2019年3月31日日曜日

2019.03.31 第8回 音楽大学フェスティバル・オーケストラ

カルッツかわさき ホール

● 川崎で音大フェスオーケストラの演奏会があるので,川崎に向ってたのだが,途中で大事なことを思いだした。チケットを忘れてきた。
 チケットの定位置は,システム手帳のホルダーの中。その手帳を職場に置いたまま帰宅してしまったのだ。

● ちなみに申しあげると,当日券を買って入場して,着座するまでの間に紛失してしまって,スゴスゴと帰ってきたこともある。座席指定だったのだ。自分の座席番号など憶えられるわけがない。
 年のせいだとは思いたくないんだけどねぇ,手帳を忘れたり,スマホを忘れること,この1年でグンと増えた気がするんだよなぁ。

● チケットは財布に入れておいた方がいいかなぁ。さすがに財布は忘れないだろうからな。あるいは,前売券を買うのは一切やめてしまうか。当日券が残っていないコンサートなんて滅多にないんだから。
 さて,どうすべえ。といっても,そのまま川崎に向かう一手だ。代替プランなど思いつかなかったし(チラッと銀座に出ようかとも思ったのだが),川崎までの切符を買ってしまっているんだからね。
 いや,そういう問題ではない。これを聴かないで平成30年度を跨いではいけないでしょ。

● というわけでカルッツかわさきにやってきた。チケットを買い直して(S席 2,000円),無事に着座とあいなった。
 首都圏9つの音大と,今回は札幌大谷大学と沖縄県立芸術大学からそれぞれ1名が加わっていたようだ。

● 開演は午後3時。曲目は次のとおり。指揮は小林研一郎さん。
 ベルリオーズ 序曲「ローマの謝肉祭」
 チャイコフスキー 祝典序曲「1812年」
 ベルリオーズ 幻想交響曲

● 何も知らないで失礼なことを申しあげるのだけれども,日本の奏者のプロフィールを見ると,学ぶ期間が長すぎるんじゃないかと思うことがある。日本の音大を出て,大学院を出て,オーストリアだのイタリアに留学して,さらに数年間学ぶ。今どき,留学なんぞに意味があるのか。それ以前に,いつまでも学んでばかりじゃいけないのじゃないか。ひょっとして,職を得るのが難しいので,学を延ばさざるを得ないという事情があるんだろうか。
 ということを思うのも,こういう演奏を聴くと,日本の音大のレベルの高さを感じるからだ。

忘れて使えなかったチケット。くそったれ。
● ステージには大編隊が組まれている。これだけの編隊では一本化が大変なのでは,ととりあえず思うけれども,そんなことはない。
 「1812年」のドが付くほどの迫力は,この編隊だからこそ生まれたものだ。

● 幻想交響曲を初めて聴いたときは(痩身の美少年だった頃だ),何が何だかまったくわからなかった。この曲はやはり曲目解説を読んでから聴かないと,爪を立てることもできない。
 そうして聴いてから,さて何を感じるか。そこから長い旅が始まるのだろう。が,聴き手としては,その旅をあまり長いものにしてはいけないようにも思う。向かないと思ったら見切ることも必要だ。

● 聴いて良かったと思う。この演奏に関しては代替者がいない。同じ演奏を同じ時刻に同じ会場でプロのオーケストラで聴けば,これ以上の感興を得られるかといえば,まったくそうは思わない。
 彼らにしかできない演奏だろう。1年後の彼らにもできないだろう。1年前の彼らにもできなかったろう。
 そう思わせるだけの,高密度かつ高質量。奇跡のようなタイミングの合致があって生まれた演奏が,今,目の前で展開されていて,そこに自分がいるという,あり得べからざる偶然。

● たぶん,指揮者の小林さんも感じるところがあったのだろう。何度も奏者を立たせる場面を作った。自ら語るシーンも作った。
 が,後者は感興に棹さすものだ。余計である。指揮者は黙していた方がよい。饒舌は要らない。

● ところで。来年度の音大フェスには藝大が参加しない。参加しないのはそれなりの理由があってのことだろうから,部外者が意見を言うべきではないが,大きなピースが欠けることになる。
 ちなみに,武蔵野音大はベートーヴェンの荘厳ミサ曲を持ってきているのだが,全曲演奏するんだろうか。今年度は「第九」だったんだから,全曲演奏のような気もするんだが。

● 会場の裏側に東京フィルハーモニー交響楽団と大書されたトラックが停まっていた。この演奏会の楽器を搬入したのだろう。
 といって,東京フィルが関わったわけではない。このトラックは東京フィルの持ち物ではなくて,運送業者のものだ。このあたりのことは,岩城宏之さんの著書で教えてもらった。日本の運送業者はプロ中のプロなのだ。

2019.03.30 FAF管弦楽団 第56回定期演奏会

すみだトリフォニーホール 大ホール

● この楽団の演奏を聴くのは,今回が初めて。知ったキッカケは,どこかの演奏会でチラシをもらったからなんだけど,どこの演奏会だったかは忘れた。
 もうひとつ,曲目に惹かれた。ちょうど,北欧の作曲家が書いた曲を聴きたかった気分だったということ。

● 開演は午後1時30分。チケットは2,000円。当日券で入場。
 曲目は次のとおり。指揮は森口真司さん。
 グリーグ 「ペールギュント」組曲第1番
 シベリウス 交響曲第7番
 ニールセン 交響曲第4番「不滅」

● ペールギュントは白紙の状態で聴いても,充分に味わえると思うけれども,やはりイプセンの戯曲のストーリーを頭に入れておいた方がいいんでしょうね。それもWikipediaに載ってる“あらすじ”程度ではなく,もう少し詳しく。
 要するに,ペールってのはとんでもない野郎で,こんなヤツがどうして昔の婚約者(ソルヴェイグ)の腕の中で死ねるんだよと思うわけですよ。無茶苦茶だよ。魔王の娘を籠絡して自分が魔王になろうとしたりね。ドンファンよろしく,飽きたらどんどん捨てていく。ソルヴェイグはもう女神としか言いようがない。

