2019年2月26日火曜日

2019.02.24 フライハイト交響楽団 第45回定期演奏会

ティアラこうとう 大ホール

● 開演は午後2時。チケットは1,000円。当日券を買って入場。
 曲目は次のとおり。指揮は高橋勇太さん。
 ブラームス ハイドンの主題による変奏曲
 ブルックナー 交響曲第5番

● 昨夜は東京のホテルに泊まった。せっかくだから何か聴いて帰ろうとなる。帝都東京ともなれば,休日の同じ時間帯に開催されるコンサートは1つや2つではない。
 その中から何を選ぶか。じつはいったんは別のところに決めていた。が,急遽こちらに変更したのだ。理由は,第1にホテルから行きやすかったこと。乗換えなしですむのだ。
 曲目のこともある。ブルックナーのしかも5番を生で聴ける機会がそんなに頻繁にあるとは思えない。
 要するに,この楽団に決めたのは,半ば以上は偶然だ。別のホテルに泊まっていれば,おそらく別の楽団の演奏を聴きに行ったに違いない。

● ちなみに,楽団のサイトを確認することはほぼしなくなった。けっこうな数の楽団の演奏を聴いたので,サイトよりは自分の経験をモノサシにすればいいと思ってしまっていることも理由だが,情報発信の主な媒体をFacebookに移動するところが増えたことが大きいかも。
 ぼくはFacebookに愛想を尽かし(Facebookに愛想を尽かされ)Facebookを閉じた人間なので,Facebookは閲覧できない。で,自分がやめたから言うわけなのだが,Facebookはもう見限るべきではないか。面白いかね,あの閉じられた空間の中でワイワイやるのは。

● ともあれ。というわけで,この楽団の演奏を聴くのは今回が初めて。
 で,結論から言うと,ここにして正解だった。偶然を信頼するべきだな。
 正解だったと思う所以を以下に述べる。

● この楽団は活性度が高い。モチベーションや意欲という言葉に置き換えてもいいものだ。もともとそういうメンバーが集まっているのか,この楽団がメンバーをそうさせる場になり得ているのか。
 たぶん両方だろうが,活性度の高さを感じた。活き活きしている。楽団としての躍動感が非常に濃いという印象。

● その原因なのか結果なのか,これまたそのいずれでもあるのだろうが,個々のプレーヤーの技術水準が高い。かなり高い。
 大学生のときにオケ活動に明け暮れていた人でも,卒業してサラリーマンにでもなってしまえば,学生時代の水準を維持するのは生半なことではないと思われる。
 もっと言ってしまうと,学生のときの水準を維持するというのは加齢に抗うことでもあって,加齢が相手とあっては,いくら抗ってみたところで,まずもって勝ち目はないとしたものだ。
 社会人になってもこれだけの水準を維持しているとなると,学生のときにはどんな演奏をしていたのか。

ティアラこうとう
● 演奏は技術だけで決まるものではないと思っている。ぼくらがステージから受け取るものの質量を決める要因は,技術だけではない。そうだとすれば,中学生や高校生の演奏から受けるものがあれほど大きいことの説明がつかない。
 しかし,どうも・・・・・・技術はやはり大きいらしい。というか,何をするにしてもその核になるのは技術だろうというのは,まぁ万人の共通了解事項ではあるのだけれど。

● それはやはり,ブルックナーの5番にわかりやすく現れる。長大で,頂点がいくつもあって,主題の長い再現があって,ややもするととりとめがないという印象を与えかねないこの曲を,これだけスリリングに差しだせるその駆動力の源にあるものは,やはり技術なのだろう。
 複雑精緻なアンサンブルを,70分を超える長丁場にわたって持続させるのは,そもそもが並ではないと思われるのだが,やってのけるんだねぇ。

● とりわけ,2nd.Vnのトップ奏者が,ぼくの視野の中心を占め続けた。ピチカートの軽やかさ。楽器と身体の一体感。こいつ,何者なんだ。
 トレーナーが出演しているのかとも思ったんだけど,どうもそういう雰囲気でもない。

● というわけだから,フライハイト交響楽団という名前は憶えておくべきだ。憶えたからといって,この楽団の年2回の演奏会に必ず行けるとは限らない。そのままならなさが,世の常ではあるんだけどさ。
 そうではあっても,この楽団の名前は脳内に留めておくべきである。

