第1番
● 年2回の定演のうち,今年も春の定演は聴きそびれてしまった。ので,比較対象は昨年の冬の演奏会になるんだけど,変わったのは開催時刻だけではない。コンミスが変わっていた。上保朋子さん。ゲストコンサートミストレスってことなんだけど,次回以降はどうなるんだろう。
コンミス以外にもメンバーの入れ替えがけっこうあったのかもしれない。
● ソリストの佐山裕樹さんは栃木出身のチェロ界の若き新星。栃木県ってチェロ奏者を輩出するところなんですかねぇ。宮田大,金子鈴太郎,玉川克といるんですけどね。
佐山さんの演奏を初めて聴いたのは,彼が出場したコンセールマロニエ。彼は高校生だった。その後,もう一度,聴いているので,これが3回目。
ウットリするしかない。ウットリしすぎて,時々,空想の世界に遊んでしまう。
アンコールはバッハの無伴奏チェロ組曲第3番から“ブーレ”。静謐きわまる。
● ところで。パンフレット冊子に楽屋話を載せたチラシが挟まっていた。佐山さんをして“やはり本物は違う”と評しているんだけど,ということは,自分たちは本物ではない? 本物でなければ何なのだ? 偽物?
ここはね,あまり考えない方がいいよね。考えてるのではなくて,単に驚いているだけなんだろうけど,考えても仕方がないことは考えないですます,というのは,人間をやっていくうえでかなり大事なノウハウのひとつだと思うよ。
● 技術は演奏の重要な要素であることはたしかで,技術なしに演奏は成立しない。そうではあるんだけれども,技術は演奏のすべてではなくて,要素のひとつにすぎない。
演奏って楽譜を機械的に音に翻訳する作業じゃないでしょ。れっきとした創造行為でしょ。創造であるなら,技術以外に必ずつけいる隙があるんですよ。
● メンバーが替わっても,真岡オケの身上は“一生懸命”。“一生懸命”を見るのは,それ自体が悦楽だ。
どんなオケでも一生懸命にやっているんだろうけれども,ここの一生懸命さはわかりやすく伝わってくる。今回はオーボエがそれを代表していた感あり。
ここまでやってくれればね,あえて結果は問うところではない。ってことにはならないけれど,結果にも文句を付けるところはない。
強いていえば,ブラームスで金管が音を出しすぎると思うところがあったんだけど,それってCDを聴いて作ってしまったイメージがモノサシになっている。CDの録音がリアルとは違っているかもね。じつはこれくらい出すのが正統なのかもしれない。
● 栃木県にはプロのオーケストラはない。群馬には群馬交響楽団があり,茨城には常設ではない(と思う)けれども,水戸室内管弦楽団という途方もない水準の楽団がある。
だから,栃木にもプロのオーケストラを作るべきだという意見もなくはないんだけど,これだけ日本は狭くなっているんだから,県域にこだわるなんてまったくナンセンスだ。こちらが県域をまたいで動けばいいだけのこと。
● アマチュアの演奏活動が圧倒的に隆盛なのが日本の特徴で,その水準には端倪すべからざるものがある。
真岡市民交響楽団もそのひとつで,この演奏を聴いて何らかの不足感を覚えることは,ぼくの場合はあまりないわけだ。
あとは,オーディオ環境をそれなりに整えて(といっても,今どきだったらミニコンポで充分だと思うが)CDを聴けばいい。聴く人が聴けば,CDからでも充分な情報を拾えるはずだ。
急いで付け加えておくんだけど,ぼく自身は「CDからでも充分な情報を拾える」人では,どうやらないっぽい。それゆえ,わりと頻繁に生演奏に接したくなるのだ。
● オケのアンコールは,ブラームスのハンガリー舞曲第1番。これで今年が終わってもいいと思った。
けど,まだ3日だ。予定ではあと9回,聴きに行く。師走で世の人たちは慌ただしいほどに忙しいだろう。申しわけないようなものだけど,ぼくはそれだけ暇なんだな。