● ということを知ったうえで聴いた方がいいでしょ。組曲版ではあきたらなくなって,全曲版を聴きたくなるでしょ,たぶん。
 ぼくはといえば,カラヤンの組曲版からエド・デ・ワールト&サンフランシスコ交響楽団の抜粋版に移って,今はその抜粋版を聴くことが多い。理由はひとえにエリー・アメリングのソプラノに魅了されているからで,彼女のソプラノを聴くと,胎内回帰という言葉を思いだす。母親の子宮の中で羊水にたゆたっていたときの気分はこうでもあろうかと思うんですわ。

● とはいっても,カラヤンも捨てがたい。器楽がこれほど叙情的に歌えるのかと驚きたいなら,第1組曲の第2曲(オーセの死)をカラヤンで聴くのが最も手っ取り早い。第1曲の初っ端のフルートも気持ちが震えるようだ。
 というようなことを思っているうちに,目の前の演奏は終わってしまった。何やってるんだか,オレ。

● シベリウスの7番はぼくには少し程度が高すぎるかもしれない。付いていけないところがある。小さな器にたくさんのものを盛りこみすぎているという先入観があって,その先入観が自分の足を引っぱっているのかもしれない。
 あるいは,正真正銘,自分の耳では手に負えない水準にあるのかも。

● ニールセンの4番を聴くのはこれが2度目(→ 1度目はこちら)。迫力のある演奏で,その迫力を迫力と感じることができるのは生だからこそだろう。
 ニールセンがこの曲を作曲したのは第一次世界大戦の最中らしい。行進曲かと思えるようなところもある。戦意高揚のために作ったわけではもちろんないだろうけれども,そう思えば思えるというようなところがある。

● 2012年5月にマイクロソフト管弦楽団の演奏で,ニールセンの2番を聴いている。そのときに司会を務めた女性(三輪田真澄さん)がニールセンが大好きだと話していたことを憶えている。
 そのときはそういう人もいるのだなと思っただけなのだが,今,そのことを思いだして,少し感に堪えない思いがする。いろんな好みがあるのだということは,頭の中ではわかっている(つもりでいる)。が,彼女ほどにはなれなくても,ニールセンとの距離をもう少し詰めることが自分はできるだろうか。

● と思えたのが,今回,ニールセンを聴いたことの最大の収穫かもしれない。プログラム冊子の“プログラムノート”には,「本日の演奏会をきっかけに,より大戦色が濃く,ニールセンの最高傑作との呼び名が高い第5をお聴きいただけたら幸甚です」とあるのだけれども,その5番も聴こうと思えば今すぐにでも聴けるのだ。CDは手元にあるんだから。
 さて,その機会を活かせるのか,オレよ。

● ということで,ニールセンの4番は刺激的だった。が,それよりもアンコールの「フィンランディア」にゾクッときた。
 えっ,アンコールでこれをやるのかとまずは驚いたのだけど,この「フィンランディア」はこちらの気持ちの殻を食い破って,ずんずん中に入ってくる。何だか泣きそうになってしまった。
 シベリウスが込めた思いが見えたような。フィンランド人とは友だちになれそうな気がした。

2019年3月26日火曜日

2019.03.24 宇都宮ユース邦楽合奏団演奏会

宇都宮市文化会館 小ホール

● 宇都宮ユース邦楽合奏団とはそも何者かというと,和楽器の演奏がめっちゃ巧い,若い美女の集団である。細かいことを捨象して,ざっくり言えばそういうことだ。
 メンバーは不動ではなく,入れ替えはある。が,上記の定義を変更する必要はこれを認めない。

● 一芸に打ちこんできた人たちが,その一芸を披露するときに発する凜々しさのようなものは,邦楽に限らず,それが何であっても見られるものだ。
 加えて,邦楽演奏となれば,ドレスのほかに和服が付きものだ。ステージに立つのに外見を等閑に付すバカはよもやいないと思うが,邦楽の場合は等閑に付すことを許さない強制因子が強力に働くようだ。
 というわけなので,正直に申しあげると,この演奏会に出向く際に,箏の音色を聴きたいというほかに,外見の美を愛でたいという気持ちがなかったとはいえない。いや,半分はそうだったかも。

● 開演は午後2時。チケットは1,000円。去年のうちに前売券を買っておいた。2013年に当日券がなくて入れなかったことがあるので,念を入れたわけだった。
 演奏会名に「邦楽ゾリスデン」が大文字で入っていた頃の話ではあるんだけども。

● まずは,菊岡検校「ながらの春」。この曲から琵琶湖畔の桜を思い浮かべて,脳内に作ったその情景の中で,行く春を惜しむという芸当を演じてみせることはぼくにはできなかったが,駘蕩たる曲で,そこに謡が入るから,長く聴いているとトランス状態に落ちていくかも。
 そうはならないのは,奏者を見てしまうからだ。艶やかにして清楚。見る楽しみってたしかにあるんですよ。ピュアなものとしてね。

● ユースの中にさらにジュニアというのがあるらしい。小学生とか中学生。そのジュニアが演奏したのは,沢井比河流「夢の輪」。
 短い旋律を積みあげて巨大な構造物を造っていくベートーヴェン的な手法を感じたのだけども,ベートーヴェンの楽譜には絶対にそのとおりには弾けないと思える箇所がいくつもある。この曲にはさすがにそれはないのだろう。