2019年2月25日月曜日

2019.02.23 大妻女子大学管弦楽団 第21回定期演奏会

大妻女子大学千代田キャンパス 大妻講堂

● 大妻女子大学に侵入した。ただし,同大学管弦楽団の定演を聴くため。
 女子高や女子大というと,男子には禁断の地。こういう機会でもないと,入ることなんてできない。ドキドキしましたよ。

● といっても,女子高や女子大のように女ばかり集まるところって,女をガサツにするのではないかとも思っていてね。どうしても地を出しやすいというか,出さざるを得ないというか。
 女子力を磨きたいと思っているのなら,高校も大学も普通に男子がいるところの方がいいのでは。
 女性が多い職場にも同じことがあてはまるような気がする。保育所や小学校や病院のように女性が溢れているところよりも,建設会社とか運送会社にいる女性の方が,女子力のレベルは高い印象。

● ただ,女子力っていう言葉には,男に媚びている気配も感じるよね。若い娘さんが男に媚びなければならない理由はほぼ皆無でしょ。結婚して専業主婦になるのが女の勝ち組の筆頭というのは,昭和50年代までの発想で,平成も終わるご時世にはいかにも時代遅れだ。
 磨かなければ出ないような女子力なんて,そもそも要らないものじゃないかな。あんまり踊らない方がいいような気がする。

● つまり,女子高や女子大で伸び伸びやれるんだったら,それもいいよねってこと。唯一,女しかいないところで女は伸び伸びできるものなんだろうか,という根本的な疑問があるにはあるんだが。
 ま,大きなお世話だね。アンタに言われたくないわよ,だな。

● 開演は午後2時30分。入場無料。曲目は次のとおり。指揮は長崎亜星さん。
 スッペ 「軽騎兵」序曲
 シベリウス 交響詩「フィンランディア」 
 シベリウス 「カレリア」組曲
 近年,重量級のプログラムがあたりまえになっているが,これは軽快な印象。胃にもたれないというか。
 この組合せ,どこかで体験しているなと思った。昨年5月に聴いた東京学芸大学管弦楽団の演奏会のプログラムと同じだ。
 シベリウスの「フィンランディア」と「カレリア」を並べてくるのは,わりとよくあることなんだろうか。

● 大妻講堂も立派なものだ。大学のサイトから引用すると,「地下1階から地上4階までの吹き抜けで,天井の高さは約15mです。客席は1階770席,2階席229席,3階席204席の計1203席あります。舞台はすべてヒノキ材で作られており,高さ8.5メートルのドイツ製のパイプオルガンが設置されています」ということだ。
 大学の講堂やホールには芸大の奏楽堂をはじめ,いくつか入ったことがある。東大の安田講堂,早稲田の大隈講堂,宇都宮大学の峰ヶ丘講堂,成城大学の澤柳記念講堂,宇都宮短期大学の須賀友正記念ホール。
 が,パイプオルガンまで備えているところはなかったような気がする(芸大の奏楽堂は別格)。

● パンフレット冊子に載っている演奏者名簿には55人の名前があがっている。その中で現役生は5人しかいない。現役生が1人もいないパートもずいぶんある。
 OGの助力を,それ以上に賛助の協力を仰いでいる。賛助の中には男性もいる。それも少なくない数で,奏者の3分の1強は男性だった。

● 部員の減少に苦しんでいる。それでも何とか維持しようという涙ぐましいまでの努力が見て取れる。
 体裁を整えるだけで手一杯ということだろう。1st.Vnでは3プルト,4プルトから発せられる音の方がよく響いてくる。そもそも誰もコンミスを見ていない。
 プログラムが軽量級であったのも,ひとつにはこれが理由だろうか。演奏は休憩時間を含めて1時間で終了した。

● 多事多難というのは,こういう状態を指すためにある言葉だと思うが,努力が報われてほしいと思う一方で,あまり無理をしても,とも正直思った。
 首都圏の大学オケの多くはインカレ方式というか,他大学の学生も受け入れているところが多いのではないか。2つ以上の大学でひとつのオケを作っている例もある。他大学のオケに参加するという形で,オケ活動を継続することは可能だ。

