2018年8月31日金曜日

2018.08.26 ミューザ川崎市民交響楽祭2018

ミューザ川崎 シンフォニーホール

● コンサートは相変わらず聴いている。地元で聴くのが少なくなって,首都圏で聴く方が多くなっているんだけど,そのあたりは,ま,流れに任せる。
 問題は,それをブログ化するのに力が入らなくなっていることだ。どうも力が入らない。
 なぜそうなるのか。ひとつのコンサートを聴いて,そこから拾えるものが少なくなっているからだろう。

● 以前から演奏そのものについての記述は少なかったと思う。その曲について,楽譜について,楽章のつながりについて,作曲家について,曲が生まれた時代背景について,演奏の難所について,ペース配分について。そうしたものは,演奏する側の方が圧倒的に勉強している。
 聴く側が口を挟むことではない。演奏じたいについてこちらが言えることは,もともとさほどに多いはずがない。分は弁えなければいけない。

● 以前は周辺の話題を拾えていた(と思う)。が,今はそれすらできなくなった。こちら側の“対する態度”が甘くなっているのだ。
 そこは自覚しているのだけど,ではどうすればそこから脱出できるのかがわからない。もし,今のまま終始するのであれば,聴きに行くのはいいとしても,ブログを書くのはやめなければいけないと思う。
 つまり,益体がないからだ。そんな状態でわざわざブログにするのは時間のムダだ。自分にとっても益がない。

● ブログ化するのに時間がかかるようになった。聴いてから2週間以上も間があくのが普通になった。そんなに長く,記憶にとどめていられるはずがないじゃないか。はずがないことをやっているのは,自分で記憶をでっちあげている可能性も考えないといけない。
 さらに,ブログが短くなっている。短くなっているのに,その過半でお茶をにごしている。それは自分でわかっているから,書いていてイヤになるし,読み返すともっと憂鬱になる。
 何だか,悪循環だな。何が悪いんだか。そもそも,音楽を聴くという行為を必要としなくなっているんだろうかなぁ。

● というようなことを思いながら,今日はミューザに出かけた。演奏するのは“かわさき市民オーケストラ2018”。名前から推測できるように,常設のオケではない。川崎市に4つある市民オケの合同チームらしい。
 ミューザは世界に通用するホールだと思うのだが,オーナーは川崎市。市民オケの振興も仕事のひとつというわけだろう。といって,行政がヘタに介入するとロクな結果にならないから,その辺はうまくやってもらいたいものだと,遠く僻遠の地から祈りたいぞ。

● ともかく,その合同チームの演奏。開演は午後2時。当日券を買って入場。かなりいい席に着座できた。ラッキー。
 曲目は次のとおり。指揮は長田雅人さん。
 ウェーベルン 夏風の中で
 マーラー 交響曲第7番 ホ短調

● ウェーベルンについては,シェーンベルクの弟子というくらいしか知らない。そのシェーンベルクについても,ぼくが知るところはごく少ない。無調だの12音技法だのと言われても。音楽史に画期をなす存在であるらしいのだが。
 ウェーベルンを生で聴くのも初めてだ。彼が21歳のときの作品だろうか。静かな叙情。そこに何か熱いものを秘めているというあざとさもなく,ただただ静かに内省しているような。曲の中に“夏風”を探すのは難しかったが(探せなかったが)。

● 久しぶりにマーラーを聴いた。よくわからんヤツだなぁ,マーラーって。つまり,ぼくでは捉えきれない。
 技巧を凝らしに凝らした壮大な人工構造物。なのに,野暮ったさ,素朴さ,自然さというのがふんだんにあるような。一方で,こんなのどうやって演奏しろっていうんだと言いたくなるような技巧もはめこまれている。

● で,この長い楽曲を全体としてどう捉えたらいいのかとなると,ぼくは途方にくれる。印象をまとめきれない。
 けれども,妙な高揚感に包まれる。この高揚感が何に由来するのかがわからない。まさか,この長い楽曲を無事に聴き終えたからではあるまい。
 もしそうなら,演奏する側は高揚感どころではないだろう。無事に終演を迎えたときには,感極まって倒れてしまうはずだ。

● 合同チームということなら,団員にとっても,これはお祭りなのだろう。プロ野球のオールスターゲームのように,お祭り一色というわけではないだろうけれども。
 でもって,この曲をお祭りでやれるというのは,もともと腕に覚えがある人たちなのだろう。ここまでの演奏で聴ければ,まずもって文句はない。
 コンミスはただ者ではない印象。コントラバスのトップ首席は気合を外に出して演奏するタイプのようで,血圧があがって血管が切れるんじゃないかと心配になった。身体を大事にしろよ。