● このあと,牧野由多可「琉球民謡による組曲」があって,休憩。休憩後はワークショップの成果発表があり,水越丈晴編「Japanese Heros & heroines」。
 暴れん坊将軍,仮面ライダー,必殺仕事人,キューティーハニー,Miracle go! プリンセスプリキュア,ムーンライト伝説,の主題歌をアレンジしたもの。こういうのってバカにできないと思った。ムーンライト伝説に移ったときに,何だかググッと来るものがありましたよ。
 この曲の旋律と箏の音色の取り合わせって,かなりいいんですよ。何なんですかね,これね。仕上がりがとてもセクシー。

● 最後は,沢井忠夫「箏のための小協奏曲 ファンタジア」。プログラム冊子の“曲解説”に曲の構造が説かれているが,それはそれとして。この演奏からぼくが感じたものは,途方もない緊張感だ。
 目をむくような超絶技巧は用いられていないようなのだが,音と音の緊密感,音のまとまりともうひとつのまとまりが作りだすただならぬ調和と反発。それらが作りだすピンと張りつめた,一分の弛みもない世界。
 その世界に長くはとても住めないが,たまに接すれば,それ自体が快をもたらしてくれるだろうと思った。その快は稀少なものであるだろう。

● 箏が出すことができる音色のすべて,箏の奏法のすべてが,この曲の中に散りばめられているようにも思われた。
 「沢井忠夫作品集 CD全5枚組セット」の中にこの曲も収録されている。YouTubeにも音源はある。聴こうと思えば,方法はいくらでもあるということだ。

2019年3月22日金曜日

2019.03.21 石橋高等学校吹奏楽部 第14回定期演奏会

小山市立文化センター 大ホール

● 昨年は宇都宮で開催したので,初めてこの学校の吹奏楽を聴く機会を得た。で,「県内高校の吹奏楽といえば,まず作新があり,宇都宮北がある。あと,“それ以外”の全部で3つがあると思っていた」のが軽い間違いであることに気づかされた。
 というわけで,今回は二度目。二度目となると,なかなか難しい。もうだいたい知ってる(つもりになっている)わけだからね。驚きが少なくなる。

● 今年も宇都宮でっていうわけにはいかなかったと思う。県の総合文化センターが使えなくて,宇都宮市文化会館に集中してるだろうからね。なかなか押さえるのも難しいだろう。
 ということがあったのかどうかは知らないが,とにかく小山で開催。その小山にやってきた。

● 小山まで行くのは何となく億劫。昔はそうでもなかった。用もないのにわざわざ行って,駅周辺をウロウロするのが嫌いじゃなかった。
 加齢現象かね。まだまだ加齢に負けるわけにはいかないんだけどねぇ。
 通過するのは全然OKなんだけどね。東京に出るときには必ず通過するんで。その東京にはけっこう頻繁に出かけている。

● 開演は午後3時。3部構成で曲目は次のとおり。
 P.リーマンス 行進曲「ベルギー落下傘部隊」
 C.フランク パニス・アンジェリス 荘厳ミサ曲より
 林 大地 「あんたがさどこさ」の主題による幻想曲
 岡田康汰 行進曲「道標(みちしるべ)の先に」
 スッペ 「美しきガラティア」序曲

 遠藤正樹 ポリペタルⅤ 5人のフルート奏者と3人の打楽器奏者のために
 A.メンケン アラジン
 miwa 結(合唱)
 平成のヒットチャートより

 B.アップルモント ブリュッセル・レクイエム
 J.パディーラ エル レリカリオ
 和泉宏隆(真島俊夫編曲) オーメンズ・オブ・ラブ

小山市立文化センター
● 大変な力量。練習の跡もわかりやすく見える。
 印象に残ったのは,スッペ「美しきガラティア」序曲。印象に残ったのは,ぼくが管弦楽を中心に聴いているからだろうとも思うのだが,それを割り引いても,ブレスの使い方が上手いというか,揃っているというか。一方で,レガート。これで印象に残らないはずがない。
 カラヤンの「ロッシーニ&スッペ序曲集」は手元にある。CDで聴き直してみようと思った。

● 面白かったのは第2部の平成ヒットチャート。9曲を用意して,その中から3曲を客席に選ばせるという趣向。それぞれにアトラクションが付く。
 ということは,演奏しなかった6曲にも同じものを用意していたのだろう。何という膨大で無駄な努力。それをできるのが,若さの凄味ってやつか。

● 「アラジン」はドリル。吹奏楽にドリルがあるのは吹奏楽の出自の然らしめるところで,このドリルが楽しみという人もいるに違いない。奏者の中にもいるかもしれない。
 反射神経や運動神経,器用さが求められるよねぇ。旗の回し方ひとつ取ってもねぇ。楽器だけやってりゃいいという話じゃなくなる。

● 今回は,楽器を置いて歌まで歌っている。楽器をやっているんだから,楽譜を見て勘所はわかるんだと思うんだけど,表現手段が声なんだから,なかなか思うに任せないところがあるに違いない。
 歌は歌詞があるので,歌詞に対する好みも出てしまう。多くの人に膾炙するには歌詞に大衆性がなければならないが,ぼく一個は,絆とか結とかっていうのが大嫌いというヘソ曲がり。
 だから(昔の言葉だが)歌謡曲を聴かないというわけではない。好きな曲はたくさんあるんだけどね。

● 「ブリュッセル・レクイエム」は3年前に起きてしまったブリュッセルでのテロ事件の犠牲者を悼むために作られたらしい。プログラム冊子の“曲紹介”によると,最後は「未来への希望」で締めくくられているらしい。
 が,それをどう聴くかは,聴く側に裁量の余地があるものだろう。聴く側の想像力に依存する部分がある。
 で,ぼくはどうも作曲者が籠めた意味のとおりに聴くことはできなかった。というか,よくわからなかった。演奏に問題があったわけではないと思うので,ひとえにぼくの未熟であります。