● ぼくは自分が卒業した高校や大学にまったく冷淡で,ほとんど何の思い入れも持っていない。同窓意識もない。
 ので,ピンと来ないところがあるんだけれども,名を残したいというのもあるんだろうね。OGの中には,家政学部や文学部を卒業したのではなくて,自分は管弦楽団の卒業生なのだと考えている人もいるんだろうし。
 女子大で単独のオーケストラを持っているのは,大妻の他には日本女子大くらいのもので,稀少性もある。
 当事者は,当然,部外者よりも多くの情報を持ち,真剣に対策を考えているはずだから,当事者が出した結論を最善解とすべきなのだ。そこは動かないのだが。

2019年2月22日金曜日

2019.02.17 合奏団ZERO 第22回定期演奏会

なかのZERO 大ホール

● 2週間前に来たばかりの中野駅にまた降り立った。なぜか懐かしさを感じさせる雑踏。
 といって,他のところには用がない。まっすぐ“なかのZERO”に向かうだけだ。駅前の「中野屋」で蕎麦を食べるのを忘れてはいけないけれど。

● 開演は午後2時。チケットは1,000円。当日券を買って入場。
 曲目は次のとおり。指揮は松岡究さん。
 R.シュトラウス 四つの最後の歌
 エルガー 交響曲第1番

● R.シュトラウスの「四つの最後の歌」を聴くのは今回が2度目。1度目もこの合奏団の演奏で聴いたのだった。5年前になる。
 そのときのソリスト(ソプラノ)は松尾香世子さん。今回は松尾祐実菜さん。同じ松尾で,姉妹なのかと思ったんだけど,同一人物なんでした。

● 1度目のときもそうだったんだけど,常任指揮者の松岡究さんが,プログラム冊子の“あいさつ”で,「四つの最後の歌」について熱く語っている。
 演奏曲目の選定については,松岡さんがイニシアティブを持っているんだろうか。

● エルガーは「威風堂々」と「愛の挨拶」くらいしか知らないわけだが,交響曲1番は思いのほかの大曲なのだった。CDで聴くのもシンドそうだ。
 長いというだけではなく,演奏するのも難しそうだ。並のアマオケでは手が出ないかもしれない。

● しかし,聴いてしまったよ,この曲をね。でもって,手元にはエルガーの全集版CDがあるのだ。当然,この曲も入っている。
 聴かなければなるまいねぇ。債務(?)がどんどん増える一方だ。

2019.02.16 Orchestra HAL 第17回定期演奏会

杉並公会堂 大ホール

● オーケストラHALの定演。今回が2回目の拝聴になる。前回は2012年の第4回定演だった。だいぶ間があいてしまったけれども,やっと裏を返すことができた。
 前回の印象をひと言でいえば,若い奏者による確かな演奏というもの。このあたりは好みの問題になるだろうけれども,成長するだけ成長して,そこから先のいわゆる円熟の境地に至った演奏に,ぼくはあまり惹かれなくて。
 伸びているときの勢いのある演奏に魅力を感じる。だから,中学生や高校生の演奏を聴くのも好きだ。技術よりも勢い。将来どこまで到達できるかではなくて,現在進行形の勢いに惹かれる。

● にしても,間が空きすぎた。特別な理由はない。結果的にそうなったというだけだ。にしても,空きすぎたわけだが。
 開演は午後2時。チケットは1,000円。当日券を買って入場。
 ただし,チラシを持参すれば無料にするとか,招待券とか,実質無料といっていい。そうしているアマチュア・オーケストラは多い。
 集客のためだと思う。実際,その効果はあって,客席はほぼ満席だった。第4回のときとは様変わり。

● が,ぼく一個は,そこまでへりくだってはいけないと思っている。“聴いていただく”一辺倒ではなく,どこかに“聴かせてやる”が混入しているべきだ。
 “聴かせてやる”のに無料はあり得ない。300円でも500円でも取るべきだ。徴収の手間が大変で,いっそ無料にした方がCPがいいのかもしれないが,それでも取るべきだ。

● 中には,無料にしたうえで,寄付を募るというやり方をしているところもある。それもダメだ。
 自分の作品には自分で値付けをするべきだ。それをしないで,どれほどの価値があったのか(あるいは,なかったのか)を観客に決めてもらおうというのは,本末を転倒している。
 稀に,これで金を取ってはいかんだろうと思える演奏に遭遇することもある。その場合だけは別だ。