2018.08.25 オーケストラ・パレッテ 第2回アンサンブルコンサート

スペースDo

● 新大久保で室内楽コンサート。新大久保と室内楽が結びつかない。おまえは東京の奥深さを知らないな,と言われるのかもしれないけどね。
 その結びつかなさに惹かれて,出かけてみたわけなんですが。

● 会場の「スペースDo」は管楽器専門店「ダク」の地下。モグラになったような気分になるほどではないけれど,階段がやや狭いからか,地底の世界に降りていく的な感じ。これがスナックやバーやクラブだったら,ボッタクられるかと思っちゃうところだ。
 最初から演奏用のホールとして作られたものか,倉庫か何かだったのを転用したのか,そこはわからないけれど,便利に使えそうだ。

● オーケストラ・パレッテがどういう楽団かというと,「若手アマチュアにより構成されるオーケストラで」「首都圏の様々な学生オーケストラの出身者で構成され」ているらしい。
 出身者にとどまらず,現役生もいるようだ。平均年齢は20代半ばではないか。

● 開演は午後2時。入場無料。曲目は次のとおり。
 ドヴォルザーク ピアノ五重奏曲第2番より 第1楽章
 ボロディン 弦楽四重奏曲第2番より 第1楽章
 ベートーヴェン ピアノ三重奏曲第4番「街の歌」より 第3楽章
 ネリベル Trio for Brass
 サン=サーンス 七重奏曲 変ホ長調

 エルガー 愛の挨拶
 チャイコフスキー 「くるみ割り人形」より “花のワルツ
 トマジ 田園風コンセール
 黒うさP 千本桜

スペースDoの入口
● まだあどけなさを残している坊ちゃん嬢ちゃんたち(そうじゃないのもいたけど)の手作り感溢れる演奏会。育ちの良さも伝わってきた。
 一生懸命さとやりたいことをやっている天真爛漫さ。若い頃の自分にはなかったもので(愚かなことに,やりたいことではないことを部活に選んでしまったのだ),何がなしの羨ましさを感じる。

● 気になったのは乳幼児を連れて来ていた人がけっこうな数いたことで,演奏中も赤ん坊の泣き声が遠慮なくホール内に響き渡った。演奏中に幼児が席を渡り歩く光景も見られた。
 これでは演奏しづらかろうと奏者に同情した。のだが,これは折込済みなのかも。ファミリーコンサート的なものなのかもしれなかった。

● というのも,「愛の挨拶」はヴァイオリンではなくて,オタマトーンで演奏したからだ。あたかも,乳幼児をあやすような感じ。
 そっか,これは乳幼児を連れて来てもかまわないコンサートなのだ,と,とりあえず思っておく。

● 「花のワルツ」は8本のチェロによる演奏。チェロってかなり高い音も出せる。出せるけれども,チェロにはやっぱり中低音のバリトンの響きが似合うと思う。イライラしているときとか,ウツウツとしているときには,チェロの音色が一番の癒やしになる。気持ちを落ち着かせる。
 そのチェロのみによる「花のワルツ」。違和感はまったくない。そりゃそうだ。

● ベートーヴェンの「街の歌」。この曲にはベートーヴェンが作品番号を付しているわけだから,自分の作品として後世に残ってもよいと判断したのだろう。
 ベートーヴェンといえば重厚で地響きがするようなイメージなんだけども,これは弾むように軽い。ベートーヴェンにもこういう曲があったんだねぇという発見。

● という感じで過ぎて,再び,新大久保の雑踏に身を置くと,またもや妙な感覚が襲ってきた。おれ,今,ドヴォルザークやボロディンを聴いたんだよな,あれは幻覚や幻聴ではなかったんだよな,という。
 新大久保のこのアジア的景観は,日本人も基本アジア人なんだなとわからせてくれる。ごく狭いエリアではあるんだけれど,そのエリアにクラシック音楽を容れる場所があることの不思議。

2018.08.19 宇都宮女子高等学校オーケストラ部 第2回演奏会

宇都宮市文化会館 大ホール

● 昨年,デビューコンサートがあった。本格派オーケストラが栃木県のクラシック演奏界に加わったと思った。これは聴くでしょ,聴かなきゃダメでしょ。
 と思って2回目の演奏会に出かけていきましたよ,と。

