2019年8月31日土曜日

2019.08.25 ユニコーン・シンフォニー・オーケストラ 第10回記念定期演奏会

第一生命ホール

● ユニコーン・シンフォニー・オーケストラの演奏は2回ほど聴いていると思っていた。のだが,実際には1回しか聴いていなかった。5年前に第5回定演を聴いているのだが,それだけだった。
 記憶なんざアテにならないな。自分の記憶を信じるな。

● 開演は午後2時。当日券(1,000円)を買って入場。そのチケットが右の写真のようなもの。QRコードのチケットは初めてだ。
 モギる代わりに,スマホでQRコードを読み取っていく。モギった方が列は速く進むのだが,こうしておけば入場者がすべて入場した時点で,データ処理は完了している。分けたり数えたりする手間は不要になるのだろう。

● これから増えるのかね,こういうの。唯一の問題は,チケットに味も素っ気もなくなることだ。チケットを記念に保存しておく,手帳に綴じこんでおく,アルバムに貼っておく,という人はけっこういそうな気がする。
 ぼくもこうして自分のブログに貼って残しているのだが,そういうことをするのはすでに時代遅れなのかもね。

● 曲目は次のとおり。指揮は神成大輝さん。藝大の学部を終えたばかりのバリバリの若手。
 ニールセン 序曲「ヘリオス」
 芥川也寸志 交響三章
 シベリウス 交響曲第2番 ニ長調

● この楽団は2010年に結成されたのだが,今でも奏者の平均年齢はかなり若いという印象。清新であり,明確に覇気があり,気合が載っていて(空回りするほどには載せていない),しかも技術の裏打ちがある。

● 圧巻は交響三章。芥川也寸志は日本音楽史にしかるべく位置づけられているのだろうが,曲目解説に伊福部昭の影響が見られるとあり,なるほどと思った。といって,語れるほどに伊福部作品を聴いているわけではないので,このくらいにしておく。
 こちらが現代音楽的と捉えられる現代性は1950年までで,それ以降になるともはや訳のわからないものになってしまう。ぼくだけのことかもしれないけれど。

● シベリウスの2番も聴きごたえがあった。シベリウスの7つの交響曲の中で,最も演奏しがいのあるのもこの2番ですか。
 CDはカラヤンで聴いているが,指揮者やオーケストラがどこの誰だろうと,生で聴くのに比べたら,隔靴掻痒の感を免れない。ぼくはWALKMANしか持っていなくて,もっぱらWALKMANで聴くので尚更かもしれないのだが。
 生で聴く醍醐味というのは当然あるわけだが,その醍醐味の多くは視覚から入ってくるものだ。その大半が演奏しているときの,オーケストラの美しさだ。

● 指揮の神成大輝さん,これほど若い指揮者の指揮ぶりを見るのは初めてだ。昔と違って,今は,指揮者と演奏者が演奏する曲に関して持っている情報量に大差はないはずだ。
 自分のパート譜しか見ないという演奏者は少ないだろう。スコアを読むはずだし,読みたければすぐに手に入る時代だ。指揮者以上に深く読める奏者もいるだろう。

● という中で,指揮者がどうすれば自分の描く音楽を奏者に伝達できるか。説得できるか。考えてみればこれは難題中の難題ではないか。先鋭な議論を避けるという日本人の麗しき(?)慣習もだいぶ変わってきている。
 指揮者が奏者に説得されるという状況だってあり得ると思われる。指揮者にとっては難しい時代だし,昔のように権威をまとう指揮者は出にくい時代だろう。

● 若い神成さんがそのあたりをどう対処しているのかはわからないが,少なくとも統率はできている。自分の意思を伝えて,オケはそれに従っている。
 結局,こういうものは才能ってことになるんだろうか。言語による伝達以前に,従わせるあるいは従いたくさせるオーラやムードのようなものをまとっているということだろうか。
 ひょっとするとオケに擦り寄っている? そういう卑屈さは感じない。指揮台にスックと立っている。

● このオーケストラは「慶應義塾中等部の卒業生有志が集まって2010年に結成した」とある。生粋の慶應人だ。
 慶應を卒業している人は,ぼくの知り合いの中にもいる。が,例外なく,大学からの慶應ボーイ。すなわち,外様。初等部からずっと慶應だという人たちとの間には,それこそ抜きがたいガラスの壁があるのかもしれない。

● ぼくは田舎の貧農の小倅だから,そういう世界とは無縁だ。だから気楽にものを言うのだが,外様ではない親藩・譜代の慶應という世界があるとして,そういう世界に所属することのメリット・デメリットを計算すると,たぶんデメリットの方が大きいのではないかと思っている。
 しょせん,1人で立たなきゃいけないのが世の中ってものだから。出自がその邪魔をすることが稀にあるかもしれない。

● 慶應世界が濃密なものだとして(たぶん,そうじゃないと思うが),その濃密さとは比較にもならないが,ぼくにも高校,大学の同窓会があり,同窓生がいる。
 でもって,今でもつきあいを維持している同窓生は1人もいない。同窓会に出たことなど絶えてない。意図的にそうしたわけではないが,それでいいのだと思っている。

● 誰の言葉だったか,友人にも賞味期限がある。卒業して,住む世界が違ってしまえば,話も合わなくなる。慶應世界でもそれは同じだろう。
 にもかかわらず,慶應世界に絡め取られるような卒業生がもしいるとすれば(いないと思うが),それこそが慶應世界に属することのデメリットだろうと思う。

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