● ややセンチメンタルが勝ちすぎている演出もあったかに思えたけれども,そう見えたのは,老人の僻目であるかもしれぬ。それ以前に,高校生のセンチメンタルは悪いものではない。
 が,楽屋は裏にあってこその楽屋であって,それを表に晒すのは基本的にはいいことではないとも思った。

2019年3月19日火曜日

2019.03.17 ユーゲント・フィルハーモニカー 第13回定期演奏会

杉並公会堂 大ホール

● 開演は午後2時。チケットは1,000円(当日券)。曲目は次のとおり。指揮は三河正典さん。
 ニールセン 交響曲第3番「広がりの交響曲」
 コダーイ ハンガリー民謡「孔雀は飛んだ」による変奏曲
 シベリウス 交響曲第5番

● ニールセンはデンマーク,シベリウスはフィンランド,あとノルウェーのグリーグが来れば,北欧の3巨匠の揃い踏みとなるところ,ハンガリーのコダーイを持ってきた。
 が,アンコールはグリーグの「ホルベアの時代から」前奏曲とスメタナの「モルダウ」。ドイツ圏をはずして,北欧と中欧ということだが,狙ってそうしたのかたまたまなのかはわからない。

● この楽団の演奏はすでに何度か聴いている。腕のほどはわかっている。裏切られることはない。
 これまで聴いたアマチュア・オーケストラの中でどれが良かったか,ひとつ選べ,と言われても,選べない。が,ユーゲント・フィルはかなり有力。こういうのって,つまりは好みだけど。
 端正な演奏。端正でいられるのは技術の裏付けがあるからだ。曲を選ばない表現の柔軟性も,技術の裏打ちがあってのもの。
 頭もいいんだと思う。それ以上にノリがいいんでしょうね。客席からは優等生の集団のように見えるんだけど,ノリが悪かったら端正と柔軟性の両立は説明できない。

● ニールセンは著名な作曲家だから,ぼくも何枚かのCDは持っている。だけども,なかなか手が伸びないというのが正直なところ。どうしたってモーツァルトやベートーヴェン,ブラームスを聴いてることが多い。
 既知の曲にしか気が行かない。否応なく聴かされないと,なかなか広がりが生まれない。自ら広がりを求めに行くってことが,ぼくにはあまりない。
 なので,たとえばNHK-FMの「クラシック・カフェ」を聴くのは悪くないと思っている。かといって,ではそうしているのかというと,それは別の問題になるわけでね。

● あとはこうした生の演奏で聴くこと。とはいえ,ニールセンは演奏機会が多いとは言えない。ぼくが飯田のは,以下がすべてだ。
 2011年2月にモーツァルト合奏団の演奏で聴いた「小組曲 イ短調」。5月に当時のマイクロソフト管弦楽団で聴いた交響曲第2番。2013年7月にル スコアール管弦楽団で聴いた「仮面舞踏会」序曲。2015年8月に日立フィルハーモニー管弦楽団で聴いた「ヘリオス序曲」。2017年10月に丸の内交響楽団で聴いた交響曲第4番。
 以上ですべてだ。しかも,どんな曲だったかほぼ憶えていない。聴いたことすら忘れている。ぼくの聴き手としての水準はこんなものだ。

● 我慢(?)して何度か聴いていると,ある日,唐突に視界が開ける思いがするのが,クラシック音楽を聴くことの醍醐味だとは思う。そのためにはCD(ネットでもいいが)を使うのが必須。
 問題はそのとっかかりをどう作るかということ。が,今までのところはニールセンに関してはそのとっかかりを作ることに失敗している。

● ニールセン3番の第2楽章にソプラノとバリトンの二重唱(今回は平中麻貴さんと菅谷公博さん)が入る。気持ちが洗われるようだった。
 ホルスト「惑星」の“海王星”にも女声合唱が入って,これが何ともいえない効果を生んでいる。この曲でも二重唱は効いていて,幽玄というのか神秘というのか,人間的ならざるものを産んでいる。人の声が人間的ならざるものを産むのは不思議なものだ。

● コダーイのこの曲は初めて聴く。CDも持っていない。チェロとコントラバスが主題を提示して,以後,16の変奏曲が続いていくというのは知識としては知っている。
 が,どこに主題が残っているのか,ぼくの耳ではわからない。何だかな。
 ま,この曲に限らないわけで,典型的にはバッハのゴルトベルク変奏曲がそうだ。あの30の変奏のどこに主題が残っているのか,ぼくには聴きとれない。グレン・グールドのピアノで聴いてもわからない。曽根麻矢子さんのチェンバロで聴いてもわからない。30個の独立した曲を聴いているようなものだ。

● シベリウスの5番はいくらか馴染みがある。少しホッとした。
 今回の曲目はメインを3つ重ねたようなもの。その後にアンコールが2曲。2曲目が「モルダウ」。これをアンコールに持ってくるとは畏れ入った。けっこう長いものね。
 難解な曲が続いたので,これなら知ってるでしょっていうサービスだったのかなぁ。

2019年3月18日月曜日

2019.03.16 ワグネル・ソサィエティー・OBオーケストラ 第85回記念定期演奏会

すみだトリフォニーホール 大ホール

● ワグネル・ソサィエティー・OBオーケストラとは「慶應義塾ワグネル・ソサィエティー・オーケストラの卒業生を中心としたアマチュアオーケストラ」であって,読んで字のごとし。では,慶應義塾ワグネル・ソサィエティー・オーケストラとは何かといえば,「1901年に創立した日本最古のアマチュア学生音楽団体」で「ドイツの作曲家リヒャルト・ワーグナーにちなんで名づけられた」ものらしい。
 残念ながら,その慶應義塾ワグネル・ソサィエティー・オーケストラの演奏を聴く機会はまだ得ていないが,名声は耳にしている。OB・OGが立ちあげた団体もこの楽団の他にもあるらしいのだが,いずれも聴いたことはない。今回が初めて。