● 黄金週間と夏に行われる高校生の演奏会には興味を惹かれるものが多い。5月の宇都宮北高と作新学院の吹奏楽,夏は鹿沼高の管弦楽の演奏会がある。
 が,今年はそれらをすべて聴き逃している。理由はいたって単純で,その時期に東京に遊びに行くようになったからだ。黄金週間に出かけるなんてバカがやることだと疑わなかったんだけれども,そのバカを自分がやるようになってしまった。
 何とかしなければと思わぬでもない。が,何ともならない。なぜなら,催行主が奥様だからだ。したがう以外の選択肢はないのだ。

● けれども,この演奏会はそこから逃れて聴くことができた。自分のために喜ばしい。やっほいほい。
 開演は午後2時。入場無料。これも前回と同じ。違ったのは,会場に昨年より空席が多かったことだ。これは理由がよくわからない。
 しいて言うと,同じ時間帯に小ホールでも邦楽の魅力的なコンサートがあった。正直,どちらにしようかとぼくも少し迷った。小ホールはおそらく満席だったはずだ。そうしたことも影響しているのかも。

● 曲目は次のとおり。
 デュカス 〈ペリ〉へのファンファーレ
 デュカス 交響詩「魔法使いの弟子」
 ラヴェル 亡き王女のためのパヴァーヌ
 サン=サーンス 歌劇「サムソンとデリラ」より“バッカナール”

 ハンス・ジマー パイレーツ オブ カリビアン
 メンケン リトルマーメイド
 ホーナー タイタニック メドレー

 チャイコフスキー 荘厳序曲「1812年」

● 第1部では,デュカス,ラヴェル,サン=サーンスと,フランスを並べてきた。何らかの意図があったのかなかったのか。
 「亡き王女のためのパヴァーヌ」が印象に残った。と言ってしまっては不正確。自分の好みに合致したというだけのことだ。
 元々はピアノ曲。ラヴェル自身が管弦楽版を編曲した。パヴァーヌとは「16世紀から17世紀にかけてヨーロッパの宮廷で普及していた舞踏のこと」。

● それだけ知っておいて,それ以外の予備知識は持たずに聴くのがよいと思う。ステージから届く調べにどこまで自分の気持ちを乗せることができるか。そこは聴き手の問題。
 ホルンとオーボエのためにある曲かと思ってしまいそうになったが,もちろんそうではない。フルートが“幽玄”を奏でるし,弦のピチカートも聴きどころでしょ。
 この楽団の演奏で「ボレロ」を聴ける機会があればと思った。

● 第2部。こういうのは観客サービスなのだと思っていた。クラシックばかりではお客さんが飽きてしまうだろう。だから,サンドイッチのように,間に食感が良くて楽しめるものを挟んであげよう。
 そうじゃないのかもね。自分たちが楽しみたいからかも。楽しそうに演奏するからね。楽しそうに見えるように演技しているわけじゃないんだろうから。

● 最後はチャイコフスキー。ほぼ,完璧。
 大きな事故がなかったというにとどまらない。気が入っている。楽譜を大過なく演奏に翻訳するという水準を超えて,ちゃんと自分たちを通しているというか。うまく言えないけれども,演奏が曲に負けていない。
 音にキレがある。ということは雑味がない。ビールにたとえているようで申しわけないけれども,ともかくキレがある。

● どういう練習をすればここまで到達できるのか。知りたい人は多いだろう。
 大学生なら学業を放擲して,部活にのめり込む人が昔もいたし,今もいるだろう。単位を取り損ねて留年する人もいるかもしれない。
 が,高校生の場合,学業を放擲するというのはねぇ。あってもいいと思うけど,やる人はいないだろうし,やろうとしてもなかなかさせてもらえない仕組みになっている。

● 要するに,練習に費やせる時間は限られている。1日は24時間しかなくて,1年は365日しかないのだ。加えて,学業第一が貫徹するのだ(少なくとも建前はそうなっているはずだ)。
 枠は限られている。その枠を余さず使っているんだろうか。放課後の他に,朝練,昼練と。
 あるいは,宇女オケだけの卓越した練習メソッドがあるんだろうか(→そんなもの,あるわけないやねぇ)。

● アンコールで末尾を飾ったのは「情熱大陸」。昨年も同じ曲を最後に持ってきていたと記憶しているのだけど,昨年とは少し趣向を変えていたような。
 オーケストラ,七変化。基本的な技術が高いから,こういう小技が決まる。