● 曲目は次のとおり。指揮は石毛保彦さん。
 ワーグナー 「タンホイザー」序曲
 リスト 交響詩「レ・プレリュード」
 ブラームス 交響曲第3番

● 衒いのない演奏。変化球を繰りだすことには興味がないようだ。これを愚直ともいうのだが,愚直に何事かを付加するのはいいとして,愚直さそのものをなくしてしまっては,人間もオーケストラも一巻の終わり。
 その愚直さが好印象につながる。もっとも,変化球を繰りだすなんて,怖くてできないかもしれないが。

● 特に印象に残ったのは,ブラ3の第4楽章。切先が鋭い。活きがいい。良い意味で生意気な演奏だ。攻めに行っているから,“生意気”に映るわけで。
 そこが若い楽団の魅力の最たるもの。こうでなくちゃと思う。

● 2週間前にも同じ曲を聴いている。曲は同じでも演奏は別。聴くというときに,それは演奏を聴くのか曲を聴くのか。
 二にして一で,両者を切り分けることはできないのかもしれないが,演奏を通じて曲に至るとした場合,演奏に左右されない聴き手が聴き巧者となりそうだ。想像力を利かせられる人。
 一方で,その想像力をどう喚起するかは,演奏が左右する。喚起の仕方が多様であるのが良い演奏ということか。このあたりは,頭だけで考えると袋小路に入ってしまいそうだ。

● 「醜女は3日で慣れるが,美人は3日で飽きる」という言い方がある。これから結婚しようとする若い男(最近は,若くもない例が増えているが)に与える警句だ。
 醜といい美といっても,それは顔の造作ではなく表情で決まるものだ。笑顔なら誰でも美人だ。表情の変化の様,その多彩さがすべてなのであって,生まれつきの造作はまったく本質ではない。
 しかるに,若い男は面白いほどに女の造作に囚われがちだ。ゆえに,上の警句は有効性を持つ。

● のであるが,それは音楽にはあてはまらない。美人は永遠に美人であって,3日どころか,3年経っても30年経っても,飽きることは(おそらく)ない。ブラームスの交響曲に飽きることがあり得ようか。
 なぜ,音楽においては永遠なのか。誰か教えてくれないか。ただし,長い歳月を経て古典として残っているものだから,なんぞという薄っぺらな回答なら要らないぞ。

2019年2月5日火曜日

2019.02.03 栃木県交響楽団 第106回定期演奏会

宇都宮市文化会館 大ホール

● 開演は午後2時。チケットは1,200円(前売券)。
 お客さんはよく入っている。客席が埋まるのはけっこうなことだが,行列に並ばなくてはならないのは億劫だ。
 以前からそうだったから行列に並ぶのには慣れている。慣れてはいるんだけれども,並ぶことの億劫さが年齢とともに増してきた。

● 曲目は次のとおり。指揮は地元出身の小森康弘さん。
 エロール 歌劇「ザンパ」序曲
 サン=サーンス ピアノ協奏曲第2番 ト短調
 ドビュッシー 交響詩「海」
 ラヴェル ボレロ

● 今回のおめあては「ボレロ」。この曲を生で聴くのは二度目。2016年の7月に,スペイン国立管弦楽団の演奏を栃木県総合文化センターで聴いた。
 延々と繰り返される旋律が次第に大きくなって,それが聴衆を呑みこむ。ホール全体をも呑みこんで,世界のすべてになっていく。それがもたらす陶酔感が半端ない。その陶酔感をまた味わいたいと思ったのだった。

● 小太鼓がリズムを刻み,管が絡んでメロディを奏でる。が、待ちのある弦の奏者も神経を消耗するのではないか。出方がわずかでも狂えば,この曲は台なしになる。最も消耗するのは指揮者かもしれぬ。奏者にとっては厳しい曲かと思う。
 が,それゆえにこそ,聴衆にとってはめっぽう面白い。奏者と聴衆の利害は,表層的には対立するのだ。

● が,今回の収穫の第一は,サン=サーンスのピアノ協奏曲第2番だったか。天才の非常なる早書きでできあがった曲らしい。3楽章に分かれてはいるものの,ピアノも管弦楽も一気呵成に駆け抜ける。駆け抜けた後に残る余韻。
 第1にはソリスト(渚智佳さん)の力量と構えによる。しかし,特に第3楽章における栃響の応接はほぼ完璧だったのではないか。つまり,第2には栃響管弦楽の水準の高さによる。