● 開演は午後2時。それに間に合うためには,何時に家を出なければならないかは当然わかる。開演前に着席して,配られたプログラム冊子に目を通して,それを脳内メモリにコピー&ペーストしておく必要がある。それこみで,何時に家を出るかを計算する。
 のだが,今日はごく私的な事情があって,それが叶わなかった。ホールに到着したときは,午後2時を15分ほど過ぎていた。

● さて,どうする。スパッと諦めて街の雑踏の1人になるか,途中からでも聴くか。曲目は次のとおりだ。
 ブラームス 悲劇的序曲
 ドボルザーク チェロ協奏曲
 ブラームス 交響曲第2番
 今からだと,「悲劇的序曲」が終わったあとに入場することになるだろう。どうしようか。0.3秒ほども考えたろうか。後者を選択した。当日券(2,000円)を買って,ドアの前に並んでいる先達(?)たちの列についた。
 こういうときに大事なのは席を選ばないこと。近くに空いている席を見つけたらサッサと座ること。

● というわけで,ドボルザークのチェロ協奏曲から聴くことになった。こういうブザマを晒すのはたぶん初めてだ(と思いたい)。
 しかし,気分としてバタバタすることはなく,すぐに“聴くこと”に入っていけた(と思う)。独奏チェロは丸山泰雄さん。指揮は井﨑正浩さん。
 丸山さんのチェロを聴けるのはもちろんありがたい話で,謹んで拝聴したいと思うのだが,それでもこの曲は管弦楽を聴くためにあるような気がする。

● 大学オケの慶應義塾ワグネル・ソサィエティー・オーケストラについては,先に申しあげたとおり,名声はしばしば耳にするのだが,演奏を聴いたことはない。演奏を聴いたことはないのだが,名声はしばしば耳にする。で,だいたいこんなものではないのかなと頭の中で想像する。
 OBになった後もそれを維持するのは,常識的に考えれば不可能なはずだ。それが可能なのは演奏することを仕事にした場合だけのはずで,それに次ぐのが中学や高校の音楽教師になることだろうが,それだって現役時代の腕を落とさずにいるのは,なかなか容易ではないと思う。

● しかるに,事実は小説よりも奇なりという状況に遭遇することがある。辻褄が合わないではないかと異議を申し立てたくなる。
 落ちることがないところまで,技術を体内に固定化しているということだろうか。そこまではやったよ,と。

● コンミスがイケイケドンドンの人。怖いもの知らずという印象。といって,怖いものを知らなかったら,コンミスは務まらないだろうから,そこは緻密な計算があるのだろう。
 と思う。思うのだが,ひょっとするとそんな姑息な計算などないかもしれない。天然なのかも。そんな計算などしていたのでは間に合わないかも。だとすると,たいした豪腕だということになる。

● この楽団,層が厚い。ヴァイオリンだけ取っても,コンミスに何かがあっても,次の瞬間から代打に立てる人が,ゾロゾロいそうだ。
 今回の演奏では特にフルートが目立ったと思うんだけど,木管も金管もレベルが高い。そうして,個々の奏者のレベル差が少ない。

● ブラームスの1番と2番を並べてみると,とにかく不思議。曲想がまるで違うと思えるし,1番が構想期間も含めれば苦節ン十年なのに対して,2番は4ヶ月で書きあげたらしい。1番の(ベートーヴェンとの)苦闘があったからそれが可能になったのだよと言われれば,たしかにそうなのだろうけれど,にわかには信じがたい。
 投入したエネルギーと作品の出来は比例しないというのも,たしかにそうなのだろうけれど,直列処理ではなく並列で処理していたと考えた方が腑に落ちるかなぁ。
 どっちでもいいんだけどさ。彼ほどの天才になれば,こういう小賢しい詮索に対しては,お好きにどうぞという話にしかならないんでしょうからね。

● ところで,丸山さんのアンコール曲。ジョヴァンニ・ソッリマの「ラメンタツィオ」という曲らしいのだが,初めて聴くのはもちろん,名前も知らなかった。
 ラメンタツィオとは哀歌という意味らしいのだが,ぼくの耳では哀歌っぽさは感じ取れなかった。というか,チェロにこんな奏法があるのかという驚きが先にたって,そこから進めなかったというのが正直なところだ。
 チェロ奏者には有名な曲なのかもしれない。これを聴けただけで,チケット代の元は取れたような気がした。

● オケのアンコールはドボルザークのスラヴ舞曲第9番。チケットは強気の2千円だが,この演奏なら取っていいか。井﨑さんの指揮にも久しぶりに接した。

2019年3月11日月曜日

2019.03.10 宇都宮短期大学・附属高等学校音楽科 第51回卒業演奏会

宇都宮短期大学 須賀友正記念ホール

● 例年は平日の夜に,宇都宮市の栃木県総合文化センターで開催している。が,ただ今は総文センターが大規模改修中で使えない。
 という理由からだと思われるが,今回は自前のホールで開催。お客さんが来やすいのは,当然,総文センターの方だが,その代わりの休日開催。

● 良くも悪くも,長坂キャンパスの周りには何もない。コンビニもない。学生は食事も学内で賄っているんだろうか。途中で弁当を買ってくるんだろうか。
 そうだとすると,サラリーマンのようだな。ぼくも出勤途中にコンビニに寄って,その日の昼飯を調達しているのでね。菓子パンとカップ麺。ときどき,おにぎりも付ける。