● 演奏とはまったく関係のない話なんだけど,プログラム冊子の“パート紹介”を見ていて,不思議に思ったことがあった。
 宇女高にはたしか制服はなかったはずだ。ところが,制服っぽい格好をしている生徒が多いのだ。タータンチェックのスカートをはいている子がとても多い。それにネクタイを合わせていたり。まさか中学の制服をそのまま着ているわけではあるまいなと思うほど。
 ひょっとして,制服を着たいという潜在願望があるんだろうか。あるいは,それが目下の流行なんだろうか。

2018年8月29日水曜日

2018.08.18 九大フィルハーモニー・オーケストラ 特別記念演奏会2018

サントリーホール

● この演奏会を知ったのはだいぶ前。チケットも3月末には購入していた。“ぴあ”でね(便利だね,“ぴあ”って)。3月時点で8月の予定なんかわかるわけがない。年度をまたいでいるんだし。
 が,行きたいと思ったコンサートのチケットは,たとえ行けなくなることがあろうと,とにかく買っておけという方針だ。根拠なしに申しあげるんだけれども,そうした方が行ける確率が高くなるような気がする。

● ということはつまり,この演奏会を知ったときに,行くぞと即行で決めたということ。九大フィルハーモニー・オーケストラの演奏を聴くために福岡まで行くっていうのは,まったく非現実的だからね。相手方が東京まで出張ってくれるんだから,この機を逸すべからず。
 ソリストが上原彩子さんだってのもあった。彼女のピアノが聴けるんだったら,それだけで元がとれるぞ的な。

● そういうこと以前に,ぼくは若い人たちの演奏が好きなのだ。
 どういうわけのわけがらか,プロのオーケストラよりも,大学オケの方が聴いていて幸せな気分になる。ほんと,どういうわけなのか。

● ということで,5ヶ月間チケットを温めて,東京に出てきたのだ。“青春18きっぷ”が使える時期だしさ。
 開演は午後2時。席はS,A,Bの3種で,それぞれ,3,500円,2,500円,1,500円。先に少々偉そうに啖呵を切ったんだけども,ぼくが持っているチケットは一番安いB席なのだ。あしからず。

● コンサートのタイトルに“2018”とあるくらいだから,この楽団は何度か東京公演を催行しているのだろうと思っていた。が,戦前戦後を通じて初の東京公演らしい。
 となると,楽団のみならず大学当局も乗りだしてくる。熱の入れ方も違ってくるのだろう。新キャンパス(伊都キャンパス)への移転の仕上げの時期にもあたっているらしかった。

● 開演前に九州大学の総長が登壇して挨拶を述べた。東京公演を人寄せパンダにして,という言い方は語弊があるか,この演奏会を契機に首都圏に在住している卒業生を集めたいということのようだった。
 卒業生に新キャンパス移転をアピールしなければならないし,子弟に九州大学を受験させてもらいたいし,もっというと寄付のお願いもしたい。
 演奏会のあとはレセプションも用意されていた。この演奏会を機に卒業生の旧交を温めましょうという。

● が,演奏会のステージには演奏以外のものを載せない方がいいとは思った。総長あいさつはプログラム冊子に載っているのだから,それで充分。わざわざ口頭で繰り返すことはない。
 なぜ,演奏会のステージに演奏以外のものがあってはならないのかといえば,たとえそれが何であれ,場を冷やしてしまうからだ。
 総長の出番はレセプションで作れば良かったのではないか。いや,そういうわけにはいかない,観客の多くは九州大学にゆかりのある人が多いんだから,総長が出ないわけにはいかないんだよ,というのもよく理解できるんだけれどもね。

● ともかく開演。曲目は次のとおり。
 ブラームス 大学祝典序曲
 チャイコフスキー ピアノ協奏曲第1番 変ロ短調
 ドヴォルザーク 交響曲第9番 ホ短調
 中村滋延 九大百年祝典序曲(2018年改訂版)

● 指揮は鈴木優人さん。彼の指揮には一度接している。2年前の麻布学園OBオーケストラの演奏会で。
 あと,NHK-FMの「古楽の楽しみ」を聴いている。朝の放送を出勤中の車中で。わが家から職場までは45分で着くんだけど,始業1時間前には着いていることをモットーにしている(?)ので,ちょうど放送時間と出勤時間が重なるのだ。
 というわけだから,鈴木さんとは知り合いの気分だ。もちろん,彼はぼくをまったく知らない。