学生の頃は“旗本退屈男”と呼ばれていたんですよ,ぼく。三つ子の魂じゃないけど,そういうのって年寄りになっても変わらんもんだね。
● 開演は午後2時。今までは夜の開催が多かったように記憶しているのだが,今回は昼間。チケットは500円。当日券を購入した。
● 今回は1階右翼席に座ってみた。大ホールの8割は埋まっていたろうか。1階席はほぼ満席。真岡のような地方都市でも,こうしたオーケストラの演奏会にこれだけのお客が入る。
入場料がワンコインとしても,これってすごいことなんじゃなかろうか(招待客がけっこういるんだろうか)。真岡だけが特別のはずはないから,日本全国,どこでもそうなのだろう。日本以外にこういう国ってあるんだろうか。
● 曲目は次のとおり。指揮は佐藤和男さん。
ウェーバー オベロン序曲
シューマン チェロ協奏曲
ブラームス 交響曲第1番
● 年2回の定演のうち,今年も春の定演は聴きそびれてしまった。ので,比較対象は昨年の冬の演奏会になるんだけど,変わったのは開催時刻だけではない。コンミスが変わっていた。上保朋子さん。ゲストコンサートミストレスってことなんだけど,次回以降はどうなるんだろう。
コンミス以外にもメンバーの入れ替えがけっこうあったのかもしれない。
● ソリストの佐山裕樹さんは栃木出身のチェロ界の若き新星。栃木県ってチェロ奏者を輩出するところなんですかねぇ。宮田大,金子鈴太郎,玉川克といるんですけどね。
佐山さんの演奏を初めて聴いたのは,彼が出場したコンセールマロニエ。彼は高校生だった。その後,もう一度,聴いているので,これが3回目。
ウットリするしかない。ウットリしすぎて,時々,空想の世界に遊んでしまう。
アンコールはバッハの無伴奏チェロ組曲第3番から“ブーレ”。静謐きわまる。
● ところで。パンフレット冊子に楽屋話を載せたチラシが挟まっていた。佐山さんをして“やはり本物は違う”と評しているんだけど,ということは,自分たちは本物ではない? 本物でなければ何なのだ? 偽物?
ここはね,あまり考えない方がいいよね。考えてるのではなくて,単に驚いているだけなんだろうけど,考えても仕方がないことは考えないですます,というのは,人間をやっていくうえでかなり大事なノウハウのひとつだと思うよ。
● 技術は演奏の重要な要素であることはたしかで,技術なしに演奏は成立しない。そうではあるんだけれども,技術は演奏のすべてではなくて,要素のひとつにすぎない。
演奏って楽譜を機械的に音に翻訳する作業じゃないでしょ。れっきとした創造行為でしょ。創造であるなら,技術以外に必ずつけいる隙があるんですよ。
● メンバーが替わっても,真岡オケの身上は“一生懸命”。“一生懸命”を見るのは,それ自体が悦楽だ。
どんなオケでも一生懸命にやっているんだろうけれども,ここの一生懸命さはわかりやすく伝わってくる。今回はオーボエがそれを代表していた感あり。
ここまでやってくれればね,あえて結果は問うところではない。ってことにはならないけれど,結果にも文句を付けるところはない。
強いていえば,ブラームスで金管が音を出しすぎると思うところがあったんだけど,それってCDを聴いて作ってしまったイメージがモノサシになっている。CDの録音がリアルとは違っているかもね。じつはこれくらい出すのが正統なのかもしれない。
● 栃木県にはプロのオーケストラはない。群馬には群馬交響楽団があり,茨城には常設ではない(と思う)けれども,水戸室内管弦楽団という途方もない水準の楽団がある。
だから,栃木にもプロのオーケストラを作るべきだという意見もなくはないんだけど,これだけ日本は狭くなっているんだから,県域にこだわるなんてまったくナンセンスだ。こちらが県域をまたいで動けばいいだけのこと。
● アマチュアの演奏活動が圧倒的に隆盛なのが日本の特徴で,その水準には端倪すべからざるものがある。