● ぼくらは(いや,ぼくは,と言い直そうか),地元にあるそれやこれやを見くびりがちだ。地元にあるということは,すなわち,大したものではないという。
 栃響にもその法則(?)をあてはめてしまいがちだ。とんでもない話であって,このオーケストラのレベルの高さは,もっと称揚されて然るべきだろう。

● チェロ協奏曲は昨日も聴いたし,これまで何度か聴く機会があった。が,ピアノ協奏曲となると,2番に限らず,生で聴いた記憶はない。この先もおそらくないんじゃないかと思う。
 が,この演奏を聴いたあとでは,それでもいいかなと思える。CDはあるんだから,CDを聴けばいいのだ。

● エロールという作曲家がいたことは,今日知った。Wikipediaによれば,代表作の「ザンパ」は「フランスとドイツで非常に人気があり,両国では今なお随時舞台化される」ものであるらしい。
 ぼくは名前も知らなかったくらいだから,CDも持っていない。YouTubeで聴くことはもちろんできる。それでよしとするか。

2019年2月4日月曜日

2019.02.02 東京セラフィックオーケストラ‏ 第14回定期演奏会

なかのZERO 大ホール

● この楽団の演奏を聴くのは今回が初めてだ。なぜ聴く気になったのかというと,非常に下世話な理由だ。
 今夜,東京のホテルに泊まることにした。せっかく東京に出るんだから,行きがけの駄賃がないかと“オケ専”を探した。ら,さすがは東京で,いくつか引っかかった。その中からこれを選んだのは,曲目の魅力。
 いや,じつをいうと,先月聴いたJR東日本交響楽団の演奏会で,今回のチラシが配られたので,一応,目星は付けていたわけなんでした。

● なかのZEROは今日が初めてではない。何度か来ている。久しぶりに中野に行くのもいいなと思ったせいもある。
 中野って新宿の隣なのに,新宿とはガラッと様相を変える。下町的な雑踏がある。そういうの,嫌いじゃないので。中野駅からなかのZEROまでの短い距離を歩くだけで,その下町情緒(?)をタップリと味わうことができる。

● 開演は午後2時。チケットは1,000円。当日券を買って入場。
 曲目は次のとおり。指揮は横島勝人さん。
 ベートーヴェン 献堂式序曲
 サン=サーンス チェロ協奏曲第1番
 ブラームス 交響曲第3番

● ベートーヴェンの序曲の中で,「コリオラン」や「レオノーレ」は聴く機会が多いけれども,「献堂式」を聴くのは,ひょっとしたら今回が初めてかもしれない。
 ぼくに語れることはあまりない。CDは複数持っているので,せいぜい聴いていかないとということ。

● 協奏曲というと,ぼくの頭にあるのはモーツァルトであって,特に最晩年のクラリネット協奏曲だ。この世のものとは思えない,清冽で気高さを感じさせる管弦の音の連なり。
 モーツァルトの協奏曲は管弦楽が主役で,独奏楽器を抜いてしまっても,基調はそのままでかなりの部分が残るような印象がある。ぼくは長らく,協奏曲とはそういうものだと思っていたのだ。

● ところが,サン=サーンスのチェロ協奏曲においては,管弦楽は後ろに退く感がある。独奏チェロが骨格を描いていく。
 その独奏チェロ,今回は飯尾久香さん。軽快な印象を受けた。重厚さはこれを排す,的な。したがって,曲全体の印象も同じようなものになる。

● ブラームスの4つの交響曲の中で,3番は比較的演奏される機会が少ない。といっても,そこはブラームスだから,それなりに馴染みはあるわけだが。
 ブラームスと古典的なソナタ形式は相性がいいのか,それとも反発するのか。そんなことを考えながら聴いていた。ベートーヴェンの後継者であり,ロマン派の中で古典派の枠組みを維持しようとした人というイメージがあったんだけど(ワーグナーとの対立が強調されたりするし),どうなんだろうね。

● 東京には限りなくプロに近い演奏をするアマオケがいくつかあると思うんだけど,演奏者の層の厚さは,地方とは隔絶している。一極集中の良し悪しを言ってみても仕方がないが(っていうか,ぼくは一極集中を望ましいものと考えているのだが),あきれるほどの東京一極集中。
 この楽団は“限りなくプロに近い演奏をするアマオケ”ではないと思うけれども,それにしても,ここまでの厚みでブラ3を造形できるんだから,何だか凄いよね,東京って。