● ま,そんなことはどうでもよろしい。この演奏会にお邪魔するのは2年ぶりになる。昨年は行かなかった。なぜかといえば,開催日時の情報を見逃したからだ。
 総文センターで開催するのであれば,総文センターのサイトで把握できるはずなのだが,それを怠ったということだ。

● 今回は自前のホールということなので,大学のサイトを確認してみたんだけども,この演奏会の告知は発見できなかった。階層の深いところに潜んでいるんだろうか。
 で,どうして知り得たかというと,地元の公共施設にチラシが置いてあったからだ。が,知ったのは7日。けっこう危うい。可能ならば,大学サイトのトップページに掲載しておいてもらえると嬉しいのだが。

● 開演直前には座席のほぼすべてが埋まった。大学や附属高校の関係者が多いのだろう。演奏会の性格からして,それが当然。
 何だかんだ言って,栃木県の音楽のセンターに位置する機関の少なくともひとつは,ここだ。人材の供給源というにとどまらない。

● 開演は午後2時。46回,47回,49回に続いて,4回目の拝聴になる。
 聴きに来た理由は2つ。第1に普段はなかなか聴く機会がない曲を聴けるからであり,第2に,若い人たちの演奏には,はぼ例外なく,生体としての美しさが体化されて宿っていることを,過去3回の演奏を聴いて確信しているからだ。
 彼ら彼女らの技術や表現力というのは,これから先,まだまだ進歩するのだとしても,技術なり表現力が限界に達したあとの演奏が良くて,発展途上の演奏はダメかといえば,そんなことはまったくない。

宇都宮短期大学
● というより,発展途上を感じさせない演奏など聴いてどうするのかと思わぬでもないのだ。円熟の域に達したとか,枯れた芸とか,そういう言い方をされるものにはあまり興味がない。
 正確にいうと,円熟しようと枯れようと,そこにかすかにでも“発展途上”を宿していないものを聴いても面白くないのではないかと思っている。
 70歳や80歳になってなおステージに立つ巨匠は昔もいたし,今もいるのだろうが,そうした人たちは,なお“発展途上”を抱えているに違いない。ぼくはそうした演奏を聴いたことがないので,想像だけで言うのだが。

● 若い人たちの“発展途上”は,発展前の途上だから,本当に発展するのかどうかも未知数だ。そこが良い。良いというと不穏当かもしれないが,若い人たちの魅力というのは,つまりはそういうところにある。
 ぼくらロートルは見守るだけだ。見守るだけのそのことが,ロートルにはけっこう以上の楽しみだったりする。わかってもらえるだろうか。いや,わかってもらえなくてもいいんだけどね。

● 過去の例を思いだすと,これはと思う傑出した演奏が2つ3つあったものだ。ところが,附属高校の今回の演奏ではそれがない。
 いや,逆の意味だ。それぞれレベルが高くて,2つ3つを抜きだすことができない。そこをあえてやってみようかとも思ったんだけども,恥をかくだけだからやめておく。

● あとは,毎回思うことを今回も思った。女子の場合,高校生は完全に一個の淑女だということだ。身体が大人のものになっている。
 男子の場合は高校生の時期が,まさに疾風怒濤のさなかで不安定を極める時期だと,自分の体験から思うのだけれども,女子の場合,疾風怒濤の時代は小学校高学年から中学1,2年くらいまでだろうか。高校生になると,もう安定期に入っているように思える。
 人体の成長過程からすれば,10代で出産し,20代で子育てを終え,30過ぎたら死ぬ,というのが最も自然であろうから,彼女たちはすでに出産の準備を整えている。一個の淑女であって当然といえばいえるのだが,その当然がなかなか腑に落ちてこないんだな。

● 短大&研究科では,伴朋美さんのソプラノと渕岡涼さんのサクソフォンが印象に残った。
 最後の合唱も。『女声合唱とピアノのための「こころの色」』の第3曲と5曲。グリーグの“朝”を思いだした。突飛な連想であいすまぬが。
 ざっとYouTubeを見たところでは,全部を聴くことはできないっぽい。CDは出ている。さぁて,どうしようか。

2019年3月5日火曜日

2019.03.03 オーケストラ・ダスビダーニャ 第26回定期演奏会

東京芸術劇場 コンサートホール

● オーケストラ・ダスビダーニャの名前は知っていた。何せ,Wikipediaにも載っているのだ(書いてるのは,たぶん,中の人だと思うのだが)。「旧ソ連の作曲家ドミートリイ・ショスタコーヴィチの曲を演奏することを目的に結成された。ショスタコーヴィチの曲を演奏することを目的に結成された専門オーケストラは他にLondon_Shostakovich_Orchestraが存在するが,アマチュア団体としては世界唯一であり,演奏曲目数もダスビダーニャのほうが多い」。
 ロシア音楽に特化して演奏している団体はいくつかあるけれども,ショスタコーヴィチに特化しているのは,Wikipediaの説明を信用するなら,世界に2つしかなく,そのひとつが日本にあるということになる。

● が,聴くのは今回が初めて。人と人との出逢いもそうだけれども,オーケストラとの出逢いにおいても,出逢うべき時期というのがあるのだろう。
 ぼくにとっては,この楽団と出逢うべき時期は今だったのだということ。これより早ければ早すぎたのだし,遅ければ遅すぎたのだ。
 そういう偶然の計らいをぼくはわりと信頼している。開演3秒後に,なんでもっと早くに聴いてなかったのかと思わぬでもなかったが,いやこのタイミングでよかったのだと思い直した。

● 開演は午後2時。チケットは2,000円。早めに会場に着いて,当日券を購入。2階中央の3列目というかなりいい席が空いていた。
 曲目は次のとおり。指揮は長田雅人さん。
 映画音楽《マクシム三部作》組曲
 交響曲第2番「十月革命に捧ぐ」
 交響曲第6番
 長田さんはこの楽団の結成以来の常任指揮者であるらしい。ショスタコーヴィチの楽曲を最も数多く指揮した指揮者ということになるのかもしれない。