真岡市民交響楽団もそのひとつで,この演奏を聴いて何らかの不足感を覚えることは,ぼくの場合はあまりないわけだ。
あとは,オーディオ環境をそれなりに整えて(といっても,今どきだったらミニコンポで充分だと思うが)CDを聴けばいい。聴く人が聴けば,CDからでも充分な情報を拾えるはずだ。
急いで付け加えておくんだけど,ぼく自身は「CDからでも充分な情報を拾える」人では,どうやらないっぽい。それゆえ,わりと頻繁に生演奏に接したくなるのだ。
● オケのアンコールは,ブラームスのハンガリー舞曲第1番。これで今年が終わってもいいと思った。
けど,まだ3日だ。予定ではあと9回,聴きに行く。師走で世の人たちは慌ただしいほどに忙しいだろう。申しわけないようなものだけど,ぼくはそれだけ暇なんだな。
学生の頃は“旗本退屈男”と呼ばれていたんですよ,ぼく。三つ子の魂じゃないけど,そういうのって年寄りになっても変わらんもんだね。
2017.12.02 第8回音楽大学オーケストラ・フェスティバル 東邦音楽大学・国立音楽大学・洗足学園音楽大学
ミューザ川崎 シンフォニーホール
● 12月は忙しい。仕事じゃなくて,休日がね。なぜなら,年末は「第九」がもうこの国の民俗行事になっているけれども,「第九」以外にもコンサートが増える時期ですよね。可能な限り,付き合うことにしているもので。
まず,今日は首都圏の音大フェス。計4日間で開催されるこの催し,今日が最終日。結局,ぼくが聴いたのは半分にとどまった。
● まず,このホール(ミューザ川崎)について語っておかなければならない。いや,“ならない”ってこともないんだけど,語っておきたい。
要するに,いいホールですよね。演奏する側にとってどうなのかはわからないけれど,聴く側にすると相当聴きやすい。ぼくの限られた体験の範囲内でいうと,最も聴きやすいホールがここだ。
勾配があるので,前の人の頭が視界に入らない。ぼくも座高の人なので,後ろの人に気を遣わなくてすむのは助かる。
● 建物じたいの構造が柔らかくできているんだろうか。音の響きも柔らかいと感じる。同じ奏者がこのホールで演奏すると,香車一枚分だけ巧くなったと感じるのではあるまいか。
要するに,かのサントリーホールよりもここミューザの方がカンファタブルだ。
● さらに。ぼくのような北関東の在住者にとっては,上野東京ラインの開通によって川崎が一気に近くなった。しかも,駅前にあるんだから,物理的にもサントリーホールよりミューザの方が,物理的にも近いのだ。
聴きたいコンサートを選ぶとき,ホールはどこかっていうのも選択を左右する要素になる。ホールがミューザってことになれば,それだけで聴きに行こうかと思うかもなぁ。
● 開演は午後3時。チケットはお得すぎる1,000円。東京芸術劇場のネット販売を利用。セブンイレブンで受け取る。“ぴあ”を使うより手数料が216円安くなる。セコくてすまんが。
今回登場するのは,東邦音楽大学,国立音楽大学,洗足学園音楽大学。それぞれ,ドヴォルザーク8番,ブラームス2番,マーラー1番を演奏。
● まずは,東邦。指揮は梅田俊明さん。
演奏する彼らにしても,同じメンバーで演奏できる機会は,この先二度とないだろう。当然,聴く側のぼくらもこの演奏は二度と聴くことができないものだ。たった一回の巡り合わせ。一期一会を強く思わせる。
逆にそう思って聴くせいか,妙にセンチメンタルな気分になる。切なくなってくる。
● ぼくの席はいわゆるP席に近い場所だった。演奏中,指揮者の顔が見える。指揮者って,まず肉体労働者なんだよねぇ。これは,身体を鍛えておかないとダメだわ。
これだけ動いているんだから汗をかくよねぇ。しかも襟の開いた軽装でやってるんじゃない。しかし,汗を見せない。これは巧妙というべきなのだろうか。
指揮者って容赦ないものだってのもわかる。奏者とすれば,演奏を止めて,指揮台にツカツカと歩み寄って,指揮者の首を絞めてやりたい,と思うことはないんだろうか。