● 団員にとっては初の東京公演。どうせやるならサントリーホールでということか。そのサントリーホールのステージ。
 とすれば,熱くなって当然かと思われるのだが,中にはいるんだろうかね。せっかくの夏休みなのに,なんで東京くんだりまで行ってなくちゃなんねーんだよ,ザケんなよ,やってらんねーよ,っていう人。
 いてもいいと思うんだけども,ま,いないでしょうね。勇躍,東京に乗りこんできたに違いない。

● が,熱さの罠には落ちていない。冷静だ。当然といえば当然。東京でやろうとするくらいだから,腕に覚えはあるのだと思う。こちらもそれを期待している。
 「大学祝典序曲」でその腕前は了解した。いや,ここまでとは思っていなかった。芸のない言い方で申しわけないけれども,かなり巧い。

● チャイコフスキーのピアノ協奏曲。当然,上原さんのピアノを聴きたいわけだ。ぼくの席はP席に近い。金管が最も近くにいる。ので,音の聴こえ方はいつもと多少違うっちゃ違う。が,上原さんの指遣いはよく見える。神の指,だよね。
 それよりも,オケにしばしば視線を送り,しばらくその視線を固定していたのが印象的。私に付いてらっしゃい,というのではなく,自らオケに寄り添っていこうという感じね。あるいは,オケを気遣っている感じ。

● で,そのオケはといえば,かなりリラックスしているようなのだ。もちろん,集中しているし,張りつめている。しかし,ベースにリラックスがあって,ほぼ理想的な状態でやれているのではないかと思われた。
 今どきの若者はこのあたりがすごい。“あがる”という言葉をたぶん知らないんじゃないかと思うほどだ。

● 協奏曲というのは,(もちろん,曲によるんだけれども)ソリストが3割で管弦楽が7割だと思っている。演奏の出来不出来を決めるのはつまるところ管弦楽だ。っていうか,ソリストにはこれ以上はないというピアニストを迎えているのだ。
 ここまで仕上げてくれば大したものだと思う。文句ない。妙な言い方になるが,仕上げすぎていないのもいい。ここで筆を置くという,その置き際がいいというか。指揮者の功績だろうか。
 特に印象に残ったのは,フルートとオーボエの1番奏者。

● ので,次のドヴォルザークは,そのフルートとオーボエの1番奏者に視線をほぼ固定した。
 音大に行こうと思えば行けたよねぇ。それを選ばず,九大に進学した。どちらが良かったのかなぁ。彼女たち以外にもそういう人,けっこういそうだ。
 ほんと,どちらが良かったのかなぁ。って,結論ははっきりしている。これで良かったのだ。自分が選んだ選択肢が常に必ず正解なのだ。そういうものだ。

● という,かなり埒のないことを考えながら聴いた。熱さより清々しさが勝っていた。後味が相当にいい。
 終演後もしばらく立たずに余韻を味わっていたかったけれども,そういうわけにもいかない。いったん,ホールを出て,近くの公園のベンチに座って,終えたばかりのコンサートのあれやこれやをボーッと反芻した。

● 上原さんのアンコールは,ラフマニノフ「プレリュード」。しっとりと聴かせる聴衆サービス。元が取れたどころではない。
 オケのアンコールはチャイコフスキー「トレパック」。

サントリーホール
● ところで,サントリーホールは,今でも特別なホールなのだろうか。使い勝手や音響を取りあげれば,サントリーホールよりも優れているホールがありそうだ。
 が,やはり特別なのだろうな。それはホールがある場所の力(場力=バリキ)によるものかと思われる。
 東京芸術劇場を出ると,ビッグカメラと居酒屋とカラオケの看板が目に入る。すみだトリフォニーを出ると,カプセルホテルの看板がどっと視野を占める。ミューザ川崎も一歩外に出れば,街の雑踏に紛れる感を味わうことになる。
 が,このホールだけはそれがない。雑踏から隔離されている。余韻を味わうにはいいホールだ。

2018年8月28日火曜日

2018.08.16 TCGフルートオーケストラ演奏会

栃木県総合文化センター サブホール

● 開演は午後2時。チケットは1,000円。当日券で入場。
 そも,TCGフルートオーケストラとは何もの? TCGは“とちぎ”のこと。要は,栃木県出身者,在住者で結成したフルートオーケストラということらしい。
 岩原篤男さんが代表を務める。その岩原さん,石橋高校吹奏楽部を指導している。その関係だろう,石橋高校の生徒がまとまった数,参加していた。