● いずれも,この楽団の演奏を聴くのでなければ,めったに聴く機会のないものだ。特に《マクシム三部作》はこの楽団が再度取りあげるのでもない限り,この先も聴けることはないだろう。
 で,これが度肝を抜くものだった。中江早希さんが客席からステージに上がって,短く歌って,パントマイムを繰り広げて去るという演出は,当然,この楽団の創案だろうけれども,じつに効果的。
 中江さんの演技上手(?)もさることながら,効果あらしめる場をこの楽団の演奏が作れていたということだ。この演奏あればこそ,中江さんが際立つ。

● ショスタコーヴィチについて語れるほど,ぼくは彼の楽曲を聴いたわけではない。したがって,素人の無責任な推測になるのだが,ショスタコーヴィチの才能は,交響曲や弦楽四重奏曲よりも,むしろ映画音楽の方に奔放に発揮されているのかもしれない。本道よりも脇道の方が,ショスタコーヴィチらしさに満ちているというか。
 チャイコフスキーだって交響曲よりもバレエ音楽の方に彼の真骨頂が見られると思われるし,ブラームスにしたって,さて4つの交響曲に彼を閉じ込めていいのか,という疑問もある。

● 第2番には合唱が入る。“オーケストラと歌うロシア合唱団”と“東京トリニティコール”という団体が担った。マーラーもびっくりという珍妙な楽器(?)も使われている。
 単一楽章のこの曲を交響曲といっていいのかどうかは,交響曲の定義による。で,交響曲といって何ら差し支えない。
 ぼくとしては《マクシム三部作》で抜かれた度肝を取り戻す前にこの曲を聴いてしまったものだから,正直,よく憶えていないというか,わりと印象がぼんやりしている。申しわけない。

● 休憩をはさんで,第6番。3楽章からなる。たしかに,???という印象を残す曲だと思った。
 が,そういうことよりも,この楽団の演奏が素晴らしい。ステージから発散されるエネルギーが並ではない。その演奏に圧倒されて,演奏を聴いて曲を聴いていなかった可能性がある。
 この楽団の力量については,これ以上はひと言も語る必要がない。聴けばわかる。

● 演奏は録音されていた。それも,せっかくだから録っておきましょというのではなく,カチッと録音している。
 次の演奏会で販売されるのだろう。つまり,今回も過去の演奏を録音したCDが販売されていた。3,500円という強気の値付けも,この楽団なら許されるかもしれない。実際,購入している人がけっこういた。
 ぼくも14番の録音を探した。ショスタコーヴィチ(交響曲)のCDはひととおり手元にはあるんだけど,14番の音質に少し不満があった。が,14番だけはないのだった。この曲だけはまだ演奏していないらしい。

● プログラム冊子もB5版で本文38ページという読みごたえがあるもの。同人誌の趣がある。
 曲目解説が複数載っている。頭のいい勉強家が何人もいるらしい。ひょっとして,東大オケのOB・OGもいるんだろうかと勘ぐったほどだ。
 が,巻末の“ダスビの日記帳”という,コラムというのか雑文というのか,そういうものを集めた数ページがあって,これが面白い。文才豊かな人もいるわけだ。

● この中で特に目を惹いたのが2つ。ひとつは指揮者の長田さんが書いた「奇妙であると謂う感触」というタイトルの,これは何というんだろうか,掌編小説のようでもあり,脳内妄想をそのまま文字化したようでもあり。
 舞台は学生運動華やかなりし頃の東京だろうが,別に東京でなくてもいい。不思議なテイストだ。音楽にたとえれば,ドビュッシーの小品の中にこんなテイストのものがあったような。

● もうひとつは,団員の1人が自身のウツ体験を綴ったもの。こういう体験を経験していない人に伝えようとすると,どうしてもくどくなる。言葉が過剰になる。そこを免れているだけでも大したものだ。
 彼は優秀で責任感旺盛なビジネスマンだったようだ。その優秀さが自分に牙を向けてしまったという側面があるかもしれない。
 仕事やお金は命を賭すほどのものではない。それは絶対にそうなのだが,命を賭していると見えるようにふるまっているヤツが幅を利かすという厄介な状況はある。

● ショスタコーヴィチというと「二重言語」や「純音楽を装った交響曲に隠されているメッセージ」の問題がどうしたって出てきてしまう。これをどう取り扱うか。ぼくの目下のスタンスは,あまり深入りするな,というものだ。
 『ショスタコーヴィチの証言』についていえば,ヴォルコフは余計なことをしてくれたと思っている。第5番の解釈で“反体制の暗号が散りばめられている”などと講釈されると,少しくウンザリする。大昔にあった,万葉集を古朝鮮語で読むというのを思いだしてしまう。

2019年3月4日月曜日

2019.03.02 洗足学園音楽大学オペラ公演 歌劇「ヘンゼルとグレーテル」

洗足学園 前田ホール

● 洗足学園音楽大学のサイトによると,演じるのは「オーディションで選ばれた学部生,大学院生,既にオペラの世界で活躍中の卒業生」。しかも,「バレエコースの学生による華麗なバレエシーン」まである,と。
 加えて,衣装・小道具は,「多摩美術大学演劇舞踊デザイン学科による」ものらしい。若々しくも豪華絢爛の匂いがする。

● 指揮は時任康文さんの予定だったらしいが,松田義生さんに変更になった。ステージを支えるのは,上記のとおり,洗足学園の学生たち。SENZOKU OPERAアンサンブル,SENZOKU OPERA合唱団。
 「入場無料 全席自由 予約不要」という最もありがたい催行方式。