● この席だと,弦よりも管が近くなるんだけど,それによって聞こえてくる音に違和感を感じることはまったくない。
フルートの男子学生が目立っていた。木管奏者の動きがよく見えるのは,この席の役得だ。ぼくの席だと,金管は視野から消えてしまうのだが。
● 第3楽章はスウィーティーな舞曲で,自分もどこぞの色白美女と踊っているような気分に染められるんだけど,演奏する方はスウィーティーどころじゃない。弦の奏者は忙しく左指を動かしている。必死こいているというのは失礼すぎる言い方かもしれないけれど,アヒルの水掻きという言葉を思いだした。
曲の骨格が浮きでてくるような,くっきりとしたクリアな演奏。ノイズがないからくっきりと聞こえる。さすがは音大の高水準。ここまでの演奏を聴ける機会はそんなにない(ぼくの場合は)。
● 国立音大のブラームス2番。指揮は尾高忠明さん。
1番が苦節20年なのに対して,2番は4ヶ月で仕上がった。だから1番より軽いし,ゴツゴツしていない,おおらかで伸びやかだ,と言われる。
実際そうなんだろうけど,ぼくの耳ではそのあたりの対比というのが,いまいちピンと来ない。1番も2番もCDを含めれば数え切れないほど聴いているはずなんだけど,その対比を聴き取れていない。
2番も沈鬱な苦渋を感じるところが多い。時に豪華絢爛もあり,たゆたうような穏やかさを感じる楽章もあるんだけど,全体の印象は1番とさほど変わらないというかなぁ。
● オーボエの女子学生が目立った。プレッシャーもあったろうけど,美味しかったと思うな。
この曲だとやはりオーボエですか。オーボエが彼女だからこの曲を選んだってことではないんだろうけどね。
● 洗足はマーラー。指揮は秋山和慶さん。尾高さんにしろ,秋山さんにしろ,功成り名を遂げた日本を代表する指揮者。彼らの指揮ぶりに接する機会も,ぼくの場合はほぼないので,この音大フェスはありがたい。
指揮者って長命でしかも最後まで現役って人が多い印象なんだけど,それもわかる気がする。これじゃ年なんか取ってられないっていうかね。
指揮者以外の職業に就いている人でも,このあたりは大いに参考になるかもしれない。仕事の細かいことで頭をいっぱいにして,始終動いていればいいのだ。
もっとも,それをやると老害と言われることが多いのが,ぼくらの職業のほとんどだろう。ひょっとしたら,指揮者でもそう言われているのかもしれないけど,実際問題としてお座敷がかかるんだからね。
● マーラーなんだから,打楽器を中心に編隊が大きくなる。ティンパニが淡々とテンポを刻んで舞台を維持する。淡々というのが,しかし,できそうでなかなかできない(のじゃないか)。
気持ちをできる限り平らにして,あるいは小さく(細かく)して,時を刻んでいくという。
● 初めてこの曲を聴いたときの印象は,“鄙”だった。田舎びている,素朴である,日向の臭いがする,そういう印象だった。
じつは今でもそこからあまり出ていないんだけど,その鄙の中に,あるいは鄙と鄙とのつなぎ目に,マーラーの洗練が見えるようにも思える。
しょせんは,聴き手の器量以上の聴き方はできない。目下のぼくの器量はそんなところだ。
● 彼らのうち,プロの世界に行く人が何人いるのかは知らない。大学の専攻と社会に出てからの仕事の間に関連がある方が珍しいから,音大卒といえども音楽の世界ではないところで生きていくこと自体は,別に異とするに足りない。
しかし,音大生の場合,どうしてもそこを考えてしまうのも事実であって,それはなぜかといえば,大学での元手のかけ方が違うからだろう。経済学部や文学部の学生が大学で学んでいるとは誰も思っていない。遊んでいるのだと思っている。学んでいるとしても,大したことはやっていない。自分も経験しているからよくわかる。