● プログラムは次のとおり。
 バーンスタイン キャンディード序曲
 ヴィヴァルディ コンチェルト・グロッソ 第8番
 バッハ 管弦楽組曲第3番「アリア」
 モーツァルト 交響曲第25番より第1楽章

 ドップラー ハンガリー田園幻想曲
 バッハ シャコンヌ

 千秋次郎 風の忘れもの
 ロジャース サウンド・オブ・ミュージック

● ハンガリー田園幻想曲とバッハ「シャコンヌ」は尚美学園の齋藤真由美さん(芳賀町出身)と学生5人による演奏。
 最も印象に残ったのは,彼女たちによるバッハ「シャコンヌ」。音の層の重なりがゾクッとするほど気持ちいい。
 元々はヴァイオリンの独奏曲。が,ヴァイオリンで聴く機会はあまりなくて(CDはもちろん持っているけれど),管弦楽版,吹奏楽版,弦楽四重奏版,ピアノ版など,アレンジされたものを聴くことが多い。
 CDでも,齋藤秀雄さんが編曲した管弦楽版を,ぼくは好んで聴いている。

● 彼女たちに比してTCGが見劣りするということはまったくなし。これはもう1mmもない。TCGの中に音大卒もすいぶんいるんだろうしね。
 そのTCGの演奏の中からひとつ挙げろと言われれば,ヴィヴァルディ「コンチェルト・グロッソ」になるだろうか。ソロを担当したのは,室越典功さんと菊島佑美さん。
 ヴァイオリンに代えてフルートというわけだけれども,音というのは音色よりも高低とかリズムってことなんですかねぇ。

● フルートオーケストラの響きがどういうものかを端的に示すのが,モーツァルトの25番。多くの人はこの曲を管弦楽で何度も聴いているだろう。管弦楽の響きは,誰もがわかっている。
 なるほど,これをフルートだけでやるとこうなるのか,と容易に比較ができるわけだ。

● 石橋高校の生徒さんは10人ほどだったろうか。で,このコンサートを支えたのは,結局のところ,彼女たちだった。
 縁の下の力持ちを務めたと言いたいのではない。ステージも彼女たちが支えていたという印象。プログラムの構成が然らしめるところかもしれないんだけど。

● 逆に,石橋高校以外の吹奏楽部のフルート奏者をオーガナイズできれば,いろいろと面白いことができるんじゃないだろうか。
 今の高校生はとにかく忙しすぎるから,そういうことができる可能性はほぼないんだろうけどね。

● 奏者の中にとんでもない美人がいた。この方,別のステージでもお見かけしたことがあるんだが。
 まぁ,演奏には関係のない話なんですけどね。

2018年8月21日火曜日

2018.08.11 Orchestra Da Vinci 第5回定期演奏会

杉並公会堂 大ホール

● このオーケストラ東京大学音楽部管弦楽団の若手OB・OGを中心に結成されたオーケストラ。千葉大学や筑波大学などのオケ経験者が加わっているらしい。
 東大オケのOB・OGが結成したオーケストラには東京アマデウス管弦楽団があって,何度か聴いたことがある。おそらく,アマチュアオーケストラとしては屈指の水準を誇る。
 東大オケが大学オケの中では1,2位の水準にあるのだから,別段,驚くにはあたらないのだが。

● そのOB・OGは1年ごとに増えるわけだから,OB・OGオーケストラも2つめ,3つめができて当然。特に若い世代は年寄りとは組まない方がいいのじゃないかと思う。
 というわけで,この楽団の平均年齢はかなり若い。それでも5回目の定期演奏会になる。

● 開演は午後2時。チケットは1,000円。当日券を購入して拝聴。
 曲目は次のとおり。指揮は伊藤翔さん。
 バルトーク 5つのハンガリーのスケッチ
 シベリウス 交響曲第7番
 チャイコフスキー 交響曲第4番

● 開演前にステージでプレコンサートがあった。モーツァルトのディヴェルティメントK.137の第2,3楽章とエヴァルドの金管五重奏曲第3番の第1楽章。
 と,サラサラと書いているけれども,もちろんプログラムから転記しているわけだ。エヴァルドを知っている人はそんなにいないだろう。
 というわけで,内容は相当に盛りだくさん。若い人の食欲という感じがする。正真正銘の食欲なら,ぼくも負けてはいないんだけどね。

● もうひとつ。プログラムの曲目解説。これも東大オケの流儀を引き継いでいる。論文調で格調が高い。これをスラスラ読める人は相当な人だろう。ぼくはつっかえつっかえ読んだんだけども,さてどこまで理解できたものやら。途中で読むのをやめちゃう人もずいぶんいそうな気がする。
 Wikipediaから引き写した“解説”もときどき目にするが(引き写したくなる気持ちはよくわかる),それとは対極のもの。解説にも力がこもっている。演奏会を構成する要素の細部をなおざりにしないという感じ?