● 演しものは,フンパーディンクの歌劇「ヘンゼルとグレーテル」。序曲は生で聴く機会がこれまでにもあったし,これからもあると思うし,CDも持っているのだが,全体を聴く(見る)機会はなかなかなさそうだ。
 Wikipediaによると,「ドイツ圏では今なお上演回数上位に位置する人気作であり,英米でも比較的人気が高い」らしいのだが。

● ぼくはCDもDVDも持っていない。オペラはCDに気が行かない。歌詞の意味がわからなければどうにもならないからで,かといってCDに付いてくる対訳冊子を見ながら聴くなんてのは,かったるくてやってられない。
 DVDもあるに違いないのだが(ビデオテープは図書館で見たことがある),あえて探すことはしていなかった。あるいはYouTubeで見ることもできるかもしれない。
 が,生でってことになると,ぼくのアンテナにはあまり引っかかってこない。

● というわけで,ワクワクしながら家を出た。上野東京ラインができて,川崎に出るのが便利になった。乗換え時間や待合わせ時間を考えると,新幹線で行くより,宇都宮から熱海行きや小田原行きに乗ってしまう方が簡便だ。
 川崎で南武線に乗り換えて,武蔵溝ノ口。造作もない(今回に限っては湘南新宿ラインでもよかった。武蔵小杉で同じように南武線に乗り換えればいい)。

● 開演は午後3時。40分前には着いていたと思う。が,すでに長蛇の列。毎年来ているらしい爺さまが今年は多いねぇと言っているのが聞こえてきたんだけど,そうなのか,今年は特別なのか。
 ホールの座席では足りず,スタッフがパイプ椅子を並べていた。満席以上。

● 観客は子連れの家族が多い。「ヘンゼルとグレーテル」ゆえだろう。
 ここからは下司の勘ぐりだが,主催者の狙いもそこにあったろうと思う。未来の受験生になってくれるかもしれない。まもなく死んでいく老人よりは,年端もいかない子供に来てほしい。未来ある若者に来てほしい。健全思考というべきだ。
 とはいえ,(ぼくを含めて)暇な年寄りも多い。というか,全体としては年寄りの方が多い。

● 日本語上演。この歌劇は日本語で上演されることが多いんだろうか。劇中の主役は子供なわけだから,日本語の方が気持ちを籠めやすいという事情があるんだろうか。客席に子供が多いことは想定できるわけだから,だったら日本語でということだろうか。
 日本語でやることには文句はない。が,その場合であっても,字幕は出してほしい。そこはオペラなので,日本語であっても字幕がないと何を言っているのか聞きとれないのだ。子供たちも同様だろう。一番いいのは,原語でやって,ルビ付きの字幕を出すことだと思うのだが。

● 予想どおりだった。ステージのセットや衣装を含めて,何というか本格的。さほどにお金はかけていないと思うのだが,チープ感は皆無。
 バレエは第2幕の終盤で登場。雰囲気がガラッと変わる。神秘感が倍加する。このオペラにバレエが加わるのは普通なのか,今回が特別なのかは知らないけれど,もし後者ならずいぶん得をした気分。
 コール・ドといっていいんでしょうね。ポワントで揺らぐような動作を見せられると,女性美の極致を見ている気分になる。これ以上の視覚美ってこの世にあるんだろうかと思う。いや,大げさでなく。

● ヘンゼルとグレーテルは兄妹。といって,ヘンゼルにはメゾソプラノが充てられているから,女性が演じる。子供なのだからテノールやバリトンはあり得ないのだが,ともかく大人の女性が演じる。
 このあたり,脳内で視覚を補正する必要があるのかと思っていたのだが,わりとそのまま受けとめていいのだった。宝塚を持ちだすのは少し違うと思うけれども,女が男を演じて違和感が出ることは,むしろ少ないのかもしれない。まして子供ということになると,性差は問題にならないか。

● 原作であるグリム童話と大きく違うのは,「母親が実母で善人となっている」ところ。したがって,最後はハッピーエンド。閉じ込められていた他の子供たちも解放されて,歓喜のうちに終わる。ハッピーエンドはいいものだ。
 上演時間も2時間に満たない。これもフンパーディンクが観客の子供が飽きないように配慮した結果だろうか。

● というわけで,軽量級で子供向けってことになるのかもしれないが,子供が本気で楽しめるものなら大人も楽しめるというテーゼは成立するか。対偶をとって,大人が楽しめないようなものは子供だって楽しめないのだと言っていいだろうか。
 そうであるようでもあり,そうではないようでもあり。

● 同じ公演が昨日もあった。つまり,2回公演。おそらく,昨日が学内関係者向け,今日が一般向けという区分けができるだろう。
 入場時に配られたチラシを見ても,洗足学園は地域貢献をかなり意識しているように思える。この公演もだいぶ長く続いているらしい。演じる学生の勉強になるのは言うまでもないとして,それでも主眼は地域との交流にあるように思われる。

● 実際のところ,地域貢献を題目に掲げていない大学はない。が,一般大学の場合は講義の公開だったり,社会人相手の生涯学習講座を開講する程度のことだ。して,その中身はといえば,おざなりであろうと思う。文科省に対するエクスキューズを作っているだけという(推測だけで言っている。違っていたら申しわけない)。
 その点,洗足学園のような音大にはアドバンテージがある。音楽という武器を持っている。刺さる人には刺さる。逆にいえば,刺さらない人にはまったく刺さらないわけだが,そういう人はそもそも市場の人ではないのだから,全然かまわない。
 その武器の使い方が巧みだよね。洗足学園の存在を社会に知らしめる効果(PR効果)は,受験雑誌や音楽雑誌に広告を打つより,こうした催しの方が,一見は地域限定に見えるけれども,かえって遠くまで届くのかもしれない。