● しかし,音大生は違う。音楽だけをやっている。実際には違うかもしれないけれど,そういうイメージがある。しかも,音楽なのだ。つぶしが利かないのだ。
実際はね,藝大を出てソニーの社長になった人だっているんだから,大学で何をやった(やらなかった)とか,つぶしが利くとか利かないとか,そんなのは一切無関係だってのはわかるんだけどね。
それでも,彼らのこれからの行く末に思いをいたさせるのも,音楽の持つ魔力のひとつなのかと思った。
● 12月は忙しい。仕事じゃなくて,休日がね。なぜなら,年末は「第九」がもうこの国の民俗行事になっているけれども,「第九」以外にもコンサートが増える時期ですよね。可能な限り,付き合うことにしているもので。
まず,今日は首都圏の音大フェス。計4日間で開催されるこの催し,今日が最終日。結局,ぼくが聴いたのは半分にとどまった。
● まず,このホール(ミューザ川崎)について語っておかなければならない。いや,“ならない”ってこともないんだけど,語っておきたい。
要するに,いいホールですよね。演奏する側にとってどうなのかはわからないけれど,聴く側にすると相当聴きやすい。ぼくの限られた体験の範囲内でいうと,最も聴きやすいホールがここだ。
勾配があるので,前の人の頭が視界に入らない。ぼくも座高の人なので,後ろの人に気を遣わなくてすむのは助かる。
● 建物じたいの構造が柔らかくできているんだろうか。音の響きも柔らかいと感じる。同じ奏者がこのホールで演奏すると,香車一枚分だけ巧くなったと感じるのではあるまいか。
要するに,かのサントリーホールよりもここミューザの方がカンファタブルだ。
● さらに。ぼくのような北関東の在住者にとっては,上野東京ラインの開通によって川崎が一気に近くなった。しかも,駅前にあるんだから,物理的にもサントリーホールよりミューザの方が,物理的にも近いのだ。
聴きたいコンサートを選ぶとき,ホールはどこかっていうのも選択を左右する要素になる。ホールがミューザってことになれば,それだけで聴きに行こうかと思うかもなぁ。
● 開演は午後3時。チケットはお得すぎる1,000円。東京芸術劇場のネット販売を利用。セブンイレブンで受け取る。“ぴあ”を使うより手数料が216円安くなる。セコくてすまんが。
今回登場するのは,東邦音楽大学,国立音楽大学,洗足学園音楽大学。それぞれ,ドヴォルザーク8番,ブラームス2番,マーラー1番を演奏。
● まずは,東邦。指揮は梅田俊明さん。
演奏する彼らにしても,同じメンバーで演奏できる機会は,この先二度とないだろう。当然,聴く側のぼくらもこの演奏は二度と聴くことができないものだ。たった一回の巡り合わせ。一期一会を強く思わせる。
逆にそう思って聴くせいか,妙にセンチメンタルな気分になる。切なくなってくる。
● ぼくの席はいわゆるP席に近い場所だった。演奏中,指揮者の顔が見える。指揮者って,まず肉体労働者なんだよねぇ。これは,身体を鍛えておかないとダメだわ。
これだけ動いているんだから汗をかくよねぇ。しかも襟の開いた軽装でやってるんじゃない。しかし,汗を見せない。これは巧妙というべきなのだろうか。
指揮者って容赦ないものだってのもわかる。奏者とすれば,演奏を止めて,指揮台にツカツカと歩み寄って,指揮者の首を絞めてやりたい,と思うことはないんだろうか。
● この席だと,弦よりも管が近くなるんだけど,それによって聞こえてくる音に違和感を感じることはまったくない。
フルートの男子学生が目立っていた。木管奏者の動きがよく見えるのは,この席の役得だ。ぼくの席だと,金管は視野から消えてしまうのだが。
● 第3楽章はスウィーティーな舞曲で,自分もどこぞの色白美女と踊っているような気分に染められるんだけど,演奏する方はスウィーティーどころじゃない。弦の奏者は忙しく左指を動かしている。必死こいているというのは失礼すぎる言い方かもしれないけれど,アヒルの水掻きという言葉を思いだした。