● 演奏も若々しい。で,若々しさというのはそれ自体が価値であるな,と思った。が,若々しさしかないのであれば,その価値の生存期間はかなり短いものになってしまう。
 おそらく,彼ら彼女らは若々しさ以外の何ものかを複数,備えていると思われる。それが何かは,これから数年のうちに露わになってくるのだろう。東京アマデウス管弦楽団が備えているものと重なるかもしれないし,そうではないかもしれない。

● チャイコフスキーの4番では,第1楽章のホルンとファゴット,2楽章のオーボエ,3楽章のフルートとトロンボーン。それぞれに堪能させてくれた。
 中でもファゴットに瞠目した。何というのかな,これは。毅然としている。俯いていない。過度に内向的でない。そこのけそこのけ,ファゴット様が通る,というほど排他的ではない(オーケストラなんだからあたりまえ)。そのあたりの按配がとてもいいと思った。

2018.08.05 東京音楽大学附属高等学校OB・OGオーケストラ

練馬文化センター 大ホール

● この演奏会を知ったのは,6月に聴いた上智大学管弦楽団の定演でチラシが配られたから。指揮者が同じ汐澤安彦さんだった縁でしょうね。
 じつはOBOGの4文字を見逃していて,附属高校の生徒たちの演奏会だと思いこんでたんでした。入場時にパンフレットをもらってやっと気がついた。

● 開演は午後2時。チケットは2,000円。いくら音大の附属高校とはいえ,高校生の演奏で2,000円も取るのかと思ったんですよ。それでも聴くに値すると踏んでいたわけですが。
 OB・OGだったのか。それなら納得。というか,安い。セコくて申しわけないのだが。

● 曲目は次のとおり。
 ワーグナー 楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」より“第1幕への前奏曲”
 ラフマニノフ ピアノ協奏曲第2番 ハ短調
 ドヴォルザーク 交響曲第8番 ト長調

● この日のために編成されたオーケストラ。N響をはじめプロのオーケストラに属している人も多いし,そこは音大附属高校卒の俊英なのだから,巧さはわかりやすく伝わってくる。
 マイスタージンガー前奏曲で,あ,響きが違うわ,的な印象。これはお得だぞと,再びセコいことを思ったんでした。

● ラフマニノフのソリストは金子三勇士さん。東京音大が生んだ日本を代表するピアニストの一人。っていうか,帰国して東京音大の附属高校に編入したときには,すでに俊秀だったわけだが。
 金子さんのピアノは2012年6月に一度聴いている。栃響の定演にソリストとして招かれたとき。そのときの印象はじつはあまり輪郭がはっきりしていない。体調が悪かったのかそれ以外の理由があったのかはよくわからないが。
 しかし,今回はそんなこともなし。ホームだとかアウェイだとかは,彼ほどになると関係ないのかもしれないけれども,それでも今回はホームもホームで,楽しくやれたんですかねぇ。

● アンコールはリストの「ラ・カンパネラ」。栃響のときも同じ曲をアンコールに選んでいて,その記憶だけは鮮明だったりする。
 金子さん,この曲に特別な思い入れがあるんだろうか。
 
● ドヴォルザークの8番。奏者全員のベクトルの向きが揃っているというか,乱れというものがまるでない。
 このメンバーで練習できた時間は相当に短かったはずだと想像する。にもかかわらず,ここまでのレベルに持って来れたのは指揮者の功績なのか,コンマスのリーダーシップなのか。

● 特に第3楽章の舞曲の冒頭。スィーティーなメロディだなぁと思っていたんだけど,スィーティーなだけじゃなかったんだ。ドヴォルザークはここでも技巧を加えているんだねぇ。
 CDでも気づかなかったんだが。自分は今まで何を聴いていたのかと思った。どうもいけない。いや,こういう発見があるから面白いのだとも言えるんだけど。

