2019年12月25日水曜日

2019.12.22 第12回栃木県楽友協会「第九」演奏会

宇都宮市文化会館 大ホール

● 風物詩というものがおしなべて訴求力を失っているように見える。それは昨日今日の話ではない。正月に羽をついたり,書き初めをしたり,凧をあげたりする風景は,田舎でも相当な昔に消えている。双六で遊ぶこともとっくになくなっているだろう。
 それがさらに進んで,今や,正月そのものが解体されつつあるように思える。第1の理由はインターネットだろう。時間の過ごし方を徹底的に個別化する装置がインターネットだ。

● 正月に限らず,バレンタインデーだの,エイプリルフールだの,クリスマスだの,年越しそばだのというのも,大衆の行動を支配する力をほぼ失っている。
 風物詩としては新参者のハロウィンもすでにピークは越えているように思える。渋谷のハロウィンの悪しき(?)盛りあがりぶりが話題になって,どうすればよいかが新聞種になったりもしているけれども,良くも悪くもあれだけのパワーがいつまでも維持されるわけはないと見る。

● 「第九」も年末の風物詩になって久しいのだが,はやり徐々に観客動員力を落としているように感じる。けっこう空席があるようになっている。ひょっとしたら「第九」が飽きられてきたのかもしれない。
 が,それ以上に年末行事だからではないかと思う。それでも,他の風物詩,たとえばクリスマスなどに比べれば,まだ衰勢は微弱ではある。

● ともあれ。年に1回の栃響の第九を聴きに来た。開演は午後2時。チケットは1,500円。事前に購入しておいた。
 付け合わせは,今回はモーツァルト「フィガロの結婚」序曲。

● 今回はヴァイオリンが対抗配置でなかった。だから何だというと,まぁ,何でもないのだが。
 第九は第1楽章がすべてだと思っていた時期がある。宇宙のビッグバンの音楽的表現だ,と。ビッグバン以前なのだから神も存在しないはずなのだが,ここにおいては神がビッグバンを司る。その神も一発では決めることができず,何度かやり直す。ビッグバンは難産だったのだ。

● しかし,今回,最も印象に残ったのは第2楽章だった。ベートーヴェンが意図したわけではないと思われるのだが,楽章全体から滴るような気品。その滴りまでも具現化した演奏でね。
 栃響は素晴らしい。今更で申しわけないんだけどさ。首都圏の名だたるアマオケと比べても,引けを取るまい。

● 罰あたりなことに,第4楽章はなくてもいいんじゃないかと思っていたことがある。愚かにもほどがあるというべきでしょうね。
 この楽章なくして第九はないですわねぇ。特に声楽が入る前の,歓喜のテーマの絢爛はどうしたって必要でしょ。歓喜のテーマが,チェロ・コントラバスから始まって,管弦楽全体で歌いあげるところまでが,第九の核心。
 特に,ここでヴィオラが奏でる歓喜のテーマを聴くと,ヴィオラという楽器はこのためにこそ生まれてきたのではないかと思ってしまうんですよ。

● 「管弦楽が前の3つの楽章を回想するのをレチタティーヴォが否定して歓喜の歌が提示され,ついで声楽が導入されて大合唱に至るという構成」であるわけだけれども,歓喜のテーマさえレチタティーヴォは否定しているように聴こえるんだけどねぇ。
 いったんは否定しても,やはりこれだってことになったんですかね。

● ソニーがCDの生産を開始したのが1982年10月。それ以前からレコードがあったわけだけれども,昨今のクラシック音楽の大衆化現象はCDなしにはあり得なかったろう。
 その理由は複数あるけれども,第1にレンタルに向いた音源だったこと。買わずに借りてすませることができるようになった。CDラジカセでカセットテープにダビングして,ウォークマンで聴く。第2にiTunesがリッピングを可能にしたことだ。
 おかげで,第九も日常的に聴くことができるようになった。この1年で第九を何度聴いたか。たぶん,30回を下回ることはないと思う。

● となると,第九はもう日常品だ。生活必需品の範疇に入ってくる。
 けれども,CDをリッピングしてウォークマンで聴くのはそうであっても,ライヴで聴くということになると,今なお第九は特別な曲なんだろうかな。
 来年はベートーヴェン生誕250周年。第九を聴ける機会が増えるかもしれない。さっそく,5月には宇都宮シンフォニーオーケストラが第九を上演(?)する。

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