曲の骨格が浮きでてくるような,くっきりとしたクリアな演奏。ノイズがないからくっきりと聞こえる。さすがは音大の高水準。ここまでの演奏を聴ける機会はそんなにない(ぼくの場合は)。
● 国立音大のブラームス2番。指揮は尾高忠明さん。
1番が苦節20年なのに対して,2番は4ヶ月で仕上がった。だから1番より軽いし,ゴツゴツしていない,おおらかで伸びやかだ,と言われる。
実際そうなんだろうけど,ぼくの耳ではそのあたりの対比というのが,いまいちピンと来ない。1番も2番もCDを含めれば数え切れないほど聴いているはずなんだけど,その対比を聴き取れていない。
2番も沈鬱な苦渋を感じるところが多い。時に豪華絢爛もあり,たゆたうような穏やかさを感じる楽章もあるんだけど,全体の印象は1番とさほど変わらないというかなぁ。
● オーボエの女子学生が目立った。プレッシャーもあったろうけど,美味しかったと思うな。
この曲だとやはりオーボエですか。オーボエが彼女だからこの曲を選んだってことではないんだろうけどね。
● 洗足はマーラー。指揮は秋山和慶さん。尾高さんにしろ,秋山さんにしろ,功成り名を遂げた日本を代表する指揮者。彼らの指揮ぶりに接する機会も,ぼくの場合はほぼないので,この音大フェスはありがたい。
指揮者って長命でしかも最後まで現役って人が多い印象なんだけど,それもわかる気がする。これじゃ年なんか取ってられないっていうかね。
指揮者以外の職業に就いている人でも,このあたりは大いに参考になるかもしれない。仕事の細かいことで頭をいっぱいにして,始終動いていればいいのだ。
もっとも,それをやると老害と言われることが多いのが,ぼくらの職業のほとんどだろう。ひょっとしたら,指揮者でもそう言われているのかもしれないけど,実際問題としてお座敷がかかるんだからね。
● マーラーなんだから,打楽器を中心に編隊が大きくなる。ティンパニが淡々とテンポを刻んで舞台を維持する。淡々というのが,しかし,できそうでなかなかできない(のじゃないか)。
気持ちをできる限り平らにして,あるいは小さく(細かく)して,時を刻んでいくという。
● 初めてこの曲を聴いたときの印象は,“鄙”だった。田舎びている,素朴である,日向の臭いがする,そういう印象だった。
じつは今でもそこからあまり出ていないんだけど,その鄙の中に,あるいは鄙と鄙とのつなぎ目に,マーラーの洗練が見えるようにも思える。
しょせんは,聴き手の器量以上の聴き方はできない。目下のぼくの器量はそんなところだ。
● 彼らのうち,プロの世界に行く人が何人いるのかは知らない。大学の専攻と社会に出てからの仕事の間に関連がある方が珍しいから,音大卒といえども音楽の世界ではないところで生きていくこと自体は,別に異とするに足りない。
しかし,音大生の場合,どうしてもそこを考えてしまうのも事実であって,それはなぜかといえば,大学での元手のかけ方が違うからだろう。経済学部や文学部の学生が大学で学んでいるとは誰も思っていない。遊んでいるのだと思っている。学んでいるとしても,大したことはやっていない。自分も経験しているからよくわかる。
● しかし,音大生は違う。音楽だけをやっている。実際には違うかもしれないけれど,そういうイメージがある。しかも,音楽なのだ。つぶしが利かないのだ。
実際はね,藝大を出てソニーの社長になった人だっているんだから,大学で何をやった(やらなかった)とか,つぶしが利くとか利かないとか,そんなのは一切無関係だってのはわかるんだけどね。
それでも,彼らのこれからの行く末に思いをいたさせるのも,音楽の持つ魔力のひとつなのかと思った。
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