● 陳腐な表現で申しわけないけれども,幸せすぎる2時間を過ごさせてもらった。よくぞこの演奏会を拾ったものだと自分の選択をほめてやりたい。

練馬文化センター
● もうひとつ。客席について触れておいた方がいいだろう。演奏はいいのに客席がダメで,興ざめることがしばしばあるんだよね。何というかなぁ。グレン・グールドの気持ち,わかるよな的な。
 そういうおまえはどうなんだよと言われるとちょっと困るんだけどね。ま,自分を棚にあげたうえでの話だ。

● 今回は客席も東京音大附属高校の関係者や卒業生が多かったのだろう。客席に安心感があった。
 私語やプログラム冊子をめくる音,プログラム冊子を落とす音,はなはだしい場合は飴玉の包装紙をはがす音が聞こえてしまうことがあるんだけれども,そういうことは一切なし。フライング拍手もなし。ろくろく聴いていなかったくせに,いの一番にブラボーを叫ぶバカもなし。これだけの演奏は,客席との合作でもあったろう。

2018.08.04 L.v.B.室内管弦楽団 室内楽演奏会vol.10

五反田文化センター 音楽ホール

● 言っても仕方がないことなので,できれば言いたくない。でも,言うぞ。
 暑い。暑すぎる。この暑さはどういうわけのものか。
 五反田駅から会場まで歩いたんだけども,着いたときにはTシャツが汗でビッショリで,脱いで絞れば水滴になって落ちるんじゃないかと思った。
 この状態でコンサート会場に行くとはマナーに反するのかもしれないし,他のお客さんに不快感を与えてしまうのかもしれないけれども,どうにもこうにも防ぐ手立てがない。

● ホールの中は冷房が効いていて,生き返った心地がした。けれども,ここに到着するまでに生気を使い果たした。この涼しさに吸い込まれるようにして,眠ってしまいそうだ。
 そうなってしまっては,何のためにここに来たのかわからなくなるんだけどね。それくらいだったら,ずっと涼しいところにいればよかった。わざわざ灼熱地獄を歩いた意味がなくなる。

● 開演は13時。入場無料。
 曲目は次のとおり。
 モーツァルト ホルン五重奏曲 変ホ長調 K.407
 ベートーヴェン 木管八重奏曲 変ホ長調 Op.103

 シューマン ピアノ四重奏曲 変ホ長調 Op.47
 モーツァルト ピアノ,クラリネットとヴィオラのための三重奏曲 変ホ長調 K.498

 ゴルターマン 「2つのサロン風の小品」より“レリジオーソ”
 クレンゲル 4つのチェロのための即興曲 Op.30
 ハイドン 交響曲第45番 嬰ヘ短調「告別」

● シューマンのピアノ四重奏曲をはじめ,生で聴く機会は少ない室内楽の大曲が並んだ。変ホ長調の曲をズラッと並べたのは意図があってのことだろうか。
 技術のばらつきは当然あった。あるんだけれども,下の方の奏者でもかなり上手い。

● 最後はハイドンの45番「告別」。奏者が次々去っていく。このときに,客席に一礼しちゃっちゃいけないよね,たぶん。
 悄然として去っていかねば。その方が「告別」の趣旨に沿うような気がするね。

● 暑いのは奏者にとっても同じ。会場に来るだけでエネルギーを吸い取られるのも同じだろう。ん? 朝のうちに来ているから,あれか,けっこう涼しい思いをしているのか。
 ともあれ。真夏のこの時期にこういう催しを開催しようとする,そのモチベーションってのはどこから来るんだろうと,ボーッとした頭で考えた。

● 音楽が好き。自分から音楽を除いたら何も残らないから,音楽にすがるしかない。ステージで演奏するのは他人の曲であっても,それ自体が自己表現であって,身体表現ってのは気持ちのいいものだ。
 そういうことなんだろうかね。よく言われる観客の観客の拍手を浴びる快感っていうのも,身体表現の気持ちよさがあってのものなのだろう。

● 音楽にすがるしかない,というのがもしあるんだとすれば,とてもいいことだよね。あらかじめ自分の居場所をいくつも作っておくのは,賢そうでいて,何だかダメっぽい。最後まで腹が据わらずに終わるから,結局,何ほどのこともしないまま人生の終着駅に着いてしまう。

● にしても,開催にこぎつけるまでには諸々の面倒くさいアレやコレがあるはずで,ぼくは絶対ダメだ。その面倒くささをあえて引き受けてまで,表現したい自己などないや。
 そういう人間は聴く側に回るしかないのだ。いくら暑いといっても,会場に自分を運んでいくだけでいいんだから,こんな楽